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このお話には男性同士の恋愛表現、性的(笑)表現、暴力表現、誹謗、中傷などが含まれる場合があります
また不格好な登場人物を主体としていますのでそう言った話が苦手な方も閲覧をお控えください
尚、上記の事項に反して閲覧した場合の苦情等は一切受け付けませんのであらかじめご了承ください
朧げな意識の中、ただ空を見ていた。重い何かが地面を這いずる音が聞こえる。
静まり返る森の中で耳に入るのはその音だけだ。
ざりっ、ざりっと砂を潰しながら引きずられた先を見る。地面に長いひずみが出来ていた。
気の遠くなるような時間こうしていた気がする。実際にどれくらい時間が過ぎているかはわからないが。全てにおいて感覚が鈍くなっていた。
未だにはっきりしている事といえば体の痛みが酷い事だ。
隙間もなく締め付けられた縄に縛られた両手は体が揺れるたび、針で刺されている様な感じがする。
摩擦で皮膚がボロボロになっているのかもしれない。空気が触れるだけで飛び上がりそうだ。
おまけに両足を固定している金具。これが今一番のネックになっていると思う。
4、5キロはありそうな鉄の塊が鎖の先についている。まるで囚人を逃がさないための枷だ。
どこからそんなものを手に入れたのか。そんなものをつけて何をする気だろうか
決して軽くない体重の男におもりを付けて歩いている。それがどれだけ労力の無駄遣いになっているかわかっているのだろうか。
真面目に返せばキリがない。突っ込める部分が山のようにありすぎるからだ。
仮に自分がそんな事をしていたらどうだろう。考えただけで疲れそうなので、想像するのを止めた。
判るのは、頼まれても自分なら絶対にやらない事。それだけは確信できた。
故に、今の現状がくだらなく思える。だが身動きも取れない以上出来ることは何もない。
肩が脱臼するのではないか。そう思うくらいに強く引っ張られる腕が痛む。
時たま、腕の拘束を憎らしげに見つめた。そんな事をしてもこの枷が取れるわけではない。
そう思うと酷く憂鬱な気分になった。
無論こんな状況で落ち着いていられる自分が不思議だ。本来なら叫ぶか暴れるかして抵抗していると思う。それでも全身麻酔がかかった患者のように動く気はさらさら起きない。
殺されるのかもしれない。そう思うと内心穏やかでは無かった。
不安に胸が押し潰されそうになる。死刑を宣告された囚人のような気分だ。
気分を紛らわすため、頭上を流れる紺碧の空を暫く見つめ続けた。
風景が生い茂った木々から開けた空間に変わった頃。引かれていた腕が地面に落とされる。
ぱしゃと濡れた音がした。水が近くにあるのだろうか。
頭上を影が往復している。何か丸い物体を抱えていた。
後ろの方から鈍い音がしている。今のうちに何とか縄だけでも解けないか。
そう思い腕を引き寄せると、関節に激痛が走った。
痛い。唇を噛んで顔をしかめていると再び影が頭上に降りた。
思わず体が強ばりかける。人を引きずり回して今度は何をする気だろう。
絞殺された後何処かに埋められるのか。拷問紛いの事でもされてから死ぬのか。
不安な気持ちで宙を見つめていた。背中と膝の裏に手が触れる。
途端、視界が空転した。緑の生地が視界を覆う。一体何事だ。
目を白黒させていた。少し間を置いて、行為の意味に気がつく。
俺は、抱きかかえられているようだ。
浮いた足が心もとない。足首から伸びる鎖は引きずられている時には気づかなかったがそれなりの長さがあるだろう。
鎖を辿っていくと、黒っぽい球体が大きめの小舟の上に乗っている。
さっき目の前を行き来していたのはどうやらこれを運んでいたからのようだ。
高くなった目線から新発見があるかもしれない。そう思い、周囲を見回す。
開けた空間を囲むように樹は茂っていた。丁度、中央辺りにある湖の麓に俺は居るようだ。
湖にかけられた船着場。誰かがゆっくりと歩みを進めている。
水気を含んで腐敗しかけているのだろう。板の上を歩く度、悲鳴を上げて軋んだ
固定されている小舟に横たえられる。誰かが間もなく同乗した。
二人分の重さにも船はそれほど揺れない。まだそれなりに固定されているからだろう。
船頭の方で何かをした後、木製の板橋から何かが落ちる音聞こえた。
ややあってこちらに戻ってきた。
今までされてきた仕打ちの数々。それを覆すように戻ってきてからすぐ頭を撫でられた。
ゆっくりと船が動き出している。寝ている状態では縁が邪魔で周りは見えない。
ただ、弾くような水音がしている。きっと湖を船が泳いでいるのだと思った。
月が霧で霞んでいる。暗い割には星もそんなに出ていない。
空を見て微睡んでいると思わず寝てしまいそうにだった。
先程からずっと続いている全身のしびれは徐々に悪化している。
頭を働かせるのが億劫で仕方ない。
体が痛みも鈍くなっている。暴行を受けているわけでもないから抵抗する気も起きない。
空気に溶けるような鼻歌が聞こえてきた。
視線が泳ぐ。視界の端に、銀光に照らされている糸が写った。
糸ではない。長い髪の毛だ。
逆光で表情は見えない。だが口元が緩やかに上がっている。
僅かに見えた目は昏い色をたたえていた。
虫も殺さなそうな顔をしているのに。
人間とは本当によく分からない生き物だ。
「もうすぐ着くよ」
