9 作戦②中断、オペラに降りかかる噂話
ミルフィ嬢とのお茶会を直前で断り、代わりに王弟グラニーテ公と時間を過ごすことになった日から五日が過ぎた。ミルフィ嬢とのお茶会が流れたことにもっとも喜んだのはホワイトで、「あんな方とお姉様が二人きりでお茶会だなんて最悪ですわ」と頬を膨らませながら不満を口にする。
「ホワイト、ミルフィ嬢はあなたより二歳年上よ。それにあんな方と呼ぶのはよくないわ」
「でも……」
オペラの咎める眼差しに気づいたのか、少し俯きながら「ごめんなさい、お姉様」と謝る。しかししょげたのは一瞬で、すぐに顔を上げると「それよりお姉様、あのお話は本当ですの!?」と食いつくように身を寄せた。
「あの話?」
「いま社交界ではお姉様と王弟殿下の噂で持ちきりですわ! 二人きりでお会いになって、それで……それで……」
「それで?」
「それで……」
顔を真っ赤にしながら、ホワイトが悲しそうでもあり悔しそうでもある複雑な表情を浮かべる。
「もしかして貞淑な淑女とは言いがたいことをしていた、と噂されていることかしら」
「お、お姉様がそんなふしだらなこと、なさるはずがありませんわ! あたし、あまりにひどい噂に『ふざけないで!』と侍女たちを叱りましたのよ!」
どうやら使用人たちの間でも噂が流れているらしい。もちろんオペラも噂の内容は把握していた。未来の王太子妃として社交界の噂話を注視するのも役目の一つだと心得ているからだ。
(二人で会ったのだからどちらにしても噂にはなったでしょうけれど……。それにしても、ここまで悪いほうに転がるとは思わなかったわ)
そもそも二人きりでは会っていない。グラニーテ公は最初に宣言したとおり侍女たちを部屋に引き留めた。そんな状況で噂話のような不埒な行いができるはずがなかった。しかし噂とは恐ろしいもので、「二人で会っていた」という事実さえあれば、ほかが嘘か誠か誰も気にしない。さながら真実という果実にたっぷりとかけた蜜ばかりを舐めては喜ぶ子どものような状態で、そうした蜜に翻弄されたのはオペラの身近にもいた。
(お兄様まで噂に踊らされるなんて情けないこと)
翌日オペラを部屋に呼んだフリューは、言葉少なに真相を問い詰めた。それを「わたくしがそんなはしたないことをすると思いまして?」のひと言で切り捨てたのはオペラだ。まさに戦乙女と言わんばかりの凛々しい表情に、フリューはそのまま何も言うことなく「わかった」とため息をついた。
(あっさり引き下がったのは殿下に冷たくされた傷が癒えていないからでしょうけれど)
兄の様子が気にならないわけではないが、いまは“ぷろぐらむ”がこの先どう動くか見極めることのほうが大事だ。オペラは「王太子妃」の文字を見つめ、それから「悪役令嬢」の文字の横に「強制力が強い?」と書き加えた。
「お姉様、これはどういう意味ですの?」
ホワイトが書き加えた文字を指さしながら問いかける。
「今回の一件でそうではないかと思ったの」
「今回の一件?」
「王弟殿下とわたくしが会ったことよ。そのことで予測できた結果は二つあったわ。一つはわたくしが王太子妃に近づくこと。これはボンボール公が認めた令嬢と評価された場合の展開ね。もう一つは悪役令嬢、つまり候補者から外れる道に近づくこと。いまはこちらのほうが圧倒的に強いわ」
王太子妃候補は三人になった。おそらく“ぷろぐらむ”は候補者を二人にしようとするだろう。その力の表れが今回のオペラに関する噂話で、このままオペラが王太子妃にふわさしくないと大勢が判断すれば王太子妃候補は“ぷろぐらむ”が目指すとおり二人に戻る。
(何か起きれば悪い方向に働くと考えておいたほうがよさそうね)
