プレゼントとそれに伴う誘いについて
誕生日プレゼント。こればかりは何才になっても、どっきどきのわっくわくである。何を贈ってもらえるのか。何を頂戴できるのか。この喜びだけは、他になかなか感じることは無い。
子供の頃、欲しいおもちゃがプレゼントされるのを遥か彼方から眺め、今か今かと待ち望んだ方も多いのではないか。そして、微妙に違うおもちゃが贈られて、駄々をこねるまでが一連の流れである。子供にとっての大事な部分は、意外に大人には分らない。そこまでが3Hitコンボ。
プレゼントと言えば、クリスマスもそうであろうか。しかし、クリスマスと誕生日はプレゼントの意味合いが大きく違う。クリスマスは多くの場合「プレゼントの交換」である。私からあなたへプレゼントを贈る。そして、あなたから私へプレゼントを贈ってもらう。こうだ。
しかし、誕生日の場合には贈られっぱなしである。何を贈ろうか、と考える必要が無い。単純に受身でいられるのが誕生日の凄みである。ビバ誕生日。どうせなら毎日が自分の誕生日であっていただきたいが、ならば私は何才になるのか見当も付かない。単純計算すれば一万才以上であるが、妖怪物の怪でも塵芥に変わりそうな年齢である。
では前口上はこのあたりにして、私に贈られた誕生日プレゼントをつぶさに見ていこう。
まずは片岡である。油粘土を片手にいっぱい。これはどうしろというのだろうか。粘土をこね、何か造形すればいいのだろうか。それとも丸めて壁にでもぶつければいいのだろうか。「あらゆる形になる粘土こそ、君へのプレゼントに相応しい」とは片岡の言であるが、まったくもって意味が分らない。なので、この油粘土で最初に作る造形物は「意味不明」という名前にしようと思う。こねくりまわせば、なんとなくそれっぽくなるのではないか。いや、どれっぽくなるのだろうか。
次は中村。私に一枚、紙切れが渡された。そこには「がちゃがちゃ十回引換券」とある。読んで字の如く、私が十回がちゃがちゃが回せるというわけか。中村の眼鏡が嫌味な光を放ったところを見ると、中村が私をフィギュア地獄と言う魔道に落そうと画策しているのだろう。相も変わらず剛速球な男である。その手段を選ばない点は、ニッコロ・マキャベリの君主論にでも影響をされたのかもしれない。目的のためには手段を選ぶな、と言われるが果たしてどうか。
続いては林。花言葉全集という本。今回、一番反応に困ったのがこれである。男が男に送るものではない。というよりも、何か得体の知れないもを感じる。私にどうしようと言うのだろうか。林には林なりの考えがあるのかもしれないが、私は花も恥らう乙女ではない。中学生女子あたりであれば、この本の使い道も多方面にありえる話か。しかし年齢も性別もそれには合致しない。三十路を迎えた花も立ち枯れるおじさんである。
もしや、今回は女子が来るので、そういう気を使ったのかもしれないそう考えると、林もまた男なのだ。多少なりともセンスがずれている気はするのだが。
さて。塚田と間宮。こやつらは合同でのプレゼントである。袋を開けると対局時計が入っていた。対局時計をご存じない方に申し上げる。大雑把にはチェスや将棋でお互いの持ち時間を計る時計だと思っていただきたい。
間宮は「これで君は対局時計を手に入れた。また今度将棋を指そうじゃないか」と言った。私はあれからも将棋をちょこちょこ勉強している。対局時計は「欲しいけどなかなか買わないもの」の一つである。こういうものはプレゼントとしてはうれしい。なお片岡が「おお!将棋か!将棋はいいものだ!」と食いついてきたことも、ここに記させていただく。
最期は女子陣である。これも合同である。プレゼントは男性用香水。これである。何と言うか、やはり女性のセンスなのだ。独身貴族たる我らでは、香水なんて言葉すら思いつかない。男地獄には香水と言う言葉どころか概念すらない。量子力学的にすら存在しないもの、それが香水である。オシャレである。
「いい年なんだから香水ぐらいつけなさい。あとあんまり付けすぎないように。ふわっと香るくらいでいいの」とは、大宮の言である。このあたり、私が普段香水を付けないことも織り込み済みである。そして、それはど真ん中に命中である。これについては何も言えないので、「ははー!」と将軍様から何かを賜った武士のように、平身低頭、頂戴仕ることにする。「あと、選んだのは千葉ちゃんだからね」という高島の言葉に、照れくさそうな表情をした千葉さんがいたことも追記させていただく。
私の誕生日プレゼント、その一切をここに記させていただいた。なにやらみんな、いい意味で気を使ってくれたように思う。どれもそこまで値の張るものではないが、金を使うばかりが全てではない。むしろ何万円もするようなものは気をつかってしまう。相手に気を使わせないのも一級品の心遣いなのだ。
そして、間宮の「なんか俺の時のプレゼントと、大幅な差があるように思うんだがどうか」という言葉は虚空の彼方に葬り去らせてもらう。そんな過去のことはもうどうでもいい、瑣末な問題なのだ。私達は現在に生きている。終わったことをあれこれ論じるのは不毛の荒野であり、何よりちっとも楽しくない。
その後なんのかんのあって、誕生日会は終わり、皆は帰った。
皆が帰った後、私は居間でコーヒーを飲み、ぼんやりと考え事をしていた。
よい一日であったと思う。そこには笑いがあった。そういう意味で、やはり女子陣を呼んだのはいい判断だったと思う。男だらけのむさくるしい砂漠、とはまた違うのだ。花も実もある誕生日会。もしかすれば、私の誕生日がこれほどまでに潤ったのは初めてかもしれない。
モテない。男地獄。怨嗟の声。無限に続くマラソン。阿鼻叫喚。苦笑。嘲笑。そして自暴自棄に諦観。もろもろひっくるめて、そんな誕生日会ばかりだったと思う。
しかし、それも最早過去のものなのではないか。三十と言う節目の年に、私達は新しい扉を開けたのかもしれない。今日はいい夢が見れ朗だ。私は早々に床に入ることにした。
それから数日がたち、私の携帯がメッセージを着信した。はて誰か、と思っていたら間宮からであった。まぁいつもの珍言妄言ではないか、とは思ったのだが、別にやることもなかったので早々にメッセージを読む。
「さとりだ……さとりがでた……片岡はさとりだったんだ……」
これがメッセージの全文である。しかしこれだけでは、全く何かが分らない。そもそも、さとりというものが分らない。私は間宮に詳細を告げるよう催促した。どういうことなのだ。
「片岡と将棋を指せばわかるよ。次の土曜日は暇か?片岡と一緒に君の家に行くよ」
いつもどおりの平常運転で、私の土曜は暇である。私はその誘いに乗ることにした。さとり。何かは分らないが物の怪的な匂いはする。それは後で検索することとして、将棋を指すことになったのだ。早速貰った対局時計の出番である。