そう告げられてから少しして船が止まった。
対岸に着いたわけではなさそうだ。
意識の大半がぼやけている。だが不安定に揺れた船が
ここはまだ水の上だと言うことをそれ以上に強く主張していた。
こんな場所で何をするのか。そんな事を考えていた。
不意に上半身が持ち上げられる。船の縁へ凭れかけるようにして後ろに体が揺れた。
バランスを崩しかけた船が先程よりも酷く揺れる。
心臓が飛び出しそうになった。寿命が縮んだのではないだろうか。
目線だけを動かす。案の定、周囲は一面水に囲われたままだ。
向こう岸はまだ数メートルにある。
「……何…………し…て」
抗議しようと試みた。だが呂律が回らず、まともに口が動かない
話すことも出来ないくらいの脱力感。その、原因は今だにわかっていない。
薬でも飲まされたのだろうか。今更身の危険を感じている。
動きたいと思うのに動けない。自分の体の癖にそれはとても不便だった。
「大丈夫、また直ぐに会えるから」
体の反動だけで後ろに下がろうとしていると肩を掴まれた。
駄々をこねる子供をあやすように投げかけられる、優しい声。
微笑む顔は恐ろしいくらい優しい。それなのに不気味だった。
肩に手が触れる。抵抗する間もなく、そのままゆっくりと後ろへ押された。
何の抵抗もなく体は重力に従って後ろに傾く体。
コマ送りの映画のような光景。
ひやりと冷たい感覚が頭に触れた時、始めて時間が戻ればいいと思った。
一瞬暗い水の底が見えた。間もなくして口から鼻に水が流れ込む。
腰まで沈んだ時、足が引きずられる様に外れて水面に波紋が広がった。
追い討ちをかけるように丸い物体が水に浸かった。同時に一際大きな波紋が広がった事を確認する。
それから間もなくして水面が遠くなっていった。
冷たい藍色の底に向かって体が沈んでいく。
澄んだ水は鏡のように空を写していた。
その中心に閉じ込めたような笑顔が見える。
それは歪んでいる。どこまでも、限りないくらい。
無駄だと分かっていた。それでも助けを求めて口を開く。
白い塊が頬を掠めるたびに肺が押しつぶされそうになった。
目の前が霞む。この分だともう長くはないのだろう。
頑丈に拘束された手足では自由に動くこともままならない。
この状況はもうどうすることも出来そうにないようだ。
仮に手足が自由だったら。果たして俺は助かったのだろうか。
答えは否だ。
足枷についた重石が本当の意味の枷となっている。
手足が動いたところで体が沈む光景が目に見えた。
万事休す。
頭では解っていても人間というのは本能的に死を拒むものらしい。
無駄だと分かっていながら首を振る。
手を無我夢中で捻って足元を蹴りあげた。
結果としてその行動が体内の酸素を余計に消費したわけだが。
鼻と口から微量の水が肺に流れ込んでくる。
咳き込みそうになるとまた口から水が入ってくる。
これはもう、どうあがいてもと言うやつだ。
俺は、足掻くことを止めた。
いつの間にか水面から遠く離れている。
光が差し込んでいる場所は濃紺色が白んで見えた。
穏やかに揺れる紺碧。その向こうで少し前までは普通に生活をしていたのだ。
それなのに何が原因でこんな事態に陥っているのか。
自由の利かない腕を伸ばして掴む仕草をする。
一枚空間を隔てただけ。それだけでいつもいた筈の場所が遠い。
『水の底には、もう一つの世界に繋がる道があるんだよ』
ふと誰かがそんな事言っていたことを思い出した。
その声の主は誰だったろう。
正常に働いていない脳がその声の人物を思い出そうとする。
大学時代、高校時代、小学時代……
記憶は幼少の頃まで遡った。
幼少時代。田舎の祖父母の家。
そこの近所によく遊んだ子供がいた事を思い出す。
顔はもう思い出せない。だが確かその子供はとても水が好きだった。
海や川原によく連れて行かれたものだ。
そこに行ってはある話を聞かされたこと。
月日を重ねてもそれだけは忘れていなかったらしい。
水の一番奥深くに、もう一つの世界がある
そこは苦しいことも辛いこともない、綺麗な場所で
その世界の住人は皆幸せに暮らしている
おとぎ話よりも現実味の無い話。
子供ながら現実主義だった俺。そのせいで全くその話を信じられずにいた。
その子があまりにも楽しそうに話すから否定はせず黙って聞いていたのだが。
(そう言えば……あの子供は今どうしているだろうか)
こんな時に昔の思い出に浸っている。
そんな自分がとても呑気なやつだと思った。
これが走馬灯というやつだろうか。
死ぬ前の人間は皆、こんな穏やかに死ねるものなのか。
どんな悪人でも。そうだとしたらそれはとても幸福なことだ。
そう思った。
(本当に死ぬんだな……俺)
改めて認識する死。自然と笑いがこぼれる。
死ぬならせめてもう少しましな事を思い出してから死にたかった。
もっとも、生きていてまともだと思えた記憶など数えられる程度しかないのだが。
本当はまだ死にたくない。かといって生にしがみつく理由も無い。
ならこれは潮時というやつなのだろう。人生の終わりを迎えるのに。
幸いな事に息が苦しさも感じられない。
少しばかり寒いだけで。今なら苦しむこともなく死ねる筈だ。
そう自分に言い聞かせながらゆっくり目を閉じる。
(俺に死を逃れる権利は始めから与えられていなかったようだから)
これでいい。
諦めに似た感情を抱く。
それから意識が途絶えるまでそう時間はかからなかった。