愛した不倫夫に功績を盗まれ冤罪追放された私が、公爵と再婚して幸せに。〜高級ブティック前での対照的な結末〜
「もういい! 言い訳は聞きたくない! 君がそんな不実な女だったとは、思いもしなかった!」
怒号とともに、目の前の机が激しく叩かれた。
陶器のティーカップがガタガタと音を立て、紅茶が白地のテーブルクロスに茶色の染みを作っていく。
目の前で肩を荒く上下させているのは、私の愛する夫、レナードだ。
彼はこの地の領主貴族であり、私が心から寄り添ってきた人だった。
「待ってください、レナード。私は決して不倫などしていません。すべては、あなたの、この領地のためなのです」
私は必死に声を絞り出し、彼を説得しようと試みた。
だが、レナードの目は血走り、私の言葉など一切耳に入っていないようだった。
事の始まりは、一ヶ月前。
レナードが主導した新たな鉱山開発事業が、致命的な見通しの甘さにより大失敗に終わったことだった。
莫大な投資金はすべて水の泡となり、我が領地の財政は一瞬にして破綻の危機に瀕した。
毎日、借金取りからの手紙が届き、領民たちの間にも不安が広がっていく。
愛する夫が頭を抱え、日に日に痩せ細っていく姿を見るのは耐えられなかった。
だから、私は動いたのだ。
我が実家の数少ない人脈を辿り、隣国の有力な貴族であるアルベルト卿との外交交渉を取り付けた。
アルベルト卿の領地は交易の要所であり、我が領地の特産品である絹織物を高く買い取ってくれる可能性があった。もしこの独占契約が結べれば、領地の財政は数年で完全に回復する。
私は何度も隣国へ足を運び、アルベルト卿と夜遅くまで書面を挟んで議論を交わした。
時には、ディナーを共にしながら、我が領地の技術がいかに優れているかを必死にアピールした。
すべては、レナードを、領民を救うため。
しかし、それがレナードの目には「男と遊び歩いている」と映ったらしい。
「領地がこれほどのピンチの時に、夜な夜な男と会って外食三昧だと!? 私に愛想を尽かして、次の乗り換え先を探しているんだろう! この売女め!」
「違います! 私はただ、アルベルト卿と交易の契約について――」
「黙れ! アルベルト卿が、君のような小娘とまともなビジネスの話などするものか! どうせ、その若さと身体を売り込みに行っていたに決まっている!」
心臓が、冷たく凍りつくような感覚がした。
若さと身体。
私がどれほど必死に、領地の帳簿を読み込み、関税の計算をし、夜を徹して交渉資料を作ったか、彼は何も知らない。知ろうともしない。
ただ、自分が事業に失敗してプライドを傷つけられた腹いせに、私を汚い言葉で罵っているだけだ。
「……もう、結構です」
私はゆっくりと立ち上がった。
あんなに深く愛していたはずの夫の顔が、今は酷く醜く、ひどく遠い存在に見えた。
私の中で、パキリと、何かが決定的に壊れる音がした。
その日から、私の冷遇が始まった。
屋敷の一番端にある、窓の建付けが悪い狭い部屋へと移され、食事は使用人以下の簡素なものに変えられた。
レナードは私と目を合わせることすら拒み、私を「裏切り者」として扱った。
それでも、私が蒔いた種は芽吹いた。
一週間後、隣国のアルベルト卿から、正式な独占交易契約の書状が届いたのだ。
我が領地にとって、これ以上ないほど有利な条件。これさえあれば、破産は免れるどころか、以前よりも豊かな領地になることが約束された。
私はその書状を、冷遇されている身でありながら、なんとかレナードの執室へ届けた。
「レナード、これを見てください。アルベルト卿との契約が結ばれました。これで領地は救われます」
レナードはひったくるように書状を奪い、目を皿のようにして読み進めた。
その顔が、驚愕から、次第に醜い歓喜へと変わっていく。
しかし、私への感謝の言葉は一言もなかった。
「……ふん。やはり、アルベルト卿も私の熱意に動かされたというわけか。私が以前送った親書が、ようやく実を結んだらしい。実に見事な私の功績だ」
彼はそう言って、鼻で笑った。
私がどれだけ足を運び、頭を下げて勝ち取った成果であるか、彼は完全に無視した。
それどころか、対外的には「領主レナードの天才的な外交手腕により、隣国との大契約を勝ち取った」と発表した。
社交界ではレナードを称える声が響き渡り、私は変わらず、薄暗い部屋で冷えたスープを啜る日々が続いた。
私のレナードへの愛は、完全に冷め切っていた。
もう、この男のために流す涙すら残っていなかった。
