掃除の先より出しもの
中村がフィギュアの塊に、成って果てた翌日その夜。私は家の大掃除をすることにした。
というのも、あの地震で自宅の二階が壊滅的打撃を受けたからである。
一階は比較的無事であったが、二階は日頃使っていないこともあり、なんというかこう、言葉では形容しづらい様相を呈していた。机の引き出しを引っ張り出し、中身を全部床に散らかしたような、といえば分かりやすいだろうか。
大掃除は件の化け猫騒動以来であるが、現在の状態はあの騒動後よりも凄まじい。自然の力というものは妖怪物の怪の力を凌駕するのである。
しかし言葉を発していても、部屋が綺麗になるわけではない。ともかく手と足を動かさなければならない。
掃除機、雑巾、ゴミ袋そしてビニール紐を持って二階に上がり、清掃を開始する。物を片付け、いらないものをゴミ袋に詰め、袋の口を縛り、掃除機をかけ、汚れの酷いところは水拭きをする。そんな単調な作業が進む。
それにしても物が片付いていく様子というのは、気持ちのよいものである。私は一種の爽快感を感じていた。
さて掃除をしていると懐かしいものを見つけ、それに心奪われて作業が止まることがあるだろう。読者諸兄身に覚えは無いだろうか。いやあるに違いない。これは日本人の因習である、と、ここは断定させて頂く。
そしてお察しのとおり、現在の私もそのようなものを見つけ、手が止まっている。
まず手始めには、中学校の卒業文集が見つかった。
まだ私が麒麟児天狗、そして髪の毛のことなど微塵も気にしていない頃のものだ。文集を開いた私は、懐かしさに体がむずむずした。当たり前のことだが皆若い。いや幼い、というのが正しい表現か。
そして自分を発見したとき、恥ずかしさの余り、すぐに文集を閉じてしまった。
一時の感情に流されたとはいえ、これはあけてはいけないパンドラの箱だ。ワインのように、とことんまで熟成させればなんとかいけるかもしれない。しかしあの頃の自分を笑い飛ばすには、私はまだ若すぎるようである。とにかく碌な思い出なんぞ、ありはしない。
次に発掘されたものは、十五年も昔のマンガ雑誌であった。懐かしさに涙が出そうになる。
中学生、高校生の頃が思い起こされた。
しかしやはり碌な思い出が蘇らなかったので、早々に意識に蓋をし、梵字の書いてあるお札をベタベタ貼り、無意識の海の底に沈めることにした。このマンガ雑誌に罪は無い。すべては私の罪である。なんとも罪深い人生を送っているものだ。いや恥の多い人生か。
さて、次に見つけたのは将棋盤である。
木製で脚は無く、ぱっと見少し厚めの板である。黒茶け色あせた盤面が時代を感じさせる。今は亡き祖父曰く、江戸時代だったか明治時代から存在する年代物である。今なら金銭的価値も、少しは上がっているかもしれない。
不意に盤を裏返してみると、アニメのシールが貼ってあった。間違いなく幼き日の私の仕業である。過去の自分は、物の価値が分からない男であったことを再認識し、自分の阿呆さ加減にほとほと愛想が尽き果てる。まぁ今年だけでも数多、愛想が尽き果てているのであるが。
さてこの将棋盤は、祖父の所有物であり、祖父が亡くなる少し前に譲り受けたものである。
物語は私がこの将棋盤を見つけたことで、過去に遡る。少し私の昔話に付き合っていただきたい。
2018/12/31 加筆修正