8
硬い陶器や金属のぶつかる音がして目が覚めた。
明るかった外がいつの間にか薄暗くなっている。
起き上がって後ろを振り向いた。台所で何かをしている清一がいる。
作業に集中しているようで声をかけるのがためらわれた。
だが程無くしてこちらに気がついたのか、笑顔を返してくる。
「おはようございます甚之助さん。よく眠れましたか」
「ああ……ええと、おかえり」
いつ戻ってきたのだろう。帰ってきたばかりで休まずに動いて疲れたりしないのか。そう思っていると味噌のいい香りがした。
そう言えば、今朝から何も食べていない。
「あ、ごはん出来てますよ。雑炊は温め直したんですが食べますか……?」
「おま……清一はどうするんだ」
「僕はそんなに食欲が無いので、まだ良いです」
「じゃあ俺もそれで」
「わかりました、もう少し後で食べましょうか」
火を消す音がして一通りの作業を終えたのだろう。彼はこちらに来て隣に座った。
「……」
「……」
沈黙が流れる。別にそれが気まずく感じたわけではない。
だがとある点で物凄く気になったので声をかけてみる。
「……なあ」
「どうしました」
「何で、頭を撫でてるんだ」
清一は隣に座ってから真っ先に俺の頭を撫で始めた。
昨日から常々疑問に思う。
なぜこいつはこんなにもスキンシップが激しいのかと。
「甚之助さんが好きだから」
「……意味が分からない」
俺には到底、彼の言葉が理解できそうにない。
こいつが何かの病気なんだろうかとさえ思う。
一人だと寂しくて死んでしまう病とか。ウサギ症候群とか。
「解らなくていいんです。僕があなたを好きだって事を知っていて貰えたら」
「ああ……ああ」
確かに嫌いな奴にスキンシップはしないだろう。自分から話しかけたりしようとは思わないだろうし。基本は無関心でいられる事が多いと思う。
だからと言ってこの愛情表現は度を越えていると思う。
俺は子供じゃない。そんな事を言った所で聞き入れる奴だとは思わないが。
再び沈黙が流れた。少しの間おとなしくしていた。
だが頭を撫でられているせいでやはり落ち着かない。
何か話してないと気が紛れそうになかった。
「……今日電話借りた」
「……」
「会社に電話したんだ……無断で休むのもどうかと思って」
「………」
「そしたらやっぱり俺は秋堅って言う名前だったらしい事が分かって少しほっとしたよ」
「…………」
「本当は外に出て警察に行ったり色々したかったんだが……鍵が無かったから勝手に出るのもどうかと思って……?」
頭を撫でていた手が止まる。
いつも笑顔の筈の清一の顔が何故か強張っている。
何かまずい事でも言っただろうか。それともどこか調子でも悪いのか。
考えていると急に肩を掴まれる。凄い力だった。
「何だよ……何か気に障るようなことでもいっ……」
「甚之助さん、あなたは今のままでいて下さい」
諭すような口調でそう言われる。急にそんな事を言われてもやはり状況が飲み込めない。
「理由が分からない。記憶喪失のままでいたら色々と不便だろう。仕事にも支障が出る、家にだって帰れないんだ」
「仕事なら僕がしてるじゃありませんか」
「無茶苦茶を言うな、もう俺は子供じゃないんだ。誰かに食わせてもらうような年齢でもないし、ましてやお前はただの他人だろう」
命を助けてもらった、それだけでも感謝するべきだ。それなのに数日間介抱までして貰っている。これ以上甘えるわけにもいかないのだ。
「他人じゃありませんよ……他人なんかじゃない」
言い方がきつすぎたのだろうか。彼は今にも泣きそうな顔をしていた。
「他人じゃないって……どう言う事だ」
「……」
「俺達は知り合いなのか」
「あなたは何も思い出さなくて良いんです」
さっきから何だと言うのだ。
確かに俺の言い方も悪かったのかもしれない。
けれど、そんなに頑なに黙る事はないだろう。本当は親しかったかどうかを訊いているだけなのだ。
何も教えてもらえないまま一方的に言われる事に腹が立った。
このままでいる?冗談じゃない。
「どんな事情があるのかは知らないが、少なくとも俺は隠し事をするような奴と一緒にいる気は無い」
自分の事を知る権利ぐらい誰にでもあるはずなのだ。それを止められる筋合いは無い。
腹立たしさから、彼を突き飛ばしてしまった。
後ろに大きく仰け反って酷く傷ついたような顔をした。うつむいて唇を噛み締めている。
「どうして思い出そうとするんですか、どうして……」
そのまま彼は嗚咽をこぼしながら泣き出してしまった。
-どうして君が-
-どうして-
彼の姿を見てふっと何かを思い出す。
それがいつだったかは覚えていない。けど俺の目の前でこうして泣いていた人がいた。彼は小さな声でどうしてとしきりに呟いていたと思う。
その姿を見ていると何故かやるせない気持ちになった。そして罪悪感に襲われた気がする。
彼が泣いていたのはいつも俺の事を想ってくれての事だったから。
すっと頭が冷えて冷静に考えられるようになった。清一は確かに人の話をあまり聞かない。だが、その言動に意味が無いわけではないと思う。
記憶を思い出すなといっているのも恐らく理由があっての事なのだ。
勢いに任せて彼を傷つけた事を後悔した。
「すまない、俺が悪かった」
背中に手を回して抱きしめる。彼がやってくれたように。
子供をあやすように何度も背中を撫でた。
撫でながら何度も謝罪をした。
もっと話をきちんと聞いていれば彼が傷つく事はなかったのだ。
許して貰えなくてもいい。ただその傷が残らなければいいと思った。
暫くして泣き止んだ彼の目は真っ赤に腫れていた。
鼻をぐずつかせる姿は本当に兎そのものに見える。
目許も擦ったせいで皮膚が少し荒れているように見えた。
「……すまない」
彼の目を見て頭を下げる。ここまで泣くなんて予想もしていなかったが傷ついたのは確かだと思う。
考えてみれば無理に記憶を思い出そうとする必要は無かったのだ。
現に会社内で俺という存在はいるという確認は取れた。だったら金銭的な面は一緒に働いて補っていける。
大丈夫だ。何とかなる。
あえてそう思い込むことにした。
「甚之助さん……僕の事嫌いにならないで下さい」
縋る様に抱きついてきた。その肩をあえて引き剥がそうとは思わない。
気の済むまで好きにしていればいい。そう思う。
「嫌いでは……ない。命の恩人なんだ」
「僕は、命の恩人なんかじゃないんです。あなたがいないと死んでしまうから」
「それは言い過ぎじゃないか」
「……本当なんです。あなたがいるから僕は……」
つくづく不思議な奴だ。何も覚えていないから俺が彼の価値観を否定するのはあまりよろしくない事だとは思う。
だからと言ってこんなに感情的になる必要があるのだろうか。
「……解った、もう記憶を思い出そうとしたりしない」
これは口からでまかせだ。けれど彼を不安にさせるような事を目の前でするつもりはない。気づかれなければいいのだ。
「だからせめて俺とお前の関係くらい教えてくれてもいいんじゃないか」
記憶を思い出したりはしません。だから代わりに情報を下さい。
自分の行動が酷く矛盾していると思った。だがあえて気にしない事にする。
それに、もしこれで何も教えて貰えなくても無理に聞くつもりはなかった。
やや暫く口ごもった後、彼は言った
「…………恋人……?」
と。