第38節『聖女として、女として』
あれからいったい、何日が経ったのだろう……。
この暗い独房に入れられてから、何日が過ぎたのだろうか。
私は、このままここで死ぬのだろうか……。
いや、国外追放処分になったからには、この国の国境沿いのどこかに捨てられるのだろう。
父親殺しの名を着せられたままに、私は死ぬのだ。独り寂しく、惨めに死ぬのだ。
それならいっそこのまま何も食べずに、ここで死んだほうが潔いのではないだろうか……。
誰も私の言葉など聴いてはくれない。どんなに叫んでも。
誰の耳にも私の言葉は認識されない。慟哭しようとも。
誰も私を信じてくれない。やってないのに……。
こうやって膝を抱えて、ウジウジしているぐらいなら、早くