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3、衝撃的な事件からの不安

 ドアが開いた衝撃でナイフは軽く服を切った。すぐさま男は沙代から飛び降り、部屋の中に入ってきた青年を睨みつけた。解放された口から新鮮な空気が入ってくる。激しく呼吸をしながら、沙代は起きあがった。

 入ってきた青年は、鋭い視線を向ける藤野だった。

 彼は沙代の姿を見て軽く目を見開きつつも、視線を目だし帽の男へ戻す。

 男はナイフをゆらゆらとちらつかせながら軽く突きをするが、簡単に藤野はかわした。だが男は口元を緩めるなり、左手で拳を突き上げる。藤野はすれすれで数歩下がって、間合いを取った。

 お互い睨みつけながら、部屋の中でぐるぐると回る。先に手を出したのは男の方で、ナイフを投げるなり、間合いを詰め寄ってきた。

 ナイフを避け、逆方向から突き出された拳を横目で見ながら藤野はかわす。さらに男はしゃがみ込み、彼の足下に蹴りを入れる。しかしその前に彼は軽く飛び上がって、空中で男の顔に蹴りを入れた。男のくぐもった声が聞こえる。怯んだ隙に藤野は男を羽交い締めにして、その場で拘束した。

 目だし帽を取り、素顔を晒す。髭の生えた中年の男性だった。

「離せ!」

「――お前の依頼者は本当に馬鹿なのか。一度は忠告を与えたつもりだが、またのこのこ現れるとは」

「俺は勝手に――いててて!」

 否定しようとした男の腕をさらにきつく捻る。

「前回は未遂だったが、今回は彼女を傷つけた。それは事実だ」

 呼吸が整ってきた沙代は目の前にある鏡を見る。男に捕まれた口回りは赤く腫れ、胸元は服が切られ、僅かだが血が滲んでいた。背筋に悪寒が走った。

 もし藤野が現れなかったら、もしくは踏み込んでくるのが遅かったら――何が起こったのか考えたくもない。

「逮捕する」

 腰から手錠を取り出し、男の手元のすぐ傍に寄せる。しかし男はそれを見ながら鼻で笑った。

「……っは、俺を逮捕したら、嬢ちゃんにも影響がでるぜ。それでもいいのか? 事情聴取、家宅捜索、周囲からの奇異の目……集中して研究できると思うか?」

 男は的を突いて言い返す。期限がある中で他のことに時間を消費されたり、精神をすり潰されるようなことがあれば、沙代としてはかなり厳しい状況下に陥るだろう。

 沙代は無言のままシーツを握りしめる。藤野は横目でその様子を見つつ、笑みを浮かべた。

「お前は馬鹿か。護衛者に悪影響が及ぼすことを俺がするわけないだろう」

「なら俺を解放――」

「周りに気づかれずに秘密裏に警察に突き出す方法ならいくらでもある。彼女に負担がかかるのはせいぜい僅かな事情聴取の時間だけだ」

 男の顔から血の気が引いた。逃げようと暴れるが、さらにきつく締め上げられ、動くのも困難になる。藤野の瞳が沙代へと向けられた。

「逮捕するぞ、いいな。お前の許しがないと俺は動けない。逮捕することでお前に多少なりとも影響が出るからだ」

 沙代は一瞬返答に詰まった。特別な能力もない自分のせいで、この人の人生は変わってしまう。それに躊躇したが、さっき感じた不安な想いは消えなかった。両手を見れば震えが止まっていない。

 こくりと頷くと、かちゃりと小気味のいい音が二回して、男の手は手錠によって拘束された。

 沙代は立ちあがり、少しだけ藤野に近寄った。その際、男の鋭い視線が向かれたため、それから逃れるかのように彼の後ろへと移動する。すると背中越しから声を投げかけられた。

「部屋の端にでもいろ。こういう猛獣は獲物が近くにいると、何をしでかすかわからない」

 藤野の忠告通り、沙代は一歩下がり、男の視線外にある椅子へと座りこんだ。座り込むとどっと疲れが襲ってくる。そこで藤野が誰かに電話している声を、左から右へと聞き流していた。



