終章『運命の選択』
俺は必死になってアリスに走り寄って、手を限界まで伸ばした。すると気付いたアリスも懸命な表情で手をこちらへ伸ばしてくれた。
しかし届かない。届かないまま、アリスは崖から落ちていった。
――選択せよ。今ならばまだ引き返せる。が、コレを選択し終えれば、もう後戻りはできない。今よりもっと険しい道を、ひたすら歩み続けねばならない。どれほど苦しくても、誰を喪っても、絶対に歩みを止めることは許されない。
――お前に、その覚悟があるか?
声だ。あの時の声が聞こえた。
でも俺はそれに返事をしている余裕などこれっぽちも持ち合わせていなかった。
だってアリスが落ちた……そう認識した瞬間には、絶壁の端に留まっていた俺も飛び出していたんだから。次の瞬間、目の前には夕焼けに反射して赤黒く見える海があった。流れる潮風を心地よく感じるが、今はそんなことに浸っている場合ではない。
落ちたのはアリスが先だ。このままでは追いつくことはできない。
現に今も空中でどんどん離されている。
――そうか、お前は結局、運命を選択したか。そうか……。
ごちゃごちゃ頭ん中でうるせぇな、おい! 少し黙ってろ!
にしてもあのバカ、なに目を瞑ってやがる!
今のアリスは安らかな表情をしながら落ちている。まるで全てを受け入れているかのようで、俺が追っていているとは少しも思っていないようだ。
しかし俺には到底受け入れることのできる事態ではない。約束しただろうが、誓っただろうが。
守り抜くと、お前を!
だから――俺は剣を掴み取る!
あの大剣を思い浮かべながら、そっと首筋に手をやる。瞬時に確かな手ごたえが返ってきた。不思議な声は黙れと言われたからか聞こえない。が、この前と同じ全能感が込み上げ、なんでも出来そうな気がしてくる。ならば何の問題もないというもの。
俺は剣を手に持ち、崖の出っ張りを力いっぱい蹴り飛ばした。これだけの加速を加えれば、きっと、いや絶対に追いつける。追いついてみせる。
案の定、もうちょっとで追いつけそうなところまで来られた。しかしもう少しだけ足りていない。
「アリス! 手を伸ばせぇ!」
大声で叫ぶが、風などのせいで聞こえないのかアリスは目を開けない。
「おい! アリス! 目を開けろ!」
ダメだ。全然気がつかねぇ……。
もうじきあの赤い海へ叩きつけられる。海は水だから安全なのか?
いやそんなの分からないじゃねぇか! 確実じゃないのを選べるか! あいつの命がかかってんだぞ!
「アリス! 頼むから俺を見ろ!」
手を伸ばすが、やはり届かない。蹴れそうな場所ももうない。
残された道はアイツが手を伸ばしてくれるしかないのに!
このままじゃ……いや、大丈夫だ! 俺の中には大勢の人たちの想い、仲間たちの想いがある。そして友の想いも。だからこそきっと大丈夫だ。
団長も言ってたじゃん!
大切な事は全部、この心の中にあるんだって!
それなら俺の聖女を信じないで、誰を信じれるってんだ! 信じられないわけがないだろうが!
……ふぅ、よっしゃ! いけるっ!
肺に一気に大量の空気を溜める。そしてそれを思いっきり吐き出した。
もう絶対に手加減なんてしてやらない。全力で叫ぶ、叫びまくってやる。届かせる為に必要なことは、ただそれだけだ。
「おい! このバカ野郎! バカアリス! こっちを見やがれ!」
渾身の想いと、有りっ丈の声を届けてやる。
アリス――お前に届け!
すると想いが届いたのか、彼女の目が薄く開いて、それからカッと大きく見開いた。薄い紫色の瞳はただ俺だけを見つめていて、それがどこか嬉しかった。
そのうちアリスは涙をポロポロと流し始め、何かを叫びだした。しかしこちらまで全くといっていいほど聞こえない。なるほど、こんなにも聞こえないものだったんだな……。
と、そんなこと考えている場合じゃない!
限界まで手を伸ばし、アリスに俺の意思を伝えようとする。分かってくれたのか、アリスも手を伸ばしてくれた。
もう大丈夫。なにも心配いらない。なにせアイツの剣の騎士である俺と、俺の聖女であるアイツが互いに手を差し出しあったのだから。
もう不可能なことなんて、あるはずがないね!
互いの指先が掠める。もうちょっとだ! あとちょっとなんだよ!
限界まで伸ばした腕をさらに伸ばす。この際、肩なんて外れても構わない! アリスが掴んでくれれば、アイツは絶対に離さないから。
そう約束したから!
