第2話 そして、スパイは調査する
次元ゲートを抜けた瞬間、蒸した空気が肌にまとわりついた。
(……高温多湿。視界不良の劣悪環境──いや、想定内)
まずは転移の痕跡を消す。次元超越任務の基本中の基本。
そして。
スパイマニュアル第一条。
最優先すべきは、周囲に自然に溶け込むS・P・Y、よね。
「Silence——さわぐな」
「Presence——目立つな」
「Yield——でしゃばるな」
新人研修で唯一心に残った教えをつぶやきながら、私は静かに呼吸を整えた。
アサシンだった頃とはやる事は違う。
だが、暗殺任務でもスパイさながらに周囲を欺いて溶け込むやり方はあった。
手練れのスパイともなると「自分がスパイ」である事すら忘れる境地に達するらしい。
”任務終了”のその時まで。
私は口角をわずかに上げると、目立たぬ歩調で湯気の中へと足を踏み出した。
足取りは自然に。
けれど、いつでも動けるように緊張を保つ。
道の脇では、浴衣姿の男たちがだらしなく縁側で談笑している。
(ここは超危険地帯。ああ見えて達人の可能性大)
すると、男たちから何かを打ち鳴らすようなカチャカチャという音が聞こえた。
———警戒レベル3!
(これは、通信音?それとも交信!?)
一瞬、心の中で警戒する。
しかし次の瞬間、麻雀のような遊具の音だと気づいて、胸をなでおろす。
(……ふ、普通の町人か)
さらに歩く。
すると、どこかで、ちりん、ちりんというシグナル音が。
(警報!?しまった!侵入者探知か!?)
音の方向に目を向けると―――。
ただの風鈴だった。
可愛らしい瓢箪型のガラス風鈴が、優雅に揺れている。
(よし、ここは非武装地帯のようね?)
―――警戒レベル2にダウン。
通りを進むと、湯気を上げる屋台が見えた。
立ちのぼる白い煙は焼き物の香ばしい匂いが。
「おねえさん、かわいいからサービスするよ!一本いっとく?」
獣人のおじさんが、笑顔でホクホクの焼き芋を手渡してくる。
(……敵意なし。絶対、敵意なし!)
私は渋々、焼き芋を受け取った。
これも、現地の文化に溶け込むためだ。
仕方なく熱々の芋にかじりつき、もぐもぐする。
(あ、あま~い。これ好き好き、超好き~!)
(コホンッ、落ち着け、私。これはBadland。油断は命取り)
焼き芋片手に、私は再び歩き出した。
視界を覆う湯気の向こう、赤い提灯がちらほらと揺れている。
賑わっているように見えるが、ここは武装等級:S。
気は……もぐもぐ……抜けない……もぐもぐ…。
(よし、まずは資金現の調達よね)
身分を偽り、情報を集め、潜伏する。
そのためには現地通貨が必須だ。
ディメンショナル・コードから初回支給金は受け取っているが、浪費ばかりではすぐに底をつく。
スパイとしての基本中の基本。
(よし、冒険ギルドかなにかを探そう)
私は表情を変えないまま、通りを抜けると不穏な声が耳に入る。
「王を追い詰めたぞ」
「いや、我が王はまだ堕ちん!」
老人がふたり向き合いながら、叫び合っている。
「んなっ!?」
息を呑み、壁越しに身を潜めつつ様子をうかがう。
(さすが、特級危険指定。こんな老人までもが王の命を狙っているの!?)
背筋がぞくりと凍る。
そして、会話を交わす老人たちの会話に集中する。
「そら、王手飛車取りじゃ!」
「っく~!」
よく見ると、彼らは木の駒をカチャカチャと動かしながらなにやら対局している。
(これも遊具ね)
無駄に高まった心拍を、深呼吸で必死に押さえ込んだ。
……しかし油断はできない。
どんなに町や国にも、情報の流れる水路は存在するのよ。
「あった!」
石造りの建物。正面に、【職能組合】と刻まれた木の看板。
建物の壁には、案件の張り紙がずらりと並んでいる。
討伐、採集、調査。
(私にもやれそうな内容、ありそうね)
心の中で小さくガッツポーズを決める。
(資金調達して潜伏先の確保……まずは、足場を固めるのよ)
私はギルドの重い扉へと手を伸ばした。