どちらの噂が流れるかまでは予想できなかった。これまでのオペラを知る社交界なら好意的に受け止める可能性のほうが高かったかもしれないが、結果はこうだ。今後は何かあれば悪い方向に転がると覚悟をしておいたほうがいい。
(けれど“ぷろぐらむ”が何を仕掛けてくるかはわからない。それならこちらから仕掛けたほうがよさそうね)
そのために、もっと王太子妃候補の数を増やさなくては……オペラの黒い瞳がきらりと光る。
「あの……それで、実際のところはどうでしたの?」
「どうとは、どういうことかしら?」
「その……お姉様と王弟殿下が二人きりで何をされていたのか気になって……」
信じてはいるものの気になって仕方がない、ホワイトがそんな顔をしている。複雑な表情になっているのは遠慮と興味がせめぎ合っているからだろう。「そういう顔も可愛らしいわね」と微笑みながら、持っていた鉛筆を置き紅茶を一口飲んだ。
「ボンボール公は王太子殿下のことをとても心配していらっしゃったわ」
「王太子殿下のことを……?」
「詳しくは話せないけれど、殿下をお支えしてほしいというお話だったの。ふふっ、色っぽい話でなくて残念だったかしら?」
「そ、そんなことありませんわっ。あたし、お姉様がふしだらな方だなんて思っておりませんものっ」
「ありがとう」
「本当ですのよ!」と力説しながら、ホワイトが子リスのように焼き菓子をぽりぽりと囓った。それを微笑ましく思いながら、オペラはグラニーテ公との会話を思い返した。
「カラム殿下は女性不信でいらっしゃるんだ」
紅茶を飲みながらグラニーテ公が最初に口にしたのは意外な言葉だった。
「殿下には姉君が二人、妹君が二人いらっしゃる。姉君は嫁がれていまは王城にいらっしゃらないが、小さい頃はそれはもうにぎやかでね」
グラニーテ公の緑眼が何かを思い出すように窓の外を向いた。
「王太子として立派であれという姉君たちなりの愛情だったのだろうが、それはもう厳しくてね。しかも剣も馬も姉君たちのほうが圧倒的に腕が立つときた。妹君たちも同様だ。そんな女性陣に囲まれてお育ちになったせいか、殿下は段々と女性が怖くなられたようなんだ。それでも王女殿下方は王太子教育だといって女性の扱い方、女性が好む文学や衣服、お菓子、そうしたことまで徹底的に叩き込むことを続けられた」
「まぁ、そうでしたの」
「生まれたときから強い女性たちに囲まれていたせいか、いまでも殿下は女性と接するのが苦手でいらっしゃるようなんだ。これは大きな声では言えないが、ほら、王妃も……ね」
囁くグラニーテ公が「だから兄上の浮気癖を強く咎めることができなくてね」と困り顔で笑う。オペラに頷くことはできなかったが、内心では「ごもっともかもしれないわ」と納得した。ほかの王太子妃候補をすべて蹴落とすほどだった王妃は、美しく聡明で立派な方だが気丈すぎるほど強い。隣に立つ国王が霞んで見えるほどだ。
(殿下はわたくしに王妃様の影を見ていらっしゃるのね)
だから遠ざけようとするのだろう。もはや好意以前の問題だ。
(ということは、わたくしよりホワイトのほうが王太子妃に近い状況かしら)
はたしてホワイトがそのことを喜ぶかどうか……そんなことを考えていたオペラの右手をグラニーテ公がそっと持ち上げる。
「話で聞いたいたガトーオロム公爵令嬢は、まるで王妃のようだと思った。しかしこうして実際に会えばまったく違う。僕は役目柄あちこちの国に足を運んでいるが、きみほど聡明で美しいご令嬢には会ったことがない。王太子妃候補として完璧だと僕は思うよ」
突然何を言い出すのだろう。可愛い甥の妃候補として賛美しているように聞こえるが、どうもそれだけではないような雰囲気が漂っている。
