第1話
「そういうことだから。」
それだけ最後に言うと、母は立ち上がり自分の部屋へと戻っていった。この家に私の部屋はない。私にはまだ頭の整理ができない。これじゃ自分の家に帰ることもできない。
私の母は女である。これは普通のことかもしれないけれど。私の母は一度も結婚したことがない。母は今だ独身だ。
20年前、母は愛した男の子どもを産んだ。たった一人で。母が愛した男がどんな人だったのか、今はどこにいるのか私は知らない。私が知っているのは、母が今もその男を愛しているということだけ。20年前、母はまだ母ではなく、18歳の少女だった。
私は今年で20歳を迎え、現在短大に通っているが、あと2ヶ月で卒業。短大は家から通えない距離ではないが、母の希望もあり、私は家を出た。短大に入ってからは一度も家に帰っていなかった。2年ぶりに実家に帰り、最初に母に言われた言葉が
「私、もう一回子育てにチャレンジしてみるわ。」
だった。そして
「そういうことだから。」
と言い放ち、久しぶりの再会を祝うでも喜ぶでもなく、母は部屋へと戻っていったのである。母の部屋は昔は私の部屋だった。私が出て行くとすぐに母は私の部屋を自分のものへと変えた。
母と私は二部屋しかない狭いアパートで18年間、二人で過ごしてきた。その間、母は何人もの男の人をこの家に連れてきた。私が覚えている一番最初の母の彼氏は、私が3歳のときの人だ。顔なんかはよく覚えていないけれど、きちっとスーツを着た人だった。その人は私にお菓子やおもちゃをなんでも買ってくれた。でも、母はすぐにその人とは別れた。母は女として、自分よりも自分の子どもを愛する人を許せないと言っていた。あれは私にとってはすごく衝撃的な発言だった。母は私を子どもとしてではなく、恋のライバルとして見ていた。まだ3歳の自分の子どもを。その後も、何人もの人を母は連れてきたけれど、一人として続く人はいなかった。毎回、一つの恋が終わるたびに母は
「私が愛しているのは、やっぱりヒロアキだけだわ。」
と言った。ヒロアキは私の父親だ。母は私にヒロアキが私の父親だと説明したことは一度もなかったが、私にはわかった。母はたくさんの男の人を愛したけれど、本当に愛したのはヒロアキだけだったと毎日必ず寝る前に話していたし、どんな男と付き合っていてもヒロアキが一番いい男だってことはわかってるのと毎日必ず朝起きると話していたから。
私はヒロアキを見たことがない。写真もなければ、ヒロアキの持ち物だって一つもなかった。でも、私の中でのヒロアキは完璧にできあがっていた。母がヒロアキを愛するように、私もヒロアキを愛していった。私もやっぱり母の子なんだと知った。
母が惚れた男で、唯一母を捨てたのがヒロアキだってことも、私はやっぱり知っていた。母は毎日ヒロアキを愛していると話すけれど、ヒロアキが今、どこで何をしているのかを母から聞いたことはなかった。母は誰かに恋をしていても、常にヒロアキを愛していて、ヒロアキを待っていた。
家には電話もなければ、テレビだってなかった。小学生のころ、私は何度か母になぜ家には電話がないのか聞いたことがある。そのとき母は少し寂しそうな顔をして
「あんた、電話を信じられるの?」
と私に質問を返してきた。なぜ家にはテレビがないのかという私の質問に対しても母は
「あんたはなんでテレビが必要だと思うの?」
と困った顔で質問を返してきた。思えば、私と母はまともに会話をしたことがないのかもしれない。唯一まともに会話が成立するのは、私がヒロアキについて質問したときだけ。
「ヒロアキってどんな人?」
「あんたにはヒロアキは理解できないわ。」
「春奈さんはヒロアキを愛しているの?」
「愛しているわ。」