「つまり顔が掴まれたのと、服が切られて負った胸の傷以外は被害ないのね?」

「はい……。ただ先に侵入されていたので、部屋の中の物がどうなっているかはわかりません」

「それはわかり次第連絡をくれればいい。――病院に行くのも嫌だろうから、簡単な手当だけでいい?」

「それで構いません。酷い怪我ではないので」

 応急処置道具を持ってきた二十代半ばの茶髪の女性警察官に軽く胸元を見せると、彼女は消毒液で軽く血を拭き取ってから処置をし始めた。

 藤野の言ったとおり、周囲には迷惑をかけずに事が進んでいた。富重(とみしげ)博士の耳には報告がいくが、それ以外の耳には入らないよう、細心の注意を払っているらしい。

 彼が連絡を入れて間もなくして、洗濯機が入った段ボールを担いできた二人の男性と肩掛け鞄を背負った一人の女性が現れたのだ。だが段ボールの中身は空であり、業者の姿をした人々は警察官たち。

 どうやら沙代が洗濯機を新たに購入したという設定になったようだ。

 業者の姿をした女性が作業用の帽子を取ると、押さえつけられている男に注射針を向けた。

「安心しなさい、医師免許は持っているわ。むしろ下手に動くと変なところに刺さって、痛い思いするわよ?」

 女性が針を真上に向けて液を垂らしながら、男を冷たい目で見下ろす。観念したのか男は苦悶に満ちた表情で大人しく針に刺され、眠らされた。

 動かなくなった男を箱の中に入れると、二人の警察官はそそくさと部屋の外へと出て行った。

 ようやく危機が去ったと実感し、ほっと胸をなで下ろす。女性は沙代の姿を見ると眉をひそませた。

「初めまして、古田沙代。藤野から話は聞いているわ。私は小出(こいで)(いずみ)。未遂……でいいのかしら?」

「そうですね。これはちょっとした衝撃で触れただけですので……」

 その後、泉は被害の状況を簡単に聞き出すと、沙代のことを治療し始めたのだった。藤野は背を向けて、台所に立っているようだ。

「最近のアパートは壁が厚いし、左隣の住民はいなく、右隣の住民は部屋を空けているようだから、たぶん何かあったとはわからないはずよ。安心しなさい」

「それは良かったです。余計な噂をされるのは嫌ですから……」

 泉は治療を終えると、後ろで突っ立っていた藤野に顔を向けた。

「藤野、私がしばらくここにいるから、何か甘いものでも買ってきなさい」

「は?」

 腕を組んでいた藤野は唐突な言葉に腕を緩ませていた。

「こういう時は美味しいものを食べるのに限るのよ。はい、行った、行った!」

 追い立てられるように言われ、藤野は沙代のことを一瞬だけ見てから、渋々と外に出て行った。

 藤野のことを呼び捨てにした泉を、目を瞬かせながら眺める。その視線に気づいた彼女は首を傾げた。

「何?」

「いえ、藤野さんと親しいんですね……」

「課は違うとはいえ、同じ職場で働いているからね。あと私が持っている免許の関係で、護衛対象が傷ついたから、秘密裏に治療して欲しいってたまに頼まれるの。病院にでも行かせればいいじゃないって言うけど、事情が事情だから頼んでいるって言われた……。今回も本当にあいつらしい。深川原研究所ではなく、静山谷研究所が市長の目に止まって欲しくて、貴女に一秒たりとも時間を無駄にして欲しくないんでしょう」

「え……? 仕事だから私の護衛をしているんじゃないですか? どうしてそんな言い方を……」

 目を丸くしていると泉は罰が悪そうな表情をする。そして頬をぽりぽりかきながら口を開いた。

「聞いていないみたいね。まああいつは自分のことをぺらぺら喋る人間じゃないから、当たり前か。――詳細はあとで藤野から聞いて。私は事実しか言わない」

 ごくりと唾を飲み込んで沙代は言葉を待つ。

 そして泉は事実だけ口に出した。


「藤野誠一は元深川原研究所の研究員よ」



 藤野がフルーツがたくさん乗ったゼリーを持って戻ってきたのと入れ替わりに、泉は職場へと戻った。本当ならば同姓と一緒の方が楽であったが、彼女には彼女の仕事がある。警備課で依頼を受けている彼に、再度沙代のことを任せてから出て行っていた。

