夢うつつ
瞬きを繰り返す。
黒々とした沼の上に座り込んでいた。不思議と体が水の中に沈み込むことはない。水を掬ってみると指先からするすると零れて、最後にはわずかな名残だけを残しかえっていく。不意に、高いところから水が弾ける澄んだ音がした。視線が音を追いかけると、銀色に輝く巨大な大樹があった。
沼の中に根を張り巡らせ、大樹の枝は無数に分岐しながらも、天へ波紋のように広がっていた。よく見ると天へ近づくにつれ、葉の色は精彩を欠いていき、どうしてか色褪せ鄙びた脆い添木の先ばかりに葉が茂っている。
「いかないで。あたしをひとりにしないで。一生のお願いだからっ、ずっと、一緒にいて」
一際綺麗な葉に指先が掠ると、懐かしい声が耳を打つ。聞いているこっちの胸がつぶれてしまいそうな悲痛な声が、周囲の風景を塗り替えていく。
「ごめんな、リコ。そのお願いはかなえてあげられないけど、代わりに大事な約束をしよう」
心の水面に細波が立つ。彼の甘い声が愛称を呼ぶ。生き別れることになった大好きな幼馴染の男の子にしがみつく。十に届かない幼い自分。赤い髪と雪色の髪が絡まり合いながら風にたなびく。
「やくそく、するっ……だから、レオくんはあたしのことを忘れないでっ。あたしも、レオくんのことぜったいにわすれたりしない」
月のない夜空には無数の星が散らばりその果てを望むことはできない。ここから見える星たちはあんなに近くに感じるのに、本当はとても遠くにあるのだと、賢い幼馴染はとっくに知っていただろう。
「うん、離れ離れになっても、おれたちはずっとお友達だよ。おれは、絶対にリコの味方だよ」
小指を絡め、「再会したら一緒に流星群を見よう」と約束を交わしてくれたあの優しすぎる幼馴染は、一体どこでどうしているのだろう。未来に起こることなんて何一つ知る由もないあの頃の無邪気な姿に胸の柔らかいところがずきずきと痛む。
『ごめんね』、届くはずがないと知りながら小さく過去に謝ると、どろりと、鉄さび色の葉が目の前で溶けだしていった。
午前二時半過ぎ。すっかり、お嬢、魔女、モグラ姫なんていう若干不本意な呼び名の数々が、この宇宙船「竜宮城」で定着したてしまった女―――リコリスは、うなされていた。意識は夢心地のままだったが、発汗する身体と異様な熱に悩まされ、人知れず唸り声を漏らしていた。
「うっ」
熱いとうなされるリコリスのきめ細かい肌色の肢体に突然、鱗のように赤い石がメキメキッと音を立てて覆っていく。
リコリスは夢から覚め、零れんばかりに目を開き、言葉にならない悲鳴を押し殺すした。明滅を繰り返すように、浮かんでは消えるその赤は、体を変質させる耐えがたい苦痛を伴った。鱗のように赤い石が発疹のように覆う。背中から赤い石がめきめきと音を立てて身体という殻を破ろうとする勢いで生えていく。
長引く激しい痛みが、くの字に折り曲げた体を侵していく。どれだけ転げ回ろうが、苦痛ばかりが続き死にきれないし、死ぬわけにもいかない。
「イッ、はぁはぁ……」
右手の人差し指と中指を合わせすっと上から下へスライドさせ、仮想ウィンドウを呼び出す。いつもの基本動作ですら、ひどく億劫だった。ベッドわきの棚に手を伸ばし中に転がる錠剤を水なしで飲み込む。
水面に無数の波紋がぶつかり合っては消し合うように、数分後、ようやく緋色が引いていった。
「はははっ、まるで、拷問みたいね……逃れられないか」
ゆっくりとした動作で人肌のぬくもりを持つ布団からけだるげに、上体を起こした。いつものプログラムを常に肌身離れず浮遊するデバイスに送り込みながら、リコリスは、ベッドの中から這い出た。外の見える窓に、顔を押し付ける。星粒がきらめく濃紺の世界に、人差し指と中指をそろえて上から下へと軽くスライドさせる。
―――十月二十七日午前二時。
点滅する現在時刻にふと、虚空に指を躍らせギャラリーから、昔の写真を表示させる。
「かあさま、カンナ・カムイさま……今日で五年目ですね。今も、この宇宙のどこかに……」
五年前、リコリスは生まれ故郷から着の身、着のまま同然の姿で飛び出した。三日間、飲まず食わずで、宇宙という大海原を密閉カプセル型のボートでさまよい続けた記憶は、まだ記憶に新しい。ただ、心臓が脈打ち、脳が動いていれば生きていると言えるのだろうか。一人は寂しくて、寂しくてたまらなかった。誰の耳にも届かない。誰の目にも映らない。誰の温度も届かない。
「あたしは、本当に運がよかったわ。……かあさま。ここの人たちは本当にいい人たちばかり……あたしにはもったいないくらい」
厄介になっているこの船の船長たちが見つけてくれなかったら今も、この窓の外に一人いたかもしれない。リコリスは、肌寒さに身をすくめる。身体を温めるために暖房器具のスイッチを入れると、機械音とともに生暖かい風が流れて気持ちが落ち着いていく。
「レオくん、怒ってるだろうな」
頬に水滴が落ちる。ふとんに潜り込み顔をうずめながら、どうしてあんな夢を見てしまったのだろうかと答えのない問いかけをこぼす。あふれる涙は目を焼くほどに熱くて、口の中に苦さがひろがる。
「ごめん、ごめんね」
干乾びた唇がひきつったような笑いを含んだ掠れた吐息をこぼす。レグルスと、幼馴染の名を唇がぎこちなく形作る。点々と緋色に穢れた体を抱きしめながら、再び気を失うようにして眠りに落ちた。
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