自由市場へ徒歩で向かう
目の前の現実に話を戻す。
本日只今、この男が我が家に来た理由を聞いてみると、やはり暇を持て余していたかららしい。私も人のことは言えないが、全く持って暇な男である。部屋に引きこもっている私よりはましとも思えるが、安息日である土曜日のことだ、大目にみようではないか。
古い友人というのは、こういう時に誠に便利と言わざるを得ない。他愛も無い話に花が咲き、時間がどんどん潰れていく。土曜日の昼下がり、河童と貧乏神が向かい合い、私が台所より再度持ち込んだ葛餅を食べながらの談笑である。見方によってはどこの御伽草子か、と思われるかもしれない。
しかし、独身の三十路男同士が向かい合い、女性の影など微塵も感じさせず、むしろそのことには一切触れること無く談笑している、と見方を変えれば地獄絵図に早変わり。なんとも痛々しい光景である。
そして葛餅は食べきり、食物は私が台所より持ち込んだサキイカに変わった。貧乏神はそれを口いっぱいに頬張り、モグモグと噛むやギョクンと飲み干した。恐るべき顎と喉の強さである。貧乏神や胡瓜というよりも、もはや獣の類である。
彼は私と小一時間ほど話した頃、さも当然のことのようにフリーマーケットのことを話題に乗せた。何でも来週末に催されるとのことだ。しかし、私には初耳であった。なかなかに興味深い話だと思い、もう少し突っ込んで聞いてみることとした。
なんでも、それを言いだしたのは彼の父だそうだ。流石に地域の顔役である。
やることなすことが周りを巻き込んでいく。そして貧乏神も、主催者側の一人として参加するのだという。
フリーマーケットの目的は、地域振興なのだそうだ。よくある話である。
目的が目的だからかどうかはわからないが、役所に届けたら直ぐに通った、ということだ。そして多くの人に来てもらうため、告知チラシを回覧板に挟んだり、電柱に貼り付けたり、コンビニに張り出しているなどをしているらしい。
しかし、私はこの話を聞くまで、そのことを全く知らなかった。私の行動範囲はさほど広くないので、まぁ無い話ではなかろう。回覧板などが回って来ても、ほぼ読まずに次のご家庭に回してしまう。
貧乏神は私に、「友人などを誘って参加して欲しい」と希望を述べた。
この男も主催者側なのであるから、参加者が少しでも増えて欲しいのであろう。誰も来ないイベントと言うものほど、心に刃物が刺さるものもない。
私も腐れ縁の一人として、微々たるものではあるが力添えをしたいと思う。しかも今回は、例の有益な情報、という前置きは出てきていない。行っても得はないかもしれない。しかし少なくとも損なことは無さそうだ。何より私自身、来週末も特に予定は無く、暇を持て余しているのである。ゲームで時間を潰すよりは、まだ生産的であるように思われた。
私は塚田に、「では何人か連れ立って行こう。」と伝えた。すると塚田はおもむろに、満足そうに立ち上がり帰宅する旨を伝えた。
玄関まで送った私を塚田の「有益な情報だっただろ? 」という言葉が襲った。その言葉は私を戦慄させるに十分な破壊力を持っていた。
例のフレーズである。
有益な情報である。
しかしどうしたものか、と一寸頭を回転させる。なんといっても、今回はパターンが少し違うのだ。前置きがある時は碌なことが無いが、今回はなんと後ろ置きである。後ろ置きという言葉があるかどうかは不問としていただきたい。
長い付き合いで初めてのケースであるが、どう思案したものか。
思案にくれ、一種苦悶の表情を浮かべる私を尻目に、塚田は誇らしそうに帰宅していった。
読者諸兄、私はどうするべきであろうか。
光陰矢の如しとはいったもので、気がつけば日付が進んでいた。そう、フリーマーケット、その当日である。年を取ると時間が経過するのが早いとは言うが、この一週間は誠に早かった。
私はこの一週間、貧乏神との約束を果たすため、方々の友人知人腐れ縁に連絡をした。しかし、「じゃあ行く」という友人が、誰一人として存在しなかった。貧乏神への生贄と悟られたか。とりあえず、友人達は私ほど土曜日が暇ではなく充実している、そんな可能性には触れないのが優しさというものである。そして私は優しい人が好きである。愛をください。
そんなことを考えながら、さて時計を見ると、現在午前十時少し過ぎ。
フリーマーケットは、今まさに始まった所である。自宅から会場までは徒歩で二十分程度なので、そろそろ出ようかと考えた。窓より空を見ればなんともよい天気、柔らかな陽光がなんとも気持ちよさそうである。会場までの道筋を散歩がてら歩くのも悪くない。
会場は町の運営する運動公園というグラウンドである。野球とサッカーが同時に行える広さであり、無闇に広い、というのが私の印象だ。
はてさて、ちゃんと格好がつくくらいには出展で埋まっているのだろうか。私は運営本部と書かれたテントだけが存在する様を想像し、なんとも暗澹たる気持ちになった。しかし考えていても一向に話は進まない。無駄に電子紙面を浪費するだけなのも、読者諸兄に申し訳が無い。ともかく出発することにした。
さて古今東西、文人学徒は散歩を好んだと聞く。物の本でも「歩く」という行為は、脳に刺激が走り頭の回転がよくなる、と読んだことがある。考え事をする時には、辺りをウロウロ歩き回ってしまうという御仁も多くはないだろうか。以前読んだ本では、文章を考えるときに階段を何度も上り下りする人が登場もした。これも歩くことで頭の回転がよくなる好例と言える。
現実に会場までの道すがら、ホテホテと歩いている私は、頭が回転しているのを感じ心地よくなった。それはまるで麒麟児と謳われた頃に戻ったようである。今であれば、かの相対性理論も完全完璧に理解できそうな気がする。無論そんな気がするだけであるし、そもそも私は相対性理論がどういうものかをよく知りもしない。私は文系である。
二十分ほど歩き、会場に到着した。私を待っていたものは、閑古鳥鳴き叫ぶグラウンド、ではなく傍目にも百を優に越える出店、そして来場者でひしめく会場であった。
2018/12/17 加筆修正