クロのあかちゃん
「へえ、クロって、女の子だったんだあ」
と、ミキねえが言った。
ミキねえは三つ年上のぼくの姉だ。一年生のぼくをあれやこれやと世話してくれる。
畑の納屋に立てかけられたトタン板。この板とかべとの三角形のすきまが、クロの住まいだ。クロはねそべって、うまれたばかりの四、五匹の子犬におっぱいをあげていた。
確か先週のことだった。ぼくはクロが、ぼてっとしたおなかをゆっさゆっさとゆらして、道路を歩いているのを見かけた。「クロ太ったなあ」と思ってたけど、まさか、おなかに子犬がいるなんて思わなかった。だってずっと、おす犬だと思ってたんだもん。
ママになったクロはこのせまい家で、子供たち一匹一匹のせなかを、たんねんになめている。
数日たったある日のこと、ぼくは、クロが町の中を、びしょぬれになって、うろついているのを見かけた。どしゃ降りの雨の中、クロは、あちこちでにおいをかぎながら、とぼとぼと歩いていた。うしろからかさをかけてやっても、ふり返りもしなかった。
「おなか、すいてるのかなあ」
ぼくは給食ののこりのパンを、クロのはな先に持っていった。けどクロは、パンに見向きもせずに、くーんくーんと鳴きながら歩いて行くのだった。
自動車が横をとおってクロに水しぶきをかけた。クロはちょっと立ち止まって、ぶるんとからだをゆすってしぶきをはらった。そしてまた歩きだした。
「くーん、くーん」
橋をわたり、公園の中をとおって広い道に出た。ファミリーレストランの前をすぎ、コンビニ横の交差点を曲がり畑に出た。それからクロは、畑を横切ってトタン板の家に帰っていった。家の中をのぞいたぼくは、そこではじめて、クロがどうして鳴きながらうろついていたのかがわかった。
クロの家には子犬が一匹もいなくなっていた。うす暗い中、クロの目だけが光っている。クロはまたくーんと鳴いた。
大きい雨つぶが、ぼくのかさを、たいこのように鳴らしていた。
「ただいまあ」
ぼくが家に帰ると、すぐにママが出てきて言った。
「まあシンちゃん、びちゃびちゃじゃないの。さあ早くからだをふいて、リビングにいらっしゃい。いいもの見せてあげる」
ぼくがリビングに行くと、なんとそこに、黒い子犬がいたのだ。
「ねっ、かわいいでしょ。近所のおばさんが向こうの納屋で見つけたんだって」
ママは、子犬をだきあげてぼくに見せた。
「シンちゃん、犬がほしいって言ってたでしょ。だっこしてみる?」
ぼくはママから子犬をうけとった。ふわふわしていてとっても軽い。子犬がぼくの指をぺろんとなめた。ぼくは「きゃっ」と言って指を引っ込めた。くすぐったい感しょくが指にのこった。
突然、ぼくのからだの中で大きな音がひびいた。まるで、シンバルを力いっぱいたたいたかのような。
(そうだ。この子犬は!)
ぼくはリビングを飛び出して、げんかんに向かった。それからくつもはかずに家を飛び出した。
「シンちゃん、どうしたの! 待ちなさい!」
うしろからママのさけび声が聞こえる。はげしい雨がぼくの顔をたたいた。
この犬はね、この犬はね。クロのあかちゃんなんだ! クロに返してやらなきゃダメなんだ!
ぼくは走った、走った。思い切り走った。向こうから歩いてくる人が驚いた目をして、ぼくを見た。ぼくになにか言ったように思うけど、ぼくは無視してその人の横をかけていった。
トタン板のクロの家についた。中をのぞくとクロがうずくまっているのが見える。ぼくは、クロの横に子犬をそっとおいた。クロはむくっと起き上がって「ワン」と鳴いた。
「シンちゃあん。まってえ」
ママがすぐそこまで来ている。ミキねえもいる。ぼくは、ママの方を向いて、はっしと両手を広げて言った。
「犬だって。犬のあかちゃんだって!」
目の前がくもった。雨だか涙だかわかんない。手でぐいっとぬぐって続けた。
「犬のあかちゃんだって、ママがいいに決まってるじゃないか!」
ママがぼくの前でぱたっと止まった。そして、じっとぼくを見た。
きゅうにまわりの音がなくなった。強い雨が、音も立てずに地面ではねている。長い時間がすぎたように感じた。
ママはしゃがみこんだ。そしてぼくを、ぐいっと抱きしめて言った。
「ごめんね」
ぼくはへなへなとへたり込んだ。ミキねえがぼくたちに、かさをかけてくれた。
ふり返ると、子犬がクロのおっぱいをしゃぶっているのが見えた。クロは子犬のせなかを何度も何度もなめていた。