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今朝、目を覚ますと一緒に寝ていた筈の清一がいない。
傍らのテーブルを見るとメモが置いてあった。
"夕方には戻ります"と書かれている。
傍に雑炊の盛られた小振りの丼が置かれていた。
仕事か、もしくは大学にでも行ったのだろう。
そう言えば俺も社会人だった。
記憶が無いとはいえ無断で仕事を休んでは周りの心象も悪いだろう。
でも、俺が働いているのは何処の会社なのか。
考えていると昨日電話しようとしていたのを思い出す。
昨日貰った名刺入れから名刺を取り出そうとした。
だが何故か昨日まであった名刺が一枚も無い。これはどういうことだろう。
記憶が戻るかもしれないと期待していただけに落胆を隠し切れなかった。
どうしたらいいのか。内心は慌てていたが勤めて冷静に考える。
そして導き出される一つの結論。幸い、会社の名前は覚えていた。
電話帳か何かがあれば電話番号くらいすぐに見つかるかもしれない。
そうと判ればする事は一つだけ。俺は盗人のように家の中を漁り始めた。
10分位して、本棚の裏に黄色の電話帳が落ちているのを見つける。
まるで隠すように置いてあったそれ。だが今は何でそんな場所にそんなものが落ちていたとかそんな事を気にしている場合じゃない。
分厚い本を開いてサ行のページを探す。
桜葉食品は……あった。
電話番号を覚えるとリビングにあった電話機で指定の番号のボタンを押す。
受話器口から聞こえるコール音。緊張からか手に汗をかいていた。
「おはようございます、桜葉食品営業課鈴木でございます」
女性の声が聞こえて心臓が早鐘を打つ。落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら深呼吸した。
「……おはようございます、秋堅です」
「ああ、秋堅さん、おはようございます」
溌剌とした女性の声が聞こえて自分が秋堅である確信が持てた。
「あの、申し訳ないんですが……体調があまり優れなくて、本日は欠勤させていただきたいのですが」
「あら、風邪でも引いたんですか……?」
「そういうわけでもないんですが……」
「そうですか、分かりました。課長には欠勤する事を伝えておきますね」
「よろしくお願いします」
暫く間を空けて受話器を置いた。
これで無断欠勤は避けられる。後は、清一と会う前に着ていたスーツをさがして明日は会社に行く。
住所も調べたし、これで問題ないように思えた。
(外に出ようにも鍵もないしな……今日もおとなしくしているか…)
急に手持ち無沙汰になると何をすればいいか分からなくなる。
辺りを見渡す。廊下に続く扉の横にカレンダーが掛かっていた。
そう言えば3日間眠り続けていたんだった。だとしたらその間は無断欠勤をしていたのか。せっかく安心していたというのに急に不安になった。
結局、今日が何日なのかも分かっていない。
(そうだ、電話が使えるなら時報も聞ける。)
再び受話器をとると117のボタンを押す
規則正しい電子音が聞こえて告げられた
7月16日
カレンダーで日にちを確認する。
運のいいことに、3連休中に倒れていたようだ。
ほっと息をつく。これで安心して……休んでいる場合でもないのだが。
警察に行って捜索願が出されていないか聞いてみようか。
だが、会社に電話しても普通だったという事はそんなに大事になってはいなかったのかもしれない。
ならばせめて病院にでも行って頭の検査をしてもらうか。
(保険証も財布も持っていなかったんだよな……無理か)
物が無いのがこんなに不便な事だとは思わなかった。
多分、溺れている時に水の底に沈んでしまったのかもしれない。
本当に何でこんな事になってしまったのか。
考えれば考えるほど気分が落ち込みそうになった。
出来る事もないままソファーの上に横たわる。
平日の午前、丁度仕事時の時間に一人こうしてだらだらしている。
休みが欲しい人間にとってはいい事なのかもしれない。
