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水中夢   作者: 野々峰 杏仁
1章 水底の記憶
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2

頬が鈍い音を立てた。鋭い痛みに顔が歪む。

一瞬、歯がぐらつく様な感じがした。口から白いものが出る。

それは綺麗な弧を描き、地面の上に落ちた。


歯が、歯が抜けた。その事実を嘆いてる暇はなかった。

間髪いれず腹が殴られた。口から情けない声が漏れ出す。

みっともなく身を屈めている姿は、他人には酷く滑稽に見えている事だろう。


普段は無人の校舎裏。人気がないから自然と人も集まらないのか。

見回りすら来ない。まさに誰にも見られたくない事をするには恰好かっこうの場所だと言える。

そんな場所だから人が来なくても別に不自然ではない。


その裏で何が起こっているか知っている。それでも見て見ぬふりをして行かない。

そういう事が普通に出来てしまうのだ。だから、誰にも気づかれない。

叫んでも、喚いても一切。


2年に進級してからだ。そこに行かなければいけなくなったのは。

きっかけは本当に些細な出来事だ。


購買で偶然余っていたパンを買った。たったそれだけ。

後々知った事実だが、そのパンはとても人気があったらしい。

名前も書いていないそれは、誰の物でも無いはずなのだが。


その日を境に目を付けられたらしい。先輩を差し置いて人気のパンを買い占める生意気な奴と。どう考えても理不尽だ。そんな下らない事で何故と思った。

けれど、よく考えたらそれを虐める口実にしたのだろう。彼らは。


それ以来、時間も関係なく事あるごとにそこへ呼び出された。

授業中も、昼休みも構わず。勿論、都合が悪いときもあった。

だから一度だけ無視した事がある。その日はいつもより酷い仕打ちを受けた。


校舎裏に来ると"お清め式"という名の鉄拳制裁が始まる。

同学年と上級生4、5人に囲まれて。彼等の気の済むまで暴行を受け続ける。

殴る場所を気にするような輩ではない。頭から腹、局部に至るまで様々な場所を殴られた。


俺は周りの人間にあまり好かれていなかった。そのせいもあるのだろう。

顔が痣だらけでも、気分が悪いと告げても誰にも気に掛けられる事はまず無い。

仕方なく保健室に行く。保健医がいないタイミングを見計らって。

明らかに酷い傷の時でもまともに取り合ってもらえない事があるからだ。


親は俺見て驚く事が多かった。そのつど言い訳を考えなければならない。

体育で怪我をした。階段から転げ落ちた。明らかに嘘だと解る事。

それでも、言わないよりはきっとましだと思う。


お清め式が終わった後は必ず何かがある。

財布から金を抜き取られたり、制服を破かれたり。

だから、やっと暴力が止んでも解放された気にはなれなかった。






やられたらやり返せ。他人は必ずそう言う。

だが実際に被害者になれば解る。そんな事をしても何の意味もないと。

やり返そうものなら暴行する人数はさらに増える。

結局、余計に痛みを感じる事になるのだ。


だからただ黙って堪えるしかなかった。

被害を最小限に抑えるためには。




足音が遠ざかって行く。さり際に浴びせられた唾が顔にかかった。

やっと辛い時間が終わったのだ。そう思い起き上がろうとする。

しかし、全身が痛んでうまく起き上がれない。


その日は雨が降っていた。水分を含み重くなった学ラン。

そのせいで更に動くのが億劫だった。やっと動いたのはそれから暫く後の事だ。


校舎裏から玄関前まで痛む体に鞭を打って歩く。表へ出た所で数人の生徒に出くわした。気まずさから視線を逸らす。すると校門前を笑いながら通り過ぎる生徒が見えた。

門の横にある花壇。そのぬかるんだ土の上に革靴が転がっている。

数メートル離れた辺りにカバンが落ちていた。中身はしっかりばらまかれている。

荒れ果てた草の中に骨組みの折れた傘が刺さっていた。


そんな有り様をみても周りの人間は我関せずといった様子だ。聞こえてくる嘲笑。

遠巻きにこちらを伺っている。その癖、出来るだけ遠ざかるように門を抜けていた。

思わずため息が出そうになる。だが我慢した。


散らばった私物を集めよう。そう思い花壇に近づく。

すれ違った生徒の罵る言葉が時々聞こえた。


今の俺にとっては体が冷たい方が辛い。だから周りの事はどうでも良いだろう。

そう思うのに目頭から熱いものが込み上げて唇を噛んだ。

鞄を拾い上げ、泥を払った。教科書とノートがふやけている。

それを見てぼんやりしていると音楽がなった。


地面に落ちる水の音。鳴り響く鐘の音。

夕暮れを象徴するその音色はどこか物悲しい。

今は一番聞きたくない音だ。気分が更に落ち込むから。


(もう5時か……)


