第4話 そして、スパイは名を上げる
湯気の立ちこめる温泉地帯へ踏み込んだ瞬間、音もなく湯気の中から“それ”は現れた。
(……筋肉密度、異常。外骨格なし。武器もなし。純粋な肉弾型か)
「耐久とパワー押しタイプ、ってとこね」
私は即座に身を滑らせ、湯気のカーテンの中に身を隠し、アームバレットを構えた。
(………フォーカスブレイク、展開)
湯気の中、ターゲットの輪郭とともに急所【左胸部、頭部、股間】が脈打つように色濃く滲んで見えた。
「狙うはむき出しの左胸部、最優先で!」
私は迷わず、アームバレットの起動ボタンを押した。
圧縮機構が作動し、ダーツ型のボルトが湯気を裂いて一直線に突き進む。
しかし!
「おっとォ!!?」
カイエンは驚異的な反応で体を捻り、ボルトを紙一重で回避した。
そのまま湯気をかき分け、サメ顔が叫ぶ。
「俺様を狙うとはいい度胸だ!わが名はカイエン!!勝負だ!!」
(戦闘中に、名乗り……?)
私は眉一つ動かさず、次の一撃を装填した。カイエンは構わず、胸を張って吠える。
「海の炎は、消せやしないんだァァァ!!!」
「なら、沈めるまでよ!」
私は冷静に、次のボルトを放ったが、照準がぶれてボルトはわずかにかすっただけ。
直後、巨体が弾丸のように突進してくる。
(っ…!?読んでたより、ずっと速い!)
私はタックルを完全に避けきれず、湯気を巻き込みながら温泉源にドボンッと叩き込まれた。
(温かい……!?でもっ……深い)
私は即座に息を止め、水底へ潜る。潜水なら三分間、問題ない。
(次こそ確実に)
水中に身をひそめ、再びフォーカスブレイクを展開。
水流に紛れた巨体がぼんやりと浮かび上がる。
(右足、重心が甘い)
私は再び腕のボタンを押す。
シュッ、と水を切ってボルトが飛び、右足に命中した。
「ギャッ!!」
カイエンの巨体がぐらつく。
(今!)
私は水底を蹴り、勢いよく湯気を割って飛び出した。
空中、再度アームバレットを構える。
「ターゲット、頭部に変更、スナイプ!」
ボルトが一直線に放たれ、牙をかすめてサメ顔の眉間を撃ち抜いた。
ドスンッ。
巨体が、温泉源の激流にドボーンと崩れ落ちる。
(……仕留めた?)
私は警戒を解かずに構えを維持した。
だが次の瞬間、湯気の向こうから鈍い呻き声が漏れる。
「ぐぬぬぬ……お、おのれ……っ」
「……まだ喋れる余裕あるのね」
崩れた体が、湯の流れにゆっくりと巻き込まれ、その姿が徐々に遠ざかる。
「覚えてろよぉぉぉぉぉ……ッ!!」
私は静かに息をついた。
「……牙で威力が分散した?人間とは少し勝手が違うわね…」
私は苦笑しながら、崩れた温泉の縁に寄った。すると、湯面に浮かぶものが目に入る。
鋭い牙の欠片。さきほどの戦闘で、折れたらしい。
(証拠、確保)
「オーダー内容は”撃退”。これで問題ない」
私は手早く牙の破片を拾い上げ、静かに湯けむりの戦場を後にした。
*********
(それにしてもアイツ、私の初手をかわすなんて……さすが特級危険指定)
ギルドの扉を押して中へ入ると、途端にカウンター奥から聞き覚えのある慌てた声が響いた。
「あっ!ミライさんっ!!生きて……っ、生きてたんですね!!」
駆け寄ってきたのは、栗色のポニーテールを揺らす、あの新人受付嬢だった。目をうるうるさせながら、慌てて手元の紙束をぐしゃっと抱え直す。
「えっと、その、ほんとすみませんっ!!私っ、やばい案件紹介しちゃってっっ!!」
ぺこぺこと頭を下げながら、彼女は机越しに必死で謝り倒す。
「代わりに違う案件いっぱい用意しておいたんで、すぐに手配を……」
「討伐完了」
私は淡々と、シャークオーガの牙を差し出した。
「はい、証拠品。」
「……え?」
シャークオーガの牙を目を丸くして確認する。
「どっしぇぇぇぇ!!すごい!!とっくに倒してるぅぅ!!」
受付嬢はギルド中に響く声で絶叫する。
「まあ、悪くなかったわ」
私は軽くため息をつきながらも、その必死な姿にわずかに口元を緩めた。その瞬間、ギルド内がふわっと静かになった。
近くの椅子に座っていた斧使いの男が、「まじかよ……」と呟き、魔術師風の女性が驚いたようにこちらへ視線を向けた。
「シャークオーガをソロで追い払ったのか?」
「しかも新人登録直後の初案件って……かっこいいわ!?」
「シャークオーガの牙、ありゃ本物だぞ!」
ざわざわとした声が広がる。
視線が集まる中、ひとりの冒険者が声をかけてきた。
「お嬢さん、助かったよ!あの魔物、最近うちの配送組も襲われてたんだ。本当にありがとな!」
(あまり目立ちたくはなかったけど…仕方ないわね)
私は心の中で小さく会釈をして、そっと冒険者から視線を外した。
「ミライさん、本当にありがとうございました!!これ、正式な報酬とギルドからのお詫びも兼ねて!」
差し出された袋は、想定していたよりもずっしりと重い。
(……わぉ、思わぬ副収入)
ぱちぱちと手を叩く音があちこちで響き、視線と歓声が一斉に私に向けられていた。
「ちょっと……こういうの慣れてないんだけど、仕方ないわね」
私は小さく息をつきながら、報酬袋を片手に掲げて見せると更に大きく歓声が上がる。
どうやら、本当に感謝されているらしい。
(……ま、悪い気はしないけど)
そして私は、そそくさとギルドを後にした。