そんな冷遇生活が始まって三ヶ月が経った頃。
屋敷の廊下で、私はレナードが見知らぬ若い女性の腰を抱き、熱い口づけを交わしている現場に遭遇した。
女性は、我が領地の商人の娘だという。
私と目が合っても、レナードは悪びれる様子すらなかった。
それどころか、勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。
「見ただろう、アリア。私を裏切った君への、これが当てつけだ。彼女は君と違って、いつでも私を敬い、癒やしてくれる。お前のような冷酷な女は、もうこの屋敷には必要ない」
当てつけ。
ただそれだけのために、彼は不倫に耽り、私を公然と侮辱したのだ。
あまりのくだらなさに、私は怒りよりも先に、深い呆れを覚えた。
「わかりました。では、離婚しましょう」
私が感情の無い声でそう告げると、レナードは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷酷な笑みを戻した。
「ああ、望むところだ。ただし、不貞を働いたのは君の方だという噂は、すでに社交界に流してある。君には銅貨1枚の慰謝料も出さない。実家にも戻れぬよう、手回しはしてあるからな。今日限りで、君は一文無しの平民だ。せいぜい路頭に迷うがいい!」
「ええ、喜んで」
私はその場で身に付けていた最低限の貴金属を外し、机に置いた。
レナードは私が泣き叫んで縋り付くとでも思っていたのだろう。私のあまりに淡々とした態度に、不満そうに顔を歪めていた。
こうして私は、住み慣れた領地を追われ、平民へと身を落とした。
しかし、その時の私の心は、驚くほど軽やかだった。
平民となった私は、隣国の王都へと移り住んだ。
身分は失ったが、私にはレナードの領地を支えるために必死に学んだ、会計の知識と言語のスキルがあった。
小さな商会の事務員として働き始めると、私の正確な仕事ぶりはすぐに評価され、生活はすぐに安定した。
薄暗い冷遇部屋から解放され、自分で稼いだお金で食べる焼きたてのパンは、何よりも美味しかった。
それから一年が経った頃。
私が働く商会に、見覚えのある豪華な馬車が停まった。
馬車から降りてきたのは、まばゆいばかりの金髪と、吸い込まれそうな青い瞳を持つ青年貴族――アルベルト卿だった。
彼はかつて、私が必死に外交交渉を行った相手だ。
「やはり、ここにいたんだね、アリア」
アルベルト卿は私を見つけると、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
貴族が平民の私に声をかけるなど、周囲の人間は驚きで目を見張っている。
「アルベルト様……? なぜ、このような場所に」
「君を探していたんだ。前の領地を理不尽に追い出されたと聞いてから、ずっとね。あの時の君の外交交渉、実に見事だった。私は君の知性と、領民を想う真っ直ぐな瞳に、一目で心を奪われていたんだ」
アルベルト卿は私の前に歩み寄り、平民である私の泥のついた手を、そっと両手で包み込んだ。
「元夫のレナードが、君の功績を自分のものとして発表していたのは知っている。だが、私と直接言葉を交わし、あの素晴らしい契約書を作り上げたのは、紛れもなく君だ。あんな愚かな男に、君は勿体ない。……私と、結婚してくれないか?」
突然の求婚に、私の頭は真っ白になった。
しかし、アルベルト卿の瞳にあるのは、からかいではなく、真摯な情熱だった。
レナードのように私を利用し、罵り、見捨てるような人間ではない。私の努力を正当に評価し、一人の人間として愛してくれる人が、目の前にいた。
「……私のような傷物で、本当によろしいのですか?」
「傷物などと、二度と己を貶めないでくれ。君は私の宝物だ。これからは、私が全力で君を幸せにする」
私は、彼の胸に飛び込みたい衝動を必死に抑えながら、小さく頷いた。
こうして私は、隣国の若き公爵であるアルベルト卿と再婚し、再び貴族の身分へと戻った。今度は、冷遇される妻ではなく、誰よりも愛される公爵夫人として。
一方その頃、元夫のレナードの領地では、静かに、しかし確実に破滅へのカウントダウンが始まっていた。
レナードは、私が結んだ交易契約にあぐらをかき、再び大雑把な新規事業に手を出していた。今度は「隣国との交易路をさらに拡大する」と称し、大規模な運河の建設を始めたのだ。
しかし、私というブレーキ役を失ったレナードの計画は、またしても大失敗に終わった。