そして――俺たちは指を絡めあったんだ。
力強く握り返してくるアリス。彼女の暖かさを確かに感じながら、俺は剣を崖に突き刺した。
ガガガァーと地割れのような音がして、ものすごい衝撃が全身を襲ってくる。しかし俺たちの繋がれた手は決して離れることはない。勢いは未だに止まらず、俺たちを海へ引きずり込もうと頑張ってくれちゃっている。
だが止まる! 願望じゃない。推測でもない。これは確信だった。
なぜなら――俺は……俺こそが!
剣の騎士だからだ!
全てを知った。みんなが教えてくれた。
大切な人を守るために必要なのは……そう、とても簡単なことなんだって。
いきなり剣が光りだした。正確には宝玉――剣珠が輝きだしたのだ。果てしなく温かで、圧倒的な光だった。
瞬間、全てが止まった。金属を打ち鳴らしたような音を響かせながら、確かに俺たちは止まっていたんだ。もうちょっとで海というところで……。
でも結局、それから少しして落ちた。海へ。
ザッパーンという音を聞いた気がする。
「ぷはぁっ! おい、アリス。大丈夫か?」
口に入った塩水をペッと吐き出して、すぐにアリスの安否を確認する。
「うん……。ゼクスも大丈夫?」
返事があって、なにより腕の中にはアリスがいて。
俺は彼女を守れたのだと実感した。
「ああ、大丈夫だ。それよりこれから、どうしよ?」
有りのままの現状を包み隠さず伝えると、ガクッとアリスがなったのが分かった。どうやら呆れ半分、落胆半分といった感じだ。
「貴方って……本当に無計画な人よね……」
やはり呆れているようだ。
「そうだけど、悪いのかよ?」
そうさ、俺はいつだって無計画だ。突っ込んだ後で考える主義だと思う。だがそれを恥じたことなど、一度たりともない!
なにせやって後悔するより、やらないで後悔する方が何倍も嫌だからな。
だからどうせやるなら、早いに越したことはない! 所詮この世にはやり方なんて3つしかないんだ。
正しいやり方と、悪いやり方。そして、俺のやり方だ!
しかしてっきり俺は、アリスは悪いと言うものだと思っていた。だからこれは不意打ちだった。
「うん、悪い……。でもね、私はそんなゼクスが好き」
「え?」
迷いのない真っ直ぐな言葉が、心に直接響いてきた。きっと遠まわしじゃ俺が分からないと思ったのだろう、大正解だ。さすがは俺の聖女だぜ。
ふと、腕の中でしがみ付いているアリスの力が強まった気がした。きっとこれは気のせいなんかじゃない。
「貴方がそんなに無茶ばかりやる人なら、私が貴方を止めなきゃいけないよね?」
「え、あ、ああ」
しかし、心の中じゃこんなに冷静なのだが、なにがどうしてこうなったのか分からない現実の俺。いつもの展開にならなくて、俺は非常に焦っていた。
「ゼクス……ありがと」
いきなり頬に生暖かいものを感じた。柔らかくて気持ち良いものだった。今のがなんなのか分かるまでに、軽く数秒は要したと思う。
そして分かった瞬間、俺は強烈に体中が熱くなるのを感じ、慌てふためいた。
「あ、アリス……いいいい今の……」
「えへへ……も、もしも、ゼクスにその気があるなら、その……別の場所に、してもいいよ?」
上目遣いで言ってくるアリス。しかしどういう意味か分からない。別の場所? なんだそれ……。さっさと他の場所へ早く行こうってことか?
もっと簡単にバカな俺でも完全に分かるように言って欲しい。だけど俺が理解しそうもないことは分かっているはずだから、もしかしたらアリス自身も今の、その、ホッペタへのチューが恥ずかしいのかもしれない。
「ゼクス……やっぱり、分かってない?」
やっぱりと来ましたか……だがその通りだぜ!
「ん、ああ。どっか行きたいのか?」
ここは素直に訊こう。これこそが、一番確率が高いはず――。
「違うわ、バカ! このバカバカバカバカバカバカァァァアッ!」
どうやら間違ったらしい。
「うわっ! ちょ、暴れるなって! お前泳げないんだろ!」
アリスがポカポカとこちらを殴ってくるので、危うく彼女を放してしまいそうになった。
「あ、ご、ごめんなさい……」
萎れた声。ちょっとだけ反省しているようだ。
「取り敢えず、このままフリーダインへ行こう」
俺はアリスの小さな体を抱えなおし、そう提案した。このままでは体力がいくらなんでも持たないし、冷え切った水は身体にだってよくない。
「ええ、そうね。ゼクスが大丈夫なら――」
「大丈夫に決まってるだろ? こう見えて、体力だけはかなりのもんだぜ!」
自信満々で言ってやると、アリスもニッコリと笑ってくれた。やっぱアリスは笑っている時が一番可愛い。今は、素直にそう思えた。
「よっしゃ! んじゃ、しっかりつかまってろよ!」
「うん!」
俺たちはこうして海を泳いで渡り、フリーダインを目指す。
出来ないことなんて有りはしないんだ。なんたって大切な人がいる俺は強いんだろ?
