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水中夢   作者: 野々峰 杏仁
1章 水底の記憶
6/10

6


『私の言ってる言葉の意味が解っているのか?君は仕事の内容を理解出来るかと聞いてるんだ』


『課長の思う仕事を出来ず大変申し訳ありません、私の理解不足でした』


指導と言う名目の愚痴。そんなものを聞く為に課長席の前に立たされて30分は経っただろうか。彼に提出したのは何度もミスが無いよう点検した書類。だが、課長にとって仕事の失敗云々は関係ない。


ただ気分が悪いから怒りの矛先を俺に向けている。それだけの事だ。

そんなお決まりの光景をせせら笑う職場の人間達。何度も頭を下げる俺の無様な姿を見て楽しんでいるようだった。


別に笑われても悔しいとは思わなかった。

それは負け犬の遠吠えでも強がりもなんでもない。


自分自身がやるべき事をやっていると胸を張って言える。

自分の非を認めず開き直ってるわけではないのだ。


いつも周りから遠巻きにされている俺に親しい友人はいない。

だから書類のミスがないかどうかの点検はいつも自分でしていた。

それは当たり前の事なのだが。


それでもやはり、そういうやり取りがあれば自然とその人物の仕事ぶりというのは風の噂で流れるものなのだ。


社内ではあまりよく思われていない。

むしろ近くにいる人間からはとことんよく思われていない事は知っている。

でも得意では数少ないが俺のやる事を認めてくれる人はいた。


彼に、自分の仕事がずさんで全く出来ていないかを聞いた事がある。

丁寧でよく確認をしてくれるとその時は言ってくれた。

嘘でもそう言って貰えると嬉しくて。もっと頑張ろうと自然に思えた。


それによくよく話を聞いていると周りが俺を笑う理由は俺の顔の事。

仕事が出来ないとか、愚図だとかは言われた事がない。

仮に仕事が出来ない人間だったなら彼らはその事も含めて言うはずだから。


付け入る隙の無い事では馬鹿にする事も出来ない。

だから直しようがない容姿の事にしか馬鹿にする事が出来ないのだ。

どうしようもない事を罵られた所でたかが知れている。

そう思いながら勤めて気にしないようにしていた。


『本当に不細工は愚図ばっかりだな。だから少しばかり仕事が出来るくらいで調子に乗るんだ』


日常化する上司のパワーハラスメント。それを聞きながらいつも思う。

苦々しい顔をしながらお小言を言い続ける顔は怒れる猪のようだと。


(まあ俺が人の容姿をどうこう言えた義理じゃないんだが)


『……申し訳ありません』


理不尽な言葉を並べられながらも頭を下げ続けた。

課長からようやく解放されたのはそれから一時間後だった。




「…………」


息苦しさを感じて目を開ける。

目線だけで胸の上を見る。覆いかぶさるような体制で清一が倒れていた。


いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

俺は彼の下敷きになる感じで仰向けの状態のままぼんやり宙を見つめる。


また夢を見ていた気がする。相変わらず曖昧ではっきりと思い出せないが。

それに思い出そうとすると何と無く精神的に気分が悪くなった。


悪い夢でも見ていたのか。

そんなことを考えながらふと思う。


先ほど、記憶が無くなっている事実に気づいた。

けれどその事を覚えている。という事は脳の機能は正常なのか。

一日経ったら忘れるとかそんなオチでなければいいが。


(それにしても、重い)


ある程度気持ちが落ち着いた所で今度は上に圧し掛かる体重が気になった。

幾分か気持ちを落ち着かせてくれた当人は死んだように動かない。

暇を持て余して彼の顔にかかった髪をいじってやる。

くすぐったかったのか小さく身動ぎした。


少しだけこちらに向いていた顔。髪の毛が揺れて寝顔が露になる。

初めて会った時も童顔だった。

眠っているとそれがより引き立って見える。


奇妙な事にやはり彼とはどこかであった事があるのではと思う。

勿論、それが自分の勘違いである事は十分理解しているのだが。


出会ったばかりの俺に過保護な位、親切な清一。

確かに嫌われるよりは好かれていた方が気持ち的にも良いのだろう。

だが彼の場合、多少の行き過ぎがある気がするのだ。


見知らぬ人間が目の前で困っている。

それを見て中には気にかけて助けようと思う人間がいない事はない筈だ。


俺も余程の事を頼まれなければ力になろうと………思うと思う。

でも行き倒れの人間を家まで連れて、飯を食わせてやって。


挙句の果てに記憶喪失で落ち込んでいる所を宥めてやるなんて幾らなんでもそこまではしない。


せいぜい警察に連絡するか、救急車を呼ぶか、話を聞いてやるくらいだ。

色々な意味でこいつは本当に変わっている。

無償の人助けなどありえない。


今のうちに散々恩を着せて後で見返りでも求める気なのだろうか。


(……俺って嫌な奴だな)


何故こんな考えにしかならないのか自分でも不思議で仕方ない。

人の親切を素直に受け入れられない自分に嫌気がさした。


裏切られた時の事を考える。

始めから疑ってかかっていた方が後に裏切られた時に傷つかずに済む。

そう思うからこそ手放しに人を信じる事が出来ないのかもしれない。


感傷に浸っていたが、それよりもこもっと大変なのはこれからの事だ。

全ての記憶が無いという事は自宅の場所など当然覚えていない。


あの後、改めて自分が倒れていた時の状況を少しだけ聞いてみた。

その時身に着けていたのはスーツだったらしい。内ポケットに名刺入れが入っていただけで、他には何も所持していなかったそうだ。


名刺にあった電話番号にでも連絡すれば手っ取り早いのだろう。

だが今は生憎夜の10時過ぎを回っていた。

こんな時間に電話してもきっと誰も出ないだろう。


「ん……電話……?」


今まで気が動転していて考えもしなかった。

もし俺が秋堅甚之助であるならば俺の事を知っている人間がいるかもしれない。その人間から話を聞けば何か思い出せる事があるかも。


しぼんでいた気持ちが急に元気が出てくる。

やっと訳の解らない状況から開放される。そう思うととても嬉しくなった。


朝日が昇れば真実がわかる。だからもう今日は寝なければ。

早く明日にならないかと思うせいで寝ようとしてもなかなか寝付けない。


切れ切れに眠っているせいでもう3日以上過ぎている気がするのも原因の一つなのだろうか。


長い夜はまだまだ続きそうだった。

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