最初の幸運、その巡り合わせ
階段をバタバタと駆け上がっていく音。そしてドアを開ける音が聞こえる。しかし幼女だけではなにやら不安でもある。まぁよほどの事はないであろうと思われるが、何かがあってからでは遅い。私も送ればせながら、二階に上がることにした。
二階に上がった私は、ばたばたと音のする部屋へと足を向ける。どうやら私の旧自室にいるようである。そう、あの化猫に蹂躙され、私がだいだらぼっちとなったあの自室である。私の旧自室は色々な来訪者を迎えるのだな、と不意に思った。
ドアをぎいいっとあけると、部屋の中をバタバタと駆け回るしぃな。私の旧自室は八畳ほどあり、多少広めである。従姉はアパート暮らしらしいので、しぃなから見れば、広めの部屋というのは珍しいのかもしれない。
ぱたぱたと走っていたが、ものの数分でさしもに走るのに飽きたのか、しぃは今度は本棚に目を配る。自慢ではないが、私はそこそこの蔵書を持っている。麒麟児の頃から読書は好きで、小説エッセイから始まり、博物学や民俗学まで。それなりのラインナップであることは自負している。おおよそ壁の二面が蔵書で埋まっていると思っていただきたい。もっとも、中村のフィギュア部屋に比べればまだ大人しいほうであるのも事実である。どうせならあそこまで行けば、皆様から拍手喝采で迎えられるのかもしれない。いや、中村の部屋が拍手喝采で迎えられているという確証はまったくないのであるが。
さて、本棚をじぃっと見つめるしぃ。従姉はあまり本を読まないと聞いているので、蔵書というのが珍しいのかもしれない。
やおらそのうちの一冊を手に取り、ぱらぱらとめくる。それはよりにもよってというか、私の記憶する限り難解な哲学の本であった。五才児には少々どころか、鉄塊のごとく重い本である。
予想通りというかなんというか、しぃなはパラパラとめくっただけで私に本をよこした。この辺の礼儀正しさ、というのは従姉がちゃんと教育をしている所以であろう。少し感心する。しかし、もし声が従姉であれば、「小難しいもの読んでるんじゃないの!だから彼女ができないんだよ!」と逆ギレされるのが用意に想像できた。今度は違った意味で、遺伝子やDNAに感謝する。似なくてありがとう。そして教育は大事。
しぃなは絵本を手にとって読み始めた。私は哲学の本を手に取ったまま、しばらくその光景を眺めることにした。幼女が絵本を見ているというのは絵になる。可愛らしい以外の言葉が見あたらない。
それにしても哲学の本も久々に見る。私がまだ天狗であった頃に、山のように読んだ哲学の本である。当時は理解しているつもりであったが、今現在の私の頭の中からは内容が綺麗さっぱり抜け落ちている。年はとりたくないものであるが、まぁこればっかりは仕方がない。時間は前にしか進まない。泣いても笑っても時間が巻き戻らない。残酷で冷酷だ。
絵本を読んでいるしぃなは、ことさら大人しかった。先ほどまで走り回っていたのが嘘のようである。しかしこのままでは暇でもあるので、手に取ったのも何かの縁、とばかりに哲学の本を読むことにした。私は元麒麟児である。年はとって内容も忘れているが、今一度理解することも可能であろう。待っていろ、哲学め、目に物見せてくれる。
ものの三頁ほどで私は頭と耳から煙を上げ、哲学の本にノックダウンされた。ボクシングで言うなら1ラウンドKO負けである。なんということであろうか、やはり年はとりたくないものだ。全く理解できず、全頁に「お前は阿呆」と書いてあるようにしか読めない。ここまで完全敗北するとは思っておらず、自分が本当に元麒麟児であるかが怪しく思われ、絶望の淵に立たされた。その底からは私が手招きしている。これほどの絶望があるだろうか。
仕方無しに、しぃなと同じくぱらぱらと本をめくる私。敗北したとはいえ、それではなんだか癪に障る。ちょっと読んでいるふりをしてみただけである。
ぱらぱらとめくっていると、本の間に何かが挟まっているのが見えた。過去の私が挟んだ栞であろうかと思われたが、それににしては大きい。そのページを開き、それを手にとって見ると五千円札であった。はて、私はなんでまたそんなところに札なんぞを挟んだのであろうか。もちろんそんなことは記憶の彼方であるため覚えてもいないし、思い出せない。しかしこれはこれでうれしいものである。私は過去の自分からの贈り物に感謝し、五千円札をポケットにしまった。過去の自分よ、たまには粋なことをするではないか。褒めてやろう。
そしてこの本を渡してくれたしぃなには感謝をした。晩ご飯は少し豪勢なものにでもしようか。
次話投稿予約済み 2015/6/13 15:00公開予定です。