「ありがとうございます。ボンボール公にそうおっしゃっていただけるのは光栄ですわ」
「いまのは世辞じゃない。紛れもない賛辞だ」
どうやら言葉の真意を測りかねていることに気づいているらしい。「察するのがお上手なのは年の功かしら」と思いつつ、オペラは初めて男性との会話に充足感を覚えていた。
これまでオペラが積極的に会話を持ちかける相手は王太子がほとんどで、しかし会話らしい会話になったことがない。社交界で年頃の貴族子息と話す機会があるものの、大抵は相手が緊張して話が途切れるか、そもそもオペラに見惚れて会話が始まらないことすらあった。
(十歳以上違うのですもの。それにわたくしが王太子妃候補だとしてもボンボール公は王弟殿下、緊張なさったりはなさらないでしょうけれど)
ふと見た緑眼は優しくも熱心だ。誰からもそうした眼差しで見られたことがないオペラは内心うれしさく思っていた。同時になぜか既視感のようなものを覚える。たしかに王太子に似ているところはあるものの、それほど王太子と親しかったわけでもないのにと首を傾げた。
(王太子妃候補なのに親しくないだなんて、これでは笑い話にもならないわね)
自嘲気味に微笑みながら「世辞ではないなんて、ご冗談がお上手ですわ」と口にした。謙遜している言葉ながらオペラの声色は艶やかで、嫌味にならない程度に自信を匂わせている。さて、この反応にボンボール公はどう返してくるだろうか。そんなことを考えながら王弟を見る。
「冗談なんかじゃない。服装や雰囲気だけで今日到着したことを言い当て、さらに僕を相手にしても軽妙な返事をする。僕を知るほとんどのご令嬢方は、そうはできない」
「なにせ僕は優秀で素敵な王弟殿下だからね」と冗談めかす表情に、オペラは「ふふ」と微笑んだ。どうやらグラニーテ公はオペラの声色から挑戦されていると読み取ったらしい。グラニーテ公の言葉には悪戯めいた雰囲気だけでなく「さぁ、これにはどう答える?」というような気配が混じっていた。兄とも父とも違う反応に「おもしろいわ」と胸の内で微笑む。
「もちろん優秀な方だということは存じております。けれどこんなに素敵な方だとは存じ上げず、わたくしも多少は緊張しておりますわ」
あえて「多少」とつけ加えたオペラに、グラニーテ公が「やはりきみはすばらしい」と言いながらニヤリと笑った。
「ここで僕がきみを小娘だと侮れば、もしくは褒められたことに有頂天にでもなれば、きみは僕をそれまでの男だと見限るだろう。緊張はしているがしっかり見ていると言っているのだからね。そのことを見極められなかった僕は社交界で情けない男と噂され、評判はあっという間に地の底だ。なにせきみはオペラ・ガトーオロム公爵令嬢、それだけの影響力を持っている」
あえて微笑みだけを返すオペラに「出会えた幸運に感謝を」と言い、持ち上げた右手の指先に触れるだけの口づけを落とした。
それから二人は一時間ほど会話を楽しんだ。外国の書物や文化の話から始まり、政治的な内容、さらには巷で流行っている大衆演劇や食べ物の話まで話題が広がっていく。グラニーテ公から機転の利いた言葉がポンと返ってくるのは楽しく、オペラも負けじと知識を総動員しながら機知に富んだ言葉を返した。
「今日は無理に誘って申し訳なかった。きみがガトーオロム公爵令嬢だと知って、殿下のことを伝えておかなくてはと気が急いてしまった」
「わたくしこそ、カラム殿下の繊細なお心を知ることができてよかったと思っておりますわ」
