表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水中夢   作者: 野々峰 杏仁
1章 水底の記憶
5/10

5


静まり返った室内。壁掛け式の時計が針を刻んでいる。

その丁度真下。俺の正面。

そこには本棚に挟まれるようにテレビが置かれていた。


黒い画面が部屋を映し出している。大き目のテーブルの三面に置かれたソファー

右後ろのほうに台所が映っている。傍には背の高いちゃんとしたテーブルがあるのだからそこで食事をすればいいのに。

何故か俺はソファーに座っていた。


そして黙々と口を動かす。無言で。


「美味しいですか」


傍らで能天気な声が聞こえた。でも返事を返す気は無い。


今口にしているのはお粥。それは確かに美味しい

ふやける事なく原型をある程度留めている米は歯ごたえがしっかりしてる。

塩だけのシンプルな味付けなのだろうが物足りないという感じはない。


だが問題はそこではないのだ。


大の大人が同じ大人、しかも男に飯を食わせて貰っている。

それだけでも違和感が拭えない。


それに輪をかけて、男二人狭いソファーで肩を並べている。

傍から見てどれだけおかしい光景かこいつはわかっているのだろうか。


「……なあ、ただの食事にどうしてこんなに近づく必要があるんだ」


どうしても腑に落ちなくて彼の言い分を聞いてみた。

だがそれに対する返事はない。

男は無言でお粥を噛み砕いてる俺を嬉しそうに見ていた


「まだまだお代わりは沢山ありますから、どんどん食べてくださいね」


満足げにお粥を次々と口に入れられる。

話しながら口を動かしていたらみっともないだろう。

仕方なく口を動かし続けた。




「……お前は俺の何」

器に入ったものが残り僅かになった頃。

何となくそう呟いてみた。


答えが帰ってくることを正直期待してはいなかった。

だが少し此方を伺う素振りを見せて


「内緒です」


笑いながらそう言った。

なんだ、言ったらまずいような関係なのか。

曖昧な言葉に思わずむっとしてしまう。


けれど聞きたいのはそんなことではない。

気を取り直して質問を再開することにした。


「ここはお前の家なのか」


「あ、清一って呼んでください」


「……そんな事はどうでもいいだろう」


「清一って呼んでくれないと泣きます」


こいつはまともに話す気があるのか。

あまりにも予想外の返答が返ってくると心が折れる。

果たしてこいつとの会話は成り立つのだろうかと頭を抱えた。


「……清一、ここはお前の家なのか」


機嫌を損ねて話が進展しなくなっては困る。仕方なく名前で呼んだ。


「はい、僕の家ですよ」


「……どうしてお前の家に俺がいるんだ」


一言話す度に距離が縮まっていないだろうか。

密着する体を押し返しながら尋ねる。


「町の郊外にある湖畔で甚之助さんが倒れてたのを見掛けて、連れて来ました。」


特に気分を害した様子もなく返って来た答えは想像していないものだった。


「……何でそんな場所に居たんだ」


「僕も不思議です。全身ずぶぬれで倒れてたんですから。一瞬死んでいるかと思って心臓が止まるかと思いましたよ」


「…………何で俺の名前を知ってる」


最後の問いに、ああと清一を声を上げる。

ズボンの中を探っていたが、少しして深緑色のケースが差し出された。


その中には数枚の名刺が入っており、水に浸したように紙がふやけている。

名刺を見ると多少文字は滲んでいた。


東京都新宿区 桜葉食品会社 営業部

秋堅 甚之助

○○○‐××××


と書かれている。


話を聞く限り、俺は湖で溺れでもしたのだろうか。

それならば起きた時に見覚えの無い寝巻きを着ていた事にも納得がいく。

けれどそんな所になんの用事があったというのだろう。


「……ちょっと待て」


仮にこの話が事実だとしよう。するとこいつは俺を家に連れてきて3日も介抱していた事になる。

ただ倒れていたというだけで見ず知らずの人間を家に連れてくるだろうか。

普通なら救急車を呼んだりするのではないか。


清一は相変わらず笑顔でこちらを見ている。何を考えているのか本当に読めない男だ。もしかするとこいつは嘘をついてるのではないか。

そう思うと目の前の人物が急に胡散臭く見えて来た。


そういえばここで目を覚ます前、俺は何をしていただろう。

さっきは気が動転していて思い出せなかった。だが今ならちゃんと昨日までの記憶を思い出す事が出来る筈だ。


昨日は………

昨日は……

…あれ


記憶を絞り出そうと動かした脳。

だが昨日の事はおろか、ほんの数時間前の事も覚えていなかった。


「甚之助さん……大丈夫ですか?顔色が悪いですけど」


「あ、ああ……」


冷静に昨日あった事をもう一度考えてみる。だがやはり何も覚えていない。

突然突きつけられた事実に驚きを隠せなかった。


俺の名前は……本当に秋堅甚之助か……?

自分はどんな顔をしていただろう。そもそも俺は成人しているのか。


頭が真っ白になった。昨日の出来事どころか名前一つ思い出せない。

一切の事が頭からはじけ飛んでいる。一体何故。

原因を思い出そうと頭を働かせても答えは出なかった。


「あんな場所で寝てたら風邪を引くと思って連れてきてしまったんですけど……甚之助さん?」


宮野の声が遠くから聞こえる気がする。

自分の存在が曖昧な事がこんなにも恐ろしいなんて。

一体誰が想像するだろう。


目覚める前の記憶がない。

だとしたら一番俺と近い関係なのは目の前のこいつになる。

こいつの言うことが全て嘘だとしたら。そう思うと不安に駆られた。


けれど、見ず知らずの行き倒れに助けてくれた。

他人に手放しでこんなにも親切にできるものなのか。

俺は一体何を信じたらいいのだろう。


途方に暮れていると頭に手が置かれた。

無言のまま清一が俺の頭を撫でる。


目頭が熱くなった。

今、俺が唯一認識している存在が赤の他人なんておかしな話だ。

でもこいつはこんなにも親切だ。打算があるのではと疑いそうになる位。


頭を撫でていた手が背中に回された。反射的に身構えてしまう。

その手を振り払うことは簡単だ。先程のように突き飛ばせばいいのだから。


ただ、目の前の助け舟を振り払って自分一人で何とかできるのだろうか。

ここを追い出されて何処に行けばいいのか。

急に心細くなってなすがままになってしまう。


「きっと疲れてるんですよ、もう少し眠ったらどうでしょう」


見ず知らずの他人がここまで優しくしてくれる。

どうもそれだけが腑に落ちないが今はとりあえず黙って頷いた。


人の事を現金だといっておきながら俺も似たようなものだった。

落胆しながら目の前の笑顔を見つめる。

やはり、どこか胡散臭く見えるのだが。気のせいだと思おうか。


「甚之助さん……?」


「……お前、もう少し話の通じる人間になってくれ」


せめてもう少しちゃんと会話が出来る相手だったら。

そんな事を思いながら清一の肩に顔を埋める。


明日からどうしようか。そんな事を考えながら目を瞑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