至高の大三角形
その夜。私は仕事から帰宅しビールを飲んでいた。私は日常的な飲酒の習慣はない。しかし仕事帰りに寄ったコンビニで「飲みなさい。これは義務なのです」とばかりにビールから話しかけられた。「義務ならば仕方ない」と自分に言い訳しつつ購入し、帰路についた。読者諸兄もそんな経験があるであろう。無くてもことは、首を縦に振っていただきたい。
帰宅し、ソーセージと目玉焼きという朝食のような夕食を済ませ、風呂に入る。満腹感と風呂の暖かさが私に幸せを感じさせる。
風呂にはいつもより長めに浸かった。これからビールなのだから、至極当然である。おそらく湯船には私の出汁が浮かんでいることだろう。三十路男の俺の汁、である。どこをどう切りとっても嫌な臭いしかしなさそうである。ラーメンの汁に、とかそういうことが頭に浮かんだが、あまりに気持ち悪いので思考をここで止めておく。人間には立ち入ってはいけない領域があるのだ。
風呂から出て、お世辞にも引き締まっているとは言えない裸体をタオルで拭く。一寸鏡の前でボディビル風のポーズを取ってみるが、腹と二の腕の肉がプルンと動くだけであった。運動をする用にジャージを買ったはずだが、ジャージを買っただけで体が引き締まるわけでもない。そもそもそのジャージも、何所に行ったか分らない有様である。私に運動をする気が無い証明のように思えた。確か三千円ほどであったと記憶しているから、それなら牛丼を十杯ほど胃袋に流し込んだほうが有意義であったのではないか。
そんなことを考えながら、酒の胃袋に流し込む。ゴブゴブと私の胃袋に流し込まれるビール。そして一缶を一気に飲み干した後、「ぷえぁ!」と、明らかにおっさんが発しそうな声が口から勢いよく迸った。口の端から零れ出るビールを袖で拭いながらなのだから、何分おっさんというのにも説得力が出る。
久しぶりのビールは美味かった。しかも風呂上りである。体から男汁が出きった後のビールである。これが美味くないはずが無い。渇いた体にアルコールが染み込んでいく。スポンジが水を飲み込んでいくが如く、である。
立て続けに三缶ほど胃袋にビールを仕舞い込んだ。以前にも書いたが私は酒に弱い。ビールを三缶も開ければ浮世から涅槃に真っ直ぐダイブである。この世の極楽はここにあったか。色々な物がどうでもよくなり、諦観の彼岸に私は立っていた。これぞ悟りの境地である。
そんな折、私の電話が着信を鳴らした。時刻は夜九時過ぎ。電話をするにも少し遅い時間ではある。はたして誰であろうか。電話のディスプレイを見ると、「大宮(狐)」と表示されていた。狐である。悪名高き現代の物の怪からの電話である。もうすでに嫌な予感しかしないのであるが、とは言うもの電話に出ないわけにもいかない。それでは浮世の渡世は渡れない。とにもかくに電話に出ることにした。
「こんばんはー。久しぶりー」
大宮の声はいつもの調子であった。この場合のいつもの調子というのは酒に溺れている、という意味である。声の感じが既に酔っている。諸兄、酔っ払いと話をしたことがあると思うが、おおよそそんな声の感じだとご理解いただきたい。
酔った大宮との電話。これから何が起ころうというのだ。毛髪的な問題は多分起こらないのであろうが。
「ねー。ねー。いいこと教えて欲しい?」
いいこと?いいこととは何であろうか。次の宝くじの当選番号は知りたいが、そういうことではないわけだ。
私が高校生くらいであれば、女性から「いいこと教えて欲しい?」と言われれば、あらぬ妄想をかきたてられ、どんぶり飯三杯はいけるところであるが、いかんせんそこまで若くは無い。なお「いけないこと教えて欲しい?」でも、同じような妄想を繰り広げられる。
さて、いいこととはなんであろうか。ともかく話を進める。
「実はねー。今、君の好きそうな黒髪メガネで読書好きの女の子と飲んでるの」
ガタッ!
私は立ち上がった。なぜ立ち上がったのは私にも分らない。体が自然に反応したのだ。今は立ち上がるときなのだ、と。電話を握り締めながら仁王のように地を踏みしめていた。電話を持つ手に力が入り、わなわなと震える。
「デネブ」「アルタイル」「ベガ」は夏の夜空を飾る天体の大三角形であるが、「黒髪」「メガネ」「読書好き」という大三角形が今電話の向こう、手に届く範囲に存在しているのである。
「ふふーん。紹介して欲しい?」
一も二も無く「紹介してくれ」と頼む私。これを僥倖と言わず何と言うのか。こんな出会いもあるのだ。神は私を見捨ててはいなかった。まだまだいける。生きていてよかった。死を意識したことはないが、生まれてきたことに感謝である。ニルヴァーナ!ハレルヤ!お母さん!今日はお赤飯にしてください!
「千葉ちゃんっていうの!フェレットに似てる、かわいい子だよー。いいだろー。かーわいいんだよー」
私はフェレットと言うものが何かは知らぬ。フェレットだろうがフェラガモだろうがフェブラリーだろうが、さした問題ではない。「黒髪」「メガネ」「読書好き」という三点があればよいのだ。
というよりも、私の思考はそこでロックし占められており、私の頭の中で燦然と輝いているのだ。擬音で表すと、ドン!ドン!ドン!パパーン!である。この言語では難しい感情を擬音で表現してみたが、おそらく二割も伝わっていないであろう。いいのだ。そんなことは瑣末な問題だ。今回は読者諸兄を置いてけぼりである。
「まぁね。前に迷惑かけちゃったからその借りを返す、とかそう思ってくれればいいよ」
なんということでろうか。悪鬼羅刹、地獄の鬼の成れの果てだと思っていた大宮から、そんな言葉が出るとは思わなかった。というよりも、ちゃんと迷惑をかけていた、と思っていたことに驚きである。大宮もちゃんとした市民であることに一種愕然とした。狐とか呼んでごめんなさい。
その後、詳細は後日決めるとして、あとは高島も含め、まぁ合コンをしようという運びとなった。
今日は記念日である。大宮記念。なんだか競馬の賞にあるような名前だが、そんなことはどうでもいい。重要なことは、黒髪メガネの読書好きの乙女との出会いが決まったことであり、そして、私の嫌な予感が外れた記念日でもある。
私は握り締めていた携帯を取り出し、大宮のページを開ける。そして、名前を「大宮(狐)」から「大宮(お狐様)」に修正した。せめてもの感謝の気持ちである。もっとも、大宮は自分が狐と思われていることは露ほども知らないであろうが。
そして話はこの章の冒頭に繋がる。