けれどこうして何もする事が無いと俺は落ち着かなかった。
人がいれば同じ暇でもまた違ったのかもしれないが。
そんな事を考える。胸に違和感を感じた。
人がいれば。話し相手にでもなるか。
そんな事はない。何故そう思うのかは分からないがそう思った。
傍にいる人間、そんなものは……
(ああでも、あいつみたいな奴がいれば)
ふと清一の顔が浮かんだ。
スキンシップが大好きなあいつ。うっとおしい位に人懐こいあいつなら。
誰といてもきっと話し相手になるんだろう。
聞いてない事がまだ沢山ある。質問したところでまともに返ってくるのかは分からないが。少なくとも嫌な反応は返ってこない。
何と無くそんな気がした。
昨日まで散々寝ていたのに、瞼が下がってくる。
きっと緊張していてまともに眠れていなかったのかもしれない。
目を閉じる。意識がすっと引いていった。
鼻を擽る潮の匂い。寄せては返る波の音を聞いていた。
白く泡立つ波の中。彼は無邪気に水を浴びている。
綺麗な栗毛が水気を含んで濡れている。太陽の光で反射して輝いているように見えた。
白い素肌を炎天下の中さらし続けている。
それなのに赤く爛れていたり、焼け焦げた皮膚が一ヶ所も見当たらない事が不思議で仕方なかった。
『甚君もこっちにおいでよ』
白い砂浜に照り返す日が眩しい。みっともなくしかめっ面をしている俺に向かって彼は手招きをする。
『――、俺は水が嫌いだって言っただろ』
折角の誘いをぶっきらぼうに断る自分。もう少し言い方ってものがあるんじゃないだろうか。内心では彼が不愉快な思いをしてたらどうしようと思っていた。
けれどその心配はただの杞憂だったらしい。浅瀬にすら近づくのを渋る俺に痺れをきらして彼が近づいてくる。
俺の手を掴むとにっこり笑って
『大丈夫、僕がついてるから』
と言った。
濡れた手が乾いた手にしっとりと吸い付く。潮の匂いに混じって甘い香りがした。
冷たい水にずっと浸かっていたのに彼の手は温かい。日照りで俺の体温も高かったからお互いに手を握っていると火傷をするのではないかと思った。
『甚君……?』
ぼんやりと重ねられた手を見つめる。
浅黒く変色した肌と透き通った乳白色の肌を見ていると本当に同じ人間なのかと思った。
彼は、とても綺麗だ。明るくて。優しい。
宝石のように光る髪も、ガラスのような透き通った目も。
高く澄んだ耳障りのいい声も。全部俺には無いものだ。
『俺も――みたいだったら皆に好きになってもらえたかな』
自分にも少しだけ彼のような部分があれば、もっと周りに好きになって貰えたのかもしれない。
そこに恨みも妬みも無い。純粋に羨ましいと思った。
『……僕はそのままの甚君が好きだよ』
握られた手に弱々しい力が加わる。けれど真っ直ぐにこちらを見つめる瞳はとても力強い。思わず吸い込まれそうになった。
『甚君の真っ黒な髪が好き。お日様の匂いがする肌とか立派な鼻、きりっとしてるのにきつ過ぎない優しい目が……甚君が全部好きだ』
彼の顔が今にも泣き出しそうになっているように見えた。
やはり、彼は笑ってるほうがいい。こんな事を言ってしまったら優しい彼が悲しむと知っていたのに。
何でいつもこんな言葉しか出てこないのだろう。
『ごめん、ちょっと羨ましいと思っただけだから』
お願いだからそんな顔をするな。
俺は彼を抱きしめた。
シャツが水滴を吸い取って濡れる。熱のこもった肌には心地よい冷たさだ。
あやすように背中を撫でる。肩口に顔を埋める彼を見ると泣いていた。
また帰ったら爺さん達に叱られる。そんな事を思っていると彼が小さく呟いた。
『今すぐ二人で甚君が苦しくない世界に行きたい』
『そこだったら二人だけでずっと穏やかに暮らしていられるのに』
水底にあるもう一つの世界。自分達を苦しめる存在のいない世界。
周りに変な干渉もされず、心平穏にいられる世界。
現実に叶う事はない話。けれどずっと純粋にその話を信じていた彼。
そんな彼が少しだけ現実を受け容れられるようになった。
5年。二人の間にはそれ位の年月が過ぎていたから。