第39節『騎士の誓い』
「――リス――おい、このバカアリス! こっちを向けぇ!」
「えっ……」
幻なんかじゃない、本当にあの人の声が聞こえてくる!
現実に声はどんどん大きくなって、私の心を激しく揺さぶる。でも本当に彼なのだろうか……この期に及んで心の弱さが作りだした幻想ではないだろうか。
「お前の騎士! ゼクシード・ヴァン・エルトロンが来たんだぞぉ! こっちを向きやがれ、アリスティア・カニターマ・ハンバーグ!」
ああ、これは私の騎士だ。
あんな呼び方をするバカな人は、絶対にあの人しかいない。
だから私は振り向くしかなかった。
「ゼクス……」
「おぉ! やっと振り向いたか!」
ゼクスは走るのをやめ、ゆっくりとこちらへ向かってくる。心底、安心したような表情をしている。
そんなに心配してくれてたんだ……。
なら、私が言うべき事は決まっている。
「ゼクス……いえ、ゼクシード・ヴァン・エルトロン。貴方はどうしてここにいるのですか?」
「なに言ってんだ! お前と一緒に行くためだよ!」
やっぱり――。
「ゼクシード、帰りなさい」
「は? なに言ってんだよ!」
思わず立ち止まるゼクス。
そう、それでいい。貴方はこちらへ来てはいけないのだ。
「私と来るという事は、もう二度とこの大地に踏み入る事はできない。それに貴方は団長になったのでしょう? なら、帰るべき場所はここではないはず」
本当は――傍に居て欲しい。ずっとずっと傍に居て欲しいよ。
でもそれはダメだ。私の巻き添いにするわけにはいかない。彼の未来を奪うわけにはいかないんだ。
「そんなことどうでもいいだろ! それに俺はもう騎士団を抜けた! 騎士も辞めたんだ!」
「えっ? そんな……嘘……」
自分の耳を疑った。
あれだけ偉大な騎士になることを夢語り、もう一歩でなれるところまで来ていたというのに、辞めた……? いったいどうして? なんで?
「嘘じゃねぇ! 俺はお前に付いていくって決めた! もうラファエル様にも伝えてきた!」
「戻りなさい、ゼクス! 今すぐに! 今ならまだ許してもらえるはず! いい、こう言うのよ。『あの悪魔に唆された』って!」
「ふざけんな! なんで戻らないといけねぇんだ! お前は帰ってこないんだろ! それに最後の言葉の意味は分からねぇけど、アリスの悪口だってことぐらいは分かるぞ!」
どんなに説得しても聞き入れてくれず、ゼクスが私に走り寄ろうとする。
「来ないでっ!」
思わず、ヒステリックな声を上げてしまった。
「貴方は帰るべきなの! 私と来るべきじゃない!」
「なんでだよ! 誰が決めたんだよ、そんなこと!」
「この私が決めたのよ!」
「ふざけんな! 俺は本気なんだぞ!」
知ってる。貴方が本気だって充分に、それこそ誰よりも知っている自信すらあるよ。
でも、だからこそ私は言わねばならない。厳しい言葉を言わねばならない。
そうでなければゼクスは、きっと私を諦めてはくれないから。
「私だって本気よ。知ってた? 私ね、貴方のこと大嫌いだったの……」
本気で本気の嘘を言う。
「は? 嘘をつけ!」
「嘘じゃないわ」
バカにした風に、ヤレヤレと首を振ってやる。
お父様の芝居の才が私にもあれば、少しだけ嬉しい。
「じゃあ、なんであんなことしてくれたんだよ!」
「あんなこと……あぁ、教育とか夕食のことかしら……」
「そうだ!」
「あんなもの、ただの気まぐれ。強いて言うのなら、貴方の父がジダン様だったから。私の伯母様が慕っていた、ジダン・ヴィ・エルトロンだったからよ。だから仕方なく、バカな貴方の教育を嫌々やっていたわけ。あまりにもジダン様の息子がバカじゃ、浮かばれないわ、きっと……いいえ、ジダン様も貴方のように馬鹿だったのかもしれないわね。だから伯母様もろとも死んだ。あははっ、滑稽ね、バカみたい」
ありったけの嘘を並べ、ゼクスを罵倒する。それだけでなく、彼のお父様を、この世で最も尊敬している伯母様をも貶める。自分で言っていて、自分に腹が立つ。
