この物語は賭け事を推奨しません
さとりとは何か。最近は便利なのもので、なんでも検索して調べることが出来る。
これが一昔前だと話が変わる。辞書と図鑑の出番である。辞書や図鑑はそれを見ているだけでも楽しいものだ。そこには知識の山が聳え、英知の海が広がっている。自分の知らない言葉や物事を知る。これは純粋に知識欲に繋がり、一種の快感をもたらす。
しかし今回調べたいものは妖怪なので、なかなか辞書には載っていないだろう。妖怪図鑑の出番であるが、今はネットで調べればすぐに出てくるので、それはおいておく。
さて。さとりである。検索をかけてみると、大雑把に「心を読む妖怪」のようだ。考えていることを読まれる。これは恐怖である。戦おうとすればそれを読まれ、逃げようとすればそれも読まれる。
間宮の言葉とこの検索結果から考えれば、片岡は「将棋の手を読む」ということになる。
将棋は頭脳スポーツだ。頭を使った格闘技と言ってもいい。とにかく頭を使う勝負だ。
将棋には序盤、中盤、終盤という考え方がある。序盤は攻撃陣と守備陣を整える駒組み。中盤はそこから実際に駒がぶつかり合う。そして終盤はさらに進み、実際に相手の玉を詰ませる勝負となる。もちろん、玉が詰まされれば負けである。
先人の開拓した定跡というものがある。この場合にはこう進めると自分に有利な局面になる、というものだ。しかし序盤だけ取り出してみてもそれは膨大甚大な変化である。そして中盤以降、実際に駒がぶつかり合ったその先は、計り知れない広さと深さを持つ。まさしくその場になってみないと分らない未知の領域だ。
そこで重要になるのが読みである。相手の手を読み、それを咎める手を指す。先回りして、いかに自分に有利な局面にするか。いかに相手に不利な局面にするか。それだ。
いまわの際の間宮の言葉。片岡はさとりだ。それは無駄ではない。片岡はさとりである。私の手を読むだろう。しかし、私の読みがそれを上回ればいいのだ。私だって元麒麟児である。やってやれないことはないはずだ。妖怪退治の幕が開く。さとり片岡、覚悟しやがれ。それまでに散々勉強しておこう。
そして、土曜日がやってきた。
ピンポーンとチャイムが鳴り、来客を告げる。ドアを空けると、そこには間宮と片岡がいた。その後ろには誰もいなかった。なんとも久しぶりな小人数である。この前誕生日会があったことで、余計そう思うのかもしれない。寂しいわけではないが、変な感じは受ける。
間宮は手にぶら下げた袋をこちらによこし、「これが今回の土産だ」とのたまった。中身を見るとクッキーの山であり、久々に牛丼以外の土産を貰ったな、と感慨深げに思った。
せっかくクッキーと言うお茶受けがあるのだから、将棋の前にまずはお茶会である。男地獄と言えば牛丼だが、今回はクッキーである。私達も少しずつ変化があるのだ。もしやこれも女子陣との付き合い、その効果かも知れない。付き合う人が変わると人生が変わる、と読んだのはなんの本だったか。まさしく諸行無常であり、お釈迦様の言っていたことは正しかったのである。
私も菩提樹の下で瞑想をしてみようか。そうすれば何か悟るかもしれない。しかし、そもそも菩提樹とは何だ。樹と言うからには樹木なのだろうが、全く頭にイメージがわかない。これも検索の対象にすることを固く心に誓った。
私はお湯を沸かし、紅茶を淹れることにした。紅茶なんて飲むのはいつくらいぶりだろうか。いつもはインスタントコーヒーで済ませてしまう。間宮、片岡と言う独身貴族の英傑が相手とはいえ、なかなかに優雅なひと時を過ごそう。
さて、お茶も沸いた。エレガントなお茶会の始まりである。
ガツガツ
ムシャムシャ
ボリボリ
グビグビ
擬音で表すと、このようなお茶会であった。
私達は、英国紳士の優美な佇まいなどは微塵も感じさせず、米国人張りの無残な食欲の権化となった。そもそも、紅茶を入れたそばから「熱いの嫌いだからアイスティーにしてくれ」と間宮、片岡、両名から打診があり、紅茶に氷をぶっこんだ。そこからして既に、一気飲みする気が満々である。クッキーを貪るように口に運ぶ。口内が渇けばアイスティーの出番。単純に言ってしまうと、牛丼がクッキーに変わっただけである。
優美。優雅。典雅。エレガント。それは言葉してはそこに存在している。辞書にも載っているし、検索すればいくらでも出てくるだろう。しかし。やはり独身貴族なのだ。私達は独身貴族なのだ。どうしても男臭い。男汁を噴出させながら、それらの言葉を意気揚々と黒マジックで塗り潰してしまうのだ。このあたり、どうにも変化するのは時間がかかると思うので、時間の経過を待つことにする。この場に女子陣がいれば、また話も変わるのだろうが。
そんなことを考えていたら、お茶受けがなくなった。あれだけあったクッキーを小一時間貪り、その果てに私達は存在していた。
間宮の「さて。クッキーも食い終わったし、将棋の時間だな」が勝負の合図である。
片岡を見るといつもどおりと言ってもいいのか、クッキーのカスがその山羊髭についていた。古いマンガのようである。そのような暗澹たる光景を作り出しながら、片岡が口を開いた。
「さて。将棋をやるのはいいんだが、どうよ?何か賭ける?そのほうが燃えるだろう」
賭け事。勝負事。それは男の心を熱くさせる。どの馬が一番速いのか。どの選手が一番自転車で早いのか。私とあなた、どっちが強いのか。
男なら、一度は賭け事に憧れるだろう。心が滾り、ガソリンをぶちまけるが如く燃え上がる。その先に破滅があると分っていても、浪漫もまた感じるのだ。
しかし。賭博は罪だ。それは分る。私は犯罪を推奨したりはしないし、私自身も罪を犯す気は無い。
そして私は数秒だけ考え、片岡に賭けるものを告げた。
「プライドを賭けよう」
片岡は髭を降らしながら、こう答えた。
「面白いことを言う。のった。俺と君、どっちが強いか。そのプライドを賭けよう」
私はやり取りを終え、間宮の方を見た。間宮は両腕を両腕を大きく広げ、ひゅぅーっと口笛を吹いた。顔は満面の笑みだった。
「お前達、なかなかかっこいいぞ。今なら先っぽくらい許すかも知れん」
なんの先っぽかは聞かないことにしておく。
その後少し協議して、七回対局して先に四回勝ったほうが勝者、奇数回は私が先手で将棋を始める、こととなった。一回の勝負ではまぐれもありえる。複数回勝負すれば、どっちが強いかはっきりするだろう、という按配だ。
負けない。勝つのだ。私はそう心に言い聞かせた。
第一局目。先手、私、7六歩。
私と片岡の七番勝負。それはこの一手から始まった。