莫大な建設費だけが消え去り、今度は前回の数倍にのぼる借金を抱えることになった。
焦ったレナードは、頼みの綱である隣国のアルベルト卿に、さらなる資金援助を求めるため、自ら隣国へと赴いた。
公爵邸の応接室で、レナードは必死に頭を下げた。
「アルベルト卿! どうか、我が領地への追加融資をお願いしたい! 以前の絹織物の契約のように、我々は最高のパートナーのはずだ!」
机を挟んで座るアルベルト卿は、冷徹な目でレナードを見下ろしていた。
「断る。レナード殿」
「な、なぜですか!? 我々の深い信頼関係があればこその、これまでの交易ではなかったのですか!」
アルベルト卿は、ふっと冷たい笑みを漏らした。
「信頼関係、か。よくそんな言葉が使えたものだ。私は、前の契約の際、君の妻であったアリア殿の優れた才覚と、誠実な人柄を信頼して契約を結んだのだ。だが君は、彼女の功績を奪い、あろうことか『不倫の濡れ衣』を着せて追い出した。それどころか、自身が別の女性と不倫に耽っていたというではないか」
レナードの顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
「それは……あれは、アリアが先に――」
「まだ言い訳をするか。私はアリア殿から、すべての真実を聞いている。君がどれほど彼女を冷遇し、自身のプライドのために傷つけたかをね。不貞を働き、恩人を足蹴にするような不誠実な男を、私が信用すると思うかね?」
アルベルト卿の言葉は、まるで鋭い刃のようにレナードを突き刺した。
「そんな……では、我が領地は見捨てられるというのですか!?」
「見捨てるも何も、最初から私は君など信用していない。今すぐ我が邸から立ち去られよ。二度と、我が領地の敷地を跨ぐな」
レナードは完全に絶望し、這う失意のまま応接室を後にした。
最大の取引先から完全に絶縁されたレナードの領地は、またたく間に債務不履行に陥った。
爵位は剥奪されずとも、領地は王室の管理下に置かれ、レナードは名ばかりの、完全に没落した貧乏貴族へと転落したのだ。もちろん、あの当てつけで囲った不倫相手の妻と共に。
それからさらに、一年が経過した。
王都の初夏の風は、とても心地よい。
私は今、アルベルトと共に、王都で最も格式の高い高級ブティックを訪れていた。
来週開催される、王宮主催の晩餐会に着用するためのドレスを新調するためだ。
「アリア、この深いサファイアブルーのシルクはどうだい? 君の美しい髪に、とてもよく映えると思うんだが」
アルベルトが、上質な生地を私の肩に当てながら、優しい眼差しで微笑みかけてくれる。
「素敵ですね、アルベルト。あなたの選んでくださるものは、いつも私にぴったりですわ」
「当然さ。私は毎日、世界で一番美しい私の妻を見つめているのだからね」
店員たちが羨ましそうに微笑む中、私たちは仲睦まじく談笑していた。
私は今、これ以上ないほどの幸福の中にいる。
アルベルトは私の仕事を尊重し、今では彼の領地の財政管理の一部を私に任せてくれている。私の能力を認め、愛してくれる彼のために働く時間は、本当に充実していた。
ドレスの採寸を終え、仕立て上がりの手配を済ませた私たちは、ブティックのガラス張りの出入口から外へ出ようとした。
その時だった。
「おい! これっぽっちの予算で、まともな服が買えるわけないじゃない! あなた、本当に貴族なの!? 恥ずかしくて街も歩けないわ!」
「うるさい! 今の我が家の財政状況を知っていて言っているのか! 贅沢を言うな、この悪妻め!」
通りの向かい側から、酷く下品で、聞き覚えのある罵り合いの声が聞こえてきた。
思わず目を向けると、そこには、目も当てられないほど惨めな男女の姿があった。
男の方は、かつて私の夫だったレナードだ。
かつての仕立ての良い高級なスーツ姿は見る影もなく、何度も洗濯して生地の薄くなった、ヨレヨレの古い上着を着ている。髪はボサボサで、頬はこけ、目元には濃いクマが刻まれていた。
その隣で、キンキンと甲高い声で文句を言っているのは、あの不倫相手だった新しい妻だ。
彼女の顔は、お世辞にも美しいとは言えなかった。厚化粧で隠しきれない肌の荒れと、不満で常にへの字に曲がった口元。何より、品性というものが微塵も感じられない。
二人が立っているのは、高級店が立ち並ぶこの通りの中で、唯一ぽつんと店を構える、労働者向けの「量販格安衣料店」の前だった。
店先には、大量生産された安っぽいワゴン品がうずたかく積まれている。