けれどこれだけ言えば、いつもの彼ならば熱くなって――「勝手にしろ!」とでも言うはずだ。
「……それだけか?」
「え……?」
「だから俺の悪口はそれだけなのか?」
「え、え……え?」
「はぁ……全然ダメだな。全然ダメだ! いつものお前だったら、こんなところで悪口のネタが尽きたりしねぇよ! 言い続けたら1万語ぐらいは言ってくるぞ、俺の知ってるアリスなら!」
「そんなに言った事はないわよ!」
しまった……。乗せられた……。
案の定、ゼクスはしてやったとばかりにニヤッと笑っている。
「お前は俺が嫌いじゃない! 断言できる! そして俺もお前を嫌いじゃない! だから、一緒に行こう、アリス!」
ゼクスが手を伸ばしてくる。
ああ、それを掴めたらどれだけ幸せだろう……。
でも――。
「ダメ! できない! 私は……私は怖い!」
「死ぬのがか? 大丈夫だ、俺が守ってやる!」
「違うの! そうじゃないの!」
そうじゃない。そうじゃないのだ。
私が怖がっているのは、もっと別のこと。
我侭の限りを詰め込んだ、愚かな想いだ。弱虫らしい身勝手な想像だ。
「私は、貴方に恨まれるのが怖いの……」
「は? なんで俺がアリスを恨むんだよ?」
「貴方はこの先、必ず私に付いてきたことを後悔する! その時に、貴方が私を恨む。それが耐えられないの! 自殺も出来ない臆病な私には、それが怖い! 死ぬよりも、貴方に嫌われるのが怖いのよ……」
言っていて、涙が止まらない。
しゃがみこんでしまいそうになる。それを何とか堪えた。
なんて自分勝手な理由なんだと思う。追い込まれた人間はここまで醜くなれるのか……。自分のことしか考えられなくなる。
恐ろしかった。
何よりも恐ろしいのは、恐怖に負けた時の自分だったのだと、今になって分かった。
「本当は嬉しい。嬉しいよ、ゼクスがここまで来てくれて……。私のこと、信じてくれたんでしょ?」
「ああ」
でもゼクスは即答だった。きっと彼はただの一度だって私を疑ったりしなかったのだろう。
「ありがとう。でもそれだけで充分。だから――」
「ああ、もうっ! めんどくせぇ!」
急に怒鳴られたので、ビックリしてしまった。
勝手に足が動いて、一歩後ずさる。
「アリス! そんなわけ分からねぇ未来なんかより、今ここにいる俺を信じろ! お前の騎士である、俺を信じやがれ! そしたら俺は、絶対にお前を離さねぇから!」
言った内容に思わず顔を上げると、ゼクスは笑っていた……。
私が一番好きな彼の表情だ。
そしてもう一度手を差し伸べてくる。
私の手がまるで吸い寄せられるかのように、よろよろと彼の手へ向かう。
ダメ! 急いでもう一方の手で押さえつけた。
これを見ていたゼクスは少しだけ悲しそうに顔を歪ませると、ゆっくり口を開いた。
「この俺、ゼクシード・ヴァン・エルトロンは決して裏切ることなく、決して偽ることもなく、常に誠実であり、弱者には優しく、強者には勇ましく、我が剣の全てを捧げ、アリスティア・カニターマ・ハンバーグを守り抜くと誓う! だからお前も戦え! 足掻け! 今を戦えないヤツに女神は絶対に微笑まないぞ!」
「……っ!」
これはゼクスの励ましと…………騎士の誓い。
決して破ることは許されぬ、絶対の契りだ。
これを言ったという事は、ゼクスは私の全てを守らねばならない。どんな困難にも立ち向かうことの誓約。常に側にいる事、それすなわち永続調和の儀。
本来なら、こんなに簡単に言っていいものじゃない。騎士となる者ならば、誓いは破れない。この誓いは騎士の命よりも重い。
やはり馬鹿だ、と思った。
馬鹿で馬鹿で大馬鹿で……でも誰よりも強くて優しい人。
私にそんな誓いをしても、得なんてこれぽっちもないというのに……。
だけど、それ以上に、こんな大事な誓いであっても、平然と名前を間違えて言ってくるゼクスが、誰よりも愛しく思われた。
――愛しい?
