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水中夢   作者: 野々峰 杏仁
1章 水底の記憶
3/10

3

浮いている……いや、沈んでいるのだろうか。

上も下も、右も左もわからない。境界のない暗闇。

その中をひたすら漂っている。


川の中をたゆたう枯葉のように流れに身を任せていた。

おぼろげだが、何か夢を見ていた。それは決して楽しいとは言えない夢だ。

考えただけで胸糞が悪くなる。ある意味あれは悪夢とも呼べるかもしれない。


内容に関しては全く覚えていなかった。いい夢でなかったのは確かだ。

ただ自分にとって受け容れる必要のある現実でもあったのではないか。

何と無く細い糸を手繰り寄せるように記憶を掘り起こしていく。


思い出そうとしてみた……のだが頭の中に靄が掛かっているように記憶が曖昧になっていた。


そう言えば俺は何故ここに居たのだろう。

確か誰かに誘拐された。その後、水の中に突き落とされたんだったか。


その後、息ができないまま気絶して気がついたらここに居た。

そうか俺は死んだのか。

だとすればこの場所は死後の世界という事になるのだ。


それとなく手を伸ばしてみる。だが自分の体は全く見えなかった。

電気が無いというには暗すぎる空間。それは暗いというより何もないと言うのが正しいのかもしれない。


(三途の川とかお花畑って言うのは迷信だったんだな)