「王太子妃候補が決まって一年、候補者が二人になって三カ月、その後一向に話が進んでいないことは気になっていた。そんなとき殿下から手紙が届いてね。それならばと顔を見に来たんだが、しばらく王城に滞在することなったところだ」
「ボンボール公はお優しい方ですのね」
「殿下のことは生まれたときから見ているからね。それに領地に行ってからも変わらず慕ってくれている。僕にとってはいつまでも可愛い甥っ子だよ」
「わかるような気がいたしますわ。わたくしにも妹のように思う子がおりますもの」
「ほう、それは興味深い」
「口うるさい兄よりも可愛い妹がほしかったと、じつはずっと思っておりましたの」
「あぁ、なるほど」
グラニーテ公は兄フリューの噂を知っているのだろう。「たしかに熱心すぎる真面目な兄より慕ってくれる可愛い妹のほうがよさそうだ」と笑みを浮かべた。
「今日はとても楽しかった。そのうちお茶会を開くことになるだろうが、きみにも招待状を送ろう」
「ありがとうございます」
「オペラ嬢にはぜひ来てほしい。いまの僕の願いはそれだけだ」
最後は「きみ」とは呼ばず「オペラ嬢」と口にした。それに少なからずドキッとした。
(ただ名前を呼ばれただけなのに、おかしなこと)
それなのに思い出すだけで胸がざわつく。低く艶やかな声に以前も名前を呼ばれたような気がするのはなぜだろうか。
思い出に耽るオペラに「お姉様、どうかされましたの?」とホワイトが心配そうに顔を覗き込んだ。
「なんでもないわ」
「どうかご無理はなさらないで」
噂話に心を痛めているのではと心配するホワイトの頭をポンと優しく撫でたオペラは、紙に書いた「ぷろぐらむ」という文字を見た。
(これから“ぷろぐらむ”はどう動くのかしら)
王太子妃候補は三人になった。その中ではオペラがもっとも候補者から外れる可能性が高い。このまま候補者から外れれば“ぷろぐらむ”はホワイトとミルフィ嬢の二人から悪役令嬢を選ぶだろう。
「……悪役令嬢を選ぶ……」
「悪役令嬢」の隣に書き込んだ「強制力が強い?」という文字を見る。
(もし王太子妃を選ぶのではなく、悪役令嬢を選んだ結果、残ったほうが王太子妃になるのだとしたら……)
これまで考えていた前提が大きく変わる。
(そもそも神様がお考えのこともいくつか間違っていらっしゃるわ)
「ぷろぐらむ」の文字から「強制力」に向かって矢印を書き加えた。そして「王太子の気持ち」と新たに書き込み、そこから「ぷろぐらむ」に向かって矢印を追加する。
おそらく神の中では王太子妃候補は王太子妃になりたがっているという前提があるに違いない。そして王太子も妃を迎えたがっていると神は思っている。しかしカラム王太子は女性不信で積極的に王太子妃を迎える意志は薄い。だから三カ月も話は進まず新しい候補者が名乗りを上げることになった。つまり、神が思っている前提はいくつも間違っているということになる。
「そんな状況で“ぷろぐらむ”は正常に動くのかしら……」
「お姉様?」
考え込むオペラをホワイトが心配そうに見つめる。「考えることが多くなってきたわね」とため息をつく姿に、ホワイトの碧眼がきらりと光った。
「あたしも“ぷろぐらむ”というものと戦いますわ」
「ホワイト?」
「お姉様のお役に立ちたいんですの」
鼻息も荒くそう宣言するホワイトに、オペラが「その気持ちだけで十分よ」と微笑みかけた。それでもホワイトは「いいえ、お役に立ちたいのです」と力強く宣言する。
(大丈夫かしら)
ホワイトは普段無茶なことはしないが、オペラが関わることにはすぐに熱くなる。王太子について語る兄フリューに重なるものを感じ、一抹の不安がよぎった。念のためもう一度「気持ちだけで十分よ?」と言い聞かせたが、数日後、オペラの耳に予想外の噂話が飛び込んできた。