ああ、そうか。そうだったんだ。
ようやくこのモヤモヤした気持ちの正体が分かってしまった。
するともうダメだった。心の奥底で堰き止めていた何かが、一気に溢れ激流の如く流れ出してしまって……。
「うくっ……この私ひくっ……、アリスティア・メルカトーレ・ローゼンバーグは……ぐすっ……己の全てを女神に捧げねばならない身でありながら、唯一クスン……許されし一人だけの騎士」
聖女が全てを捧げるべきは、女神である。それは何よりも最初に、教会で教わること。
しかしただ一人だけ、騎士を選ぶことを許されている。あらゆることを優先し、彼だけを守りたいと聖女が願っても許される、ただ一人の騎士。
その名を剣の騎士という。今では廃れ、ほとんどその名を賜る騎士はいない。聖女とは騎士団の守護者であるべきなのだという考えが、とても大きいものとなっているからだ。
しかし世界から主神が消えた日から、何故か聖女だけの騎士を剣の騎士と呼ぶようになったそうだ。
古の時代より続く、我がローゼンバーグ家に伝わる逸話。
そして時々見る、夢の中の女性が教えてくれた。
――剣に魂を宿し、聖女と共に生きる者。
――誰よりも愛おしいかの騎士を。
――剣の騎士。
――そう、私は呼ぶのです。
「剣の騎士に、女神マリア・ステラの御名の下、ゼクシード・ヴァン・エルトロンを指名したい!」
最後だけは溢れる涙を振り切って言い放った。もう撤回は許されない。これを彼が認めれば、私たちは己の全てを共有しなければならない。
つまり選択肢は二つだけ。
私と共に生きるか。
私と共に死ぬかだ。
厳しい二択だと我ながら思う。しかし私の言葉を聴いて、ゼクスは――我が剣の騎士は笑ってくれた。
やっぱりそれは私が一番好きな表情だった。
「その願い、了承した!」
私だけの騎士となったあの人が走り寄ってくる。
いつだって私を繋ぎとめてくれるのは、彼だった。バラバラになりそうな全てのピースを、ゼクスだけが完成させてくれるのだ。
だけどその瞬間――。
足場がずれてぐらっとしたかと思うと、一瞬で視界が反転した。
私――落ちてる……。そういえば崖っぷちに居たことを忘れていた……。
ああ、せっかく分かり合えたのに……。
ううん、違う。彼は最初から分かってくれていた。そう思うと妙に清々しい気分だ。あれほど怖かった死というものが、今はそれほど怖くない。
ただ少しだけの後悔と、たくさんの感謝が残っているだけだ。契りは結ばれていない。まだ正式な任命は終わっていない。だから彼まで死にに来る必要はないし、来て欲しくない。
ゼクスには生きていて欲しいから。
だからせめて言わせて――。
「ありがとう、私の騎士。貴方だけの聖女になれて、本当に嬉しい……」
心地よい風を感じる。
目を閉じれば鮮やかな思い出が蘇ってきた。それは私が騎士団に入った後の、ゼクスと出会ってからのとても短い期間のものだったが、16年の長さを超えていた気がする。
うん、きっと私の全ての寿命よりも長いに決まってる。彼といると、毎日が楽しくて嬉しくて、彼と出逢う前の自分がどうやって時間を過ごしていたのか、上手く思いだせない。
客観的に見れば、ヒトの人生で16年は短いだろう。けど、大事なのは客観性なんかじゃない。
本当に大切なものは、全部私の想いの中にあって。
満たす術のないものや、場所からくるのではなくて。
だからこそ、私が想うことを忘れなければ。
きっと、世界は黄金色に輝くのだと思った。
だから、ゼクス。
だからね、ゼクス。
さようなら――。
本当の本当に、心からありがとう……。