自分もそろそろ帰らなければ。散らばったものを集めるため屈むと肋が痛んだ。

土を払うのも面倒でそのまま鞄に突っ込む。一動作をする事がとても苦痛だった。


全身が軋む不快感。それに堪えながら亀のように遅い足取りで歩く。

おぼつかない動きになってしまわないように心がけてはいた。

だが、機敏に動くことが出来そうにない。


傘もささずに濡れて帰る。道行く生徒の好奇の目に思わずため息が漏れた。

靴の中がグズグズと音を立てる。靴下を通して肌にまとわりつく感じが不快だ。

水音を立てる足元を気にしながら壊れた傘を握りしめ校門を抜けた。




歩き慣れた道のり。それを歩く事が億劫に思えるなど想像もしなかった。

苛めを受けた後、家に帰るのは日常的になっていた筈だ。

普段なら体が痛む以外は一切気にならなかったのに。


雨が降っていなければとは思う。教科書や靴が汚れる事も無かったから。

だがそれ以上に気分が憂鬱だった。


親の不安そうな顔をまた見ることになる。

こんな格好になっている理由を聞かれてなんと答えればいいのだろう。

そう思うと深いため息がこぼれた。


せめてまだ母親が家に帰ってきていなければいい。

そうすれば、この状況を隠すことができる。

頼むから、今日は遅番であってくれ。


パートがまだ終わっていない事を切実に願っていると、すれ違う人の好機な視線がこちらを見ていることに気づく


(ああ、またか)


決して自意識過剰だとは思わないで欲しい。勿論勘違いでもない。

腫れ上がった顔でボロボロになった学ランを着て。

泥だらけの靴を履いて帰っている学生がいればそれは目を引くだろう。


ただ、理由はそれだけではない。

何度目かのため息を吐きながら、周りを気にしないように歩く。



突然後ろからクラクションが鳴り響く。驚いて振り向いた。

同時に、凄い早さで車が通過していく。

運悪く車の通り過ぎる場所には大きな水溜まりあった。


そこから飛んでくる大量の水。結果はいうまでもないだろう。

飛び跳ねてきた水は無慈悲にズボンを濡らした。今日は二重でついていない。

そう思いながら水溜まりに映る自分の姿を何気なく見た。


浅黒い肌、切りすぎた前髪と長さの不揃いな髪。

吊り上がった目は一重でやぼったい。目の周りに痣が出来て余計に強調されている。

顔の中心占領している鼻は大きい。他の部分と比べて主張が強い気がする。


薄い唇だけがせめてもの救いだったのに。それも殴られたことで腫れている。

ただでさえ残念な顔。それに輪をかけて至る所に泥がついていた。

よれてシワになった制服から水が滴り落ちている姿はまるで乞食だ。


(みっともない)


純粋に不細工だと思った。


青痣を作って鼻から血を流していて、どんなに哀れな状態になっていたとしても。

誰一人として情けはかけてくれない程に俺は醜い。

確かにこんな奴に話しかけられたらきっと嫌だろう。素直にそう思えた。


小さい頃からこの容姿が理由で苛められ続けている。

自分にも非があるのかもしれない。そう考えて自分の悪い部分を誰かに聞こうとした事もある。

それでも、俺が話しかけようとすると皆逃げるようにその場を去った。


高校に入ってからは教室に行くと周りが静まり返って気まずい雰囲気になる。

それくらい俺は嫌われていた。


嫌われる理由がわからない。ならせめて他の事で挽回しよう。

そうすれば周りの見る目も変わるかもしれない。

そう思い努力した事もある。


確かに、顔は醜い。

だが背はそれほど低くなかったし、醜いほど太ってもいなかった。

運動もどちらかといえば好きな方だ。


優秀とは言えなくても人並み勉強が出来るように授業に取り組んだりもした。

けれど俺を苛めている奴らにとってはそれも面白くない要因の一つだったのか。

俺が頑張ろうとすると余計に苛めは悪化した。


何をしても受け入れられない。それならせめて絶対に人を傷付けないようにしよう。

自分が受けたような苦しみを他の人が受けないように。

それと根暗にはならないよう気を付けよう。


そう考えるようになってから17年間。

それだけを守り続けることが俺の生きる目的になっていった。


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