なぁ、姉ちゃん! 俺、ちったぁ強くなったかな? 大切な人を守れるだけ強くなっていたのなら、それだけでいいよな。それ以上はいらないね。
それにしても季節が秋になったばっかで本当に良かった。まだほんのりと暖かい海なら、凍死することだけはなかったからな……。
――よく、運命を選びとったな、ゼクス。我が愛しき子孫よ。
不意に、あの声が聞こえてきたが、なんだか優しい声音で、返事をしようとしたのだが、それを待たずにあの声の気配は消え去ってしまった。
☆
「ではイドゥンよ……。ローゼンバーグの娘とエルトロンの後継はまだ生きておるのだな?」
ゲイルジアは確認するように言いながらも、どこか確信に満ちた声でイドゥンに尋ねた。息子であるロクシスと同じ赤い髪を楽しげに揺らし、手に持ったハサミでチョキンと何かを切った。
その何かとはアントニオが映っている写真だった。写真は真ん中で真っ二つに裂かれている。ひらひらと切り離された方が宙を舞う。
異様な光景だった。
「はい、その通りです」
しかしそれを何とも感じないような抑揚のない声で、イドゥンが肯定した。彼女の長く美しい薄紫の髪が風もないのに、左右に広がっていった。
「そうか、そうか。それは楽しき余興が増えたか……。なるほど。ロクシスが手引きしたようだな」
「ええ、そのようです。殺しますか?」
平然と物騒なことを言うイドゥン。その黒い瞳には、ただただ虚無しか映っていない。まるで殺すことなど造作もないとでも言いたげな瞳だった。
「いや、いい。あやつには厄介になるから国外追放だと言っておいたが、それはそれでつまらぬ事になりそうだったのでな。少々、心配していたのだよ……。王道に好敵手の存在は必要不可欠。だが剣痕を持つ者は真の力に未だ目覚めていないし、始祖なる聖女も未だ目覚めず。死なれる心配はないとはいえ、色々と興ざめを感じていたところだ」
細い手を顔の前で組んだゲイルジアはスッと目を細め、イドゥンを見つめた。それを真っ向から迎え撃つイドゥン。普通、あそこまでじぃっと見つめられれば逸らしてしまうものだ。しかしイドゥンという魔女は決して逸らさない。
それが可笑しかったのか、ゲイルジアは不気味に笑う。
「くっくっく……楽しくなるなぁ……本当に。いずれ、主神が目覚め、その力を我が物にする時も近い……」
主神オディウスの力を全て奪うこと、これこそがゲイルジアの野望だった。人をして人を超越する。運命決定権を持つ主神に挑み、それを我がものとする。
下らぬ運命に殺された数多の者に捧ぐ鎮魂歌。それを紡いでやろう。
「イドゥンよ、……もう一度だけ確認しておく。この宝玉こそが主神を統べる唯一の術なのだな?」
ゲイルジアはドス黒い宝玉をイドゥンに見せる。
「はい、そうです。それ以外の何ものにもオディウスは従いません」
「確かに……あの忌まわしい精霊を統べたとされる愚か者――シャルロッテの書にも載っている通り……」
イドゥンの答えに満足し、ゲイルジアは心が踊りだしそうな興奮を抑えるのに努力した。そのため、込みあがる嗤いを止めることはどうにもできないようだった。
「くっくっく……では、お前は引き続きロクシスについておれ。あやつのやりたい様にさせてやっても構わんが、いずれはゼクシードと巡り合わせろ。出来るな?」
「はい、出来ます」
無理難題を押し付けられたかのように思えるのだが、イドゥンはそうでもないらしい。
一度だけしっかりと頷いて、それっきりだった。
「素晴らしい。素晴らしいな、イドゥンよ。お前は本当に良くやってくれている。故に、いずれ返してやろうぞ、お前のコレを……」
「…………」
ゲイルジアが魔術で空中に浮かび上がらせた映像の中に映る、赤い物体をイドゥンはやはり意思のない瞳で見つめる。彼女の中に理性や本能すら存在しない。ただ、命令に従うのみ。
今のイドゥンは人形と同等の存在であった。心を持たぬ人間という意味では、真実、藁人形に過ぎなかったのだ。
故に世界は生まれゆく、神亡きままに。
よって世界は歪みゆく、“ヒト”在るが故に。
そして世界は待っている。
主神の復活と、“彼ら”の覚醒を――。
取り敢えず、これで王国の章は完結します。
次章は自由の章となる予定ですが、その前に過去の話を挟みたいと思っていますので、興味があったら続きを読んでくださると嬉しい限りです。あと、間違いの指摘や感想もお待ちしているのでなにかあったら、遠慮なく書き込んでやってください。
ではでは~