 泉が去ると途端に空気が重くなった。沙代は気を紛らわそうとテレビを付ける。見たい番組は放映されない日だったため、ニュース番組にした。

 藤野はゼリーが入った箱を渡すと、台所付近に下がった。沙代はテーブルに箱を置いて中身を開いて確認する。そして数瞬、間を置いてから藤野に視線を送った。

「一緒にゼリー食べませんか? 二つありますし」

「いや、それは両方ともお前のものだ。一つだと格好が付かないから、二つ買っただけだ」

「でも見守られながら食べるのは気が引けます。護衛者の付き合いだと思って……お願いします」

 一歩も引かない沙代を彼は口を一文字にして見る。やがてテーブルを挟んでいるもう一つの椅子に渋々と腰を下ろした。

 沙代は台所にある冷蔵庫から飲み物を取り出し、それを二人分コップに注いでテーブルの上へと置く。そして彼の真正面に座り、ゼリーを分けると頭を下げた。

「……先ほどはありがとうございました。藤野さんがいなければ、どうなっていたことか……」

「いや、お礼を言われる筋合いはない。むしろ謝らなければならない。俺がもう少し強く言って、部屋まで送っていれば良かった。三重のセキュリティなど、工夫次第で突破は不可能ではないからな。怖い思いをさせて、すまなかった……」

「いえ。私がもう少し危機感を持てば良かっただけです。――あの」

 視線を下げていた沙代は顔を上げて、藤野の瞳を見つめる。機嫌が悪そうな表情や、近寄りにくい言葉遣いだが、根は他人思いのとてもいい青年だと泉から言い渡された。

 それを信じて、意を決して口を開いた。


「式典での披露会が終わるまで、私のことを護ってくれませんか?」


 彼の存在をやや迷惑だと思っていたが、二度も危機を救ってくれたのは紛れもない事実だ。もし本気で沙代を披露会当日に出させないとすれば、これからが本番といっても過言ではない。

 藤野は少しだけ目を細め、ふっと笑った。

「お前に頼まれなくてもそのつもりで仕事を引き受けた。むしろ嫌がってでも守り抜く」

「あ、ありがとうございます……。あとすみません、なるべく藤野さんの言うことを聞きますので、部屋まで送るとか、こういう所を避けて通ってほしいとかありましたら、言ってください」

「いいのか?」

 軽く目を見開かれる。護衛する側としては護衛者に勝手に動かれない方が有難いはずだ。それなのになぜ問い返されるのだろうか。

「こちらが何も言わずに普段と変わらない生活をしていた方が、よりいい発想をしやすくないか?」

 また研究者や思考を要する職に寄っている言い方。彼がかつて研究者であったと知った今なら、納得できるものだった。

「大丈夫ですよ。どうせ発想を練るために物思いにふけっている時は、周囲の違いに注意なんか向けていないんですから」

 沙代は視線を逸らして、テーブルの下にある両手を握りしめる。

「それに……自分が怖い目に遭うくらいなら……言うこと聞いている方が……気持ち的に……楽ですから」

 言っている途中で我慢していた涙が流れ落ちる。緊張の糸が一気に切れたようだ。手で口元を押さえて嗚咽を堪えようとする。

 藤野は視線を逸らし、そっとハンカチを沙代の前に置いた。そして彼は立ち上がり、軽く頭を叩いてから、背を向けて玄関の方へと行ってしまった。細身だがしっかりとした体つきの背中が向けられる。

 彼なりの気遣いなのだろう。ハンカチを有り難く拝借し、顔を埋めて涙が流れ落ち切るまですすり泣いた。

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