子供の頃、一度だけ人の死について考えた事がある。

死んだら人は何処へ行くのか。そう聞くと相手は驚いた顔をしていた。


両親は、生前の行いで行く場所が決まると言っていた。

だが祖父母は死んだら無になり、生まれ変わる。

そうまじめな顔をして教えてくれた気がする。


家族の中で一番死に目に近かったからだろうか。薄々、死後の世界を彼らは知っていたのかもしれない。

現にこうして祖父母の言っていたとおり何も存在しないのだから。


無になる。それはつまり俺もいずれは消えてなくなると言う事だ。

確かに、時間が経つほど意識が薄れている。

やがては周りと一体化して消えてなくなるのだ。


そうすれば楽になれる。ふとそんな事を思った。


蔑む視線。周囲から飛んでくる揶揄やゆ

容赦なく振るわれる暴力。

それらに一切煩わされる事が無くなる。それはとても魅力的だった。


35年間、今まで生きてきた人生。辛い事の方が多かった。

勿論周りの人にも辛い事はあるだろう。自分だけが辛かったとは思わない。

楽しい事だって時にはあったのだから。


むしろ人間の生は辛い事が多いのが普通なのだろう。

自殺をしようなどと考えたことも無い。そんな事をどうにもならないからだ。


けれど、こうして結果的に死んでしまったのはある意味不可抗力だ。

正直生きる事が少しだけしんどかった。だからこんな結末も悪くはない。

そう思ったものの、やり残した事が山のようにあるのが気がかりだった。


俺が死んだら部屋の整理は親がする事になる。

今月の携帯代も明日払いに行く気だった。

死体が見つかるまで警察沙汰にもならないだろう。行方不明だと届け出てくれる知人すら居ないのだ。


届出を出しても7年が経たなければ死亡した事にはならない。

深い水の中で死んだ俺の死体が見つかるまでの税金は誰が払うのか。

未納金の罰金のとばっちりも何もかも全て迷惑を被るのは身内だ。


残してきた親の事を想うとやはり、まだ死ねない。

こんな事では死んでも死にきれないだろう。


神様がいるなんて信じていなかった。ただこの時ばかりは思う。

もしも存在するのなら俺に生きるチャンスを下さい、と。

願っていると胸の辺りにジワリと何かが滲んだ。


触れられた所からそれは侵食する。

体を巡っていくそれは徐々に芯まで浸透していくようだ。

熱い。全身が燃えるように熱い。


始め何も感じなかった。

それが突然、体を内側から食い破るように暴れだす。

そして徐々に胸の中心に集まっていく。吐き気がした。


酷くなる不快感に思わず口を押さえようとする。

だが手はおろか指の一本も動く気配はない。

凍らされたように体が寒かったのだ。


耳鳴りまでして、体の感覚が戻っているのだとその時初めて気づいた。

胸が早いペースで圧迫され喉元まで出かける。

それを吐き出してしまわないよう必死で堪えていた。


こんな所で吐くのは嫌だ。

吐くならせめてトイレかそれなりに汚れてもいい場所で吐きたい。

苦しい、やめてくれ。そう訴えようとした時。


堪えきれずに口から何かを吐き出した。

同時に脳を沸騰するような感覚が襲う。


ごぼごぼ溢れ出すと汚い音。首に流れていく感覚がとても不快だ。

咽ながら何度も息をする。うまく機能しない肺に喘いだ。


暫くして吐き気は大分おさまった。

器官が詰まっている感じがしたが胸が上下していると認識できるようになった頃、やっと呼吸を出来るようになったようだと思った。


うっすらと瞼を上げる。生理的に浮かんだ涙で視界が滲んでいる。

ずっと暗い場所に居たせいなのか外がやけに明るいと感じた。


目線はそこかしこを流れていた。しかしふと、自分の上だけ影が掛かっている。目の前に誰か居るようだ。


助けてくれたのだろうか。だとしたらお礼を言わなければ。

ゆっくり起き上がろうとした。だが思うように体が動かない。


動かないくせに何故か震えが止まらなくなる体。

次第に歯と歯を鳴らして唇が痙攣し始めた。

体温が著しく下がり体が冷え切ってしまったようだ。


震えていると腹に手が触れた。肌に貼り付いた布が剥がれる感触がする。

服を脱がされているのだろうか。そんな事をされたら本当に死んでしまう。


「……ぁ……む……い」


やんわりと手を掴む。力の入らない手で制止しても全くの無意味だったが。

布を剥がされた場所から寒気がした。金属の音がしてズボンが下ろされる。

せめて下着だけはそのままで。その願いはあっけなく崩された。


最後の砦である下着が剥ぎ取られた。体は動かないの思考だけは働くものだから恥ずかしくて仕方ない。隠したくても体を隠すことも出来ない。

助けてくれたのはありがたかった。だがこれは何のつもりなんだ。


憤りを感じているとふっと体が何かに覆われる。暖かい。

頭まで被る様にされたそれ。多分毛布か何かだった。

そこでやっと服を脱がされた意味がわかった。


辛うじて動く目を動かし目の前の人物に焦点を合わせる。

綺麗な栗色と白が混ざっていた。相変わらず視界はぼやけたままだ。

輪郭がはっきりとしない人物。男性か女性かもわからない。


「……」


何で助けてくれたのか。聞こうとしたが掠れて声が出ない。

それでも俺の言いたい事が通じたのか。誰かは俺の頬に触れた。


吐瀉物で覆われた口を嫌悪感無さげ拭っている。

唇に柔らかいものが当たった。何やら湿り気を帯びたもの。

それが口の周りを撫で回している。


それは流石に汚いだろう。

無意識にそう思っていたのか俺は力の入らない腕で顔を掴む。


誰かは暫くその行為を止める様子を見せなかった。

唇の間に何かが割り込んで顔が密着している。

苦しい。同時に背中に寒気とは違う感覚が走る。


口の中に唾液が溜まってそれを飲み込む。

一瞬喉に何かが引っかかった気もするが今はそれどころではない。

嫌だと何度も首を振るとゆっくり顔が離れる。


解放されて安堵していると今度は頭を撫でられた。


一体こいつは何がしたいのだろう。

大の大人を撫で回して何が楽しいのか。

そんな事を考えているとふっと体が浮き上がった。


(……抱き上げられてる……?)


俺なんかを抱えてどうする気なのか。

何処かへ連れていこうとしているのか。


不安から傍にいる誰かの姿をちゃんと見ようと視線をずらす。

すると視界が何かで覆われた。

目を覆っているものに触れるとそれは手のようだ。


(片手で男一人抱えるなんて…随分力があるんだな)


どうやって抱きかかえているのか。

何故、見知らぬ俺を助けてくれたのか。

疑問がぐるぐると頭の中で渦巻いている。


そんな堂々巡りの思考で結論が出るわけが無い。

今は正常な判断が出来そうにない。そう結論が出たのはやや暫くしてから。


幸い、危害を加えてくるような気配もない。

不思議とその体温に身を任せても大丈夫だと思った。


よかった。これで家に帰る事が出来る。

家が妙に恋しい。やはり死んでもと冗談でも思うものじゃない。

帰ったらまだやり終えていない事をやろう。


いつ死んでも後悔しないように週末は両親を連れて温泉にでも行こうか。

そんな事を考えていると急に眠気が襲ってきた。

命が助かってほっとしたのだろう。


何の抵抗もせず下がってきた瞼をおろしてそのまま眠りにつく。


「……ごめんね」


遠のく意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。

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