「これを見ろ! この店なら、銅貨1枚で3着も買えるんだ! お前にはこれで十分だ!」
レナードが、ワゴンの底から引っ張り出した、染めムラのある不細工な茶色の既製服を新妻に押し付ける。
「嫌よ! こんな芋臭い服、着られるわけないでしょう! 私はもっと、あっちの店にあるような綺麗なドレスが着たいのよ!」
新妻が指差したのは、まさに今、私とアルベルトが出てこようとしている高級ブティックだった。
その指の先を追うように、レナードがこちらに視線を向けた。
私と、レナードの目が、真っ正面から合った。
「……あ、……あ、アリア……!?」
レナードが、幽霊でも見たかのように目を見開き、ガタガタと震え出した。
私の姿を見て、彼は言葉を失っていた。
今の私は、最高級の仕立てのドレスを身に纏い、首元にはアルベルトから贈られた大粒のダイヤモンドが輝いている。肌は艶やかに輝き、内面からの充実感が全身から溢れ出ているはずだ。
何より、私の隣には、王国内でも誰もが憧れる若き英雄、アルベルト公爵が、私の腰を優しくエスコートするように支えている。
「レナード? どうしたのよ、急に黙り込んで……って、え? だ、誰よあの綺麗な人……」
新妻も私の姿に気付き、その圧倒的な格差に、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
レナードは、信じられないというように、ふらふらとこちらへ歩み寄ろうとした。
その目は、かつて自分を無条件で愛し、領地のために尽くしてくれていた「都合の良い妻」を探しているようだった。激しい後悔と、惨めさと、縋り付きたいという卑しい欲望が、その瞳にドロドロと渦巻いている。
「アリア……本当に、アリアなのか……? そんな、どうして君が、アルベルト卿と……。ああ、アリア、私は間違っていたんだ! あの時、君の言葉を信じるべきだった! 今の妻は、毎日金の文句ばかりで、私を少しも敬ってくれないんだ! 頼む、アリア、私には君が必要んだ! もう一度、私の元へ――」
彼がそこまで言いかけた時。
アルベルトが、一歩前へ出て私を背中に隠すように庇い、氷のような視線をレナードに突き刺した。
「不躾だな、没落貴族レナード殿。私の愛する妻に、気安く声をかけないでもらいたい。君のような不実極まる男が、我が公爵夫人に近づくなど、無礼にも程がある。これ以上不快な言葉を重ねるならば、衛兵を呼ぶが?」
公爵としての圧倒的な威圧感。
レナードは、その一言で完全に蛇に睨まれた蛙のようになり、ひっと短い悲鳴を上げて飛び退いた。
私は、アルベルトの背中の後ろから、レナードの姿を静かに見つめた。
怒りも、恨みも、何も湧いてこなかった。
ただ、
「ああ、本当に、この人と離婚して良かった」
心から、そう思った。
もしあのまま、あの領地で冷遇に耐え続けていたら、私は今頃、彼の失敗の巻き添えを食って、一緒にあの格安店の前で泥沼の罵り合いをしていたかもしれない。
私を捨ててくれたおかげで、私は本当の幸せを掴むことができたのだ。
「行きましょう、アルベルト。あまり長居するような場所ではありませんわ」
私はレナードに向かって、完璧なお辞儀――しかし、完全に「見ず知らずの他人」に向ける、冷ややかな社交辞令の微笑みを一度だけ浮かべてみせた。
「そうだね、アリア。君の美しい目を、これ以上汚すわけにはいかない」
アルベルトは私に極上の笑みを返すと、再び私の腰を優しく抱き、用意されていた豪華な公爵家の馬車へと私を導いた。
「待ってくれ! アリア! アリアーーー!」
背後で、レナードの惨めな絶叫が響き渡る。
しかし、新妻が「ちょっと! 私を置いてあの女の後を追う気!? この甲斐性なし!」と彼の服を引っ張り、再び醜い怒号の応酬が始まったようだった。
馬車の扉が閉まると、外の喧騒は一切聞こえなくなった。
「大丈夫かい、アリア」
アルベルトが心配そうに私の顔を覗き込む。私は彼の手に自分の手を重ね、心からの笑顔で答えた。
「ええ、全く問題ありませんわ。私には今、世界で一番素敵な旦那様がいますもの」
「……ありがとう、アリア。これからもずっと、君を離さないよ」
馬車は静かに走り出し、私たちは輝かしい未来へと向かって進んでいく。
窓の外に小さくなっていく、格安店の前で頭を抱えて座り込む元夫の姿は、もう二度と、私の視界に入ることはなかった。
面白くても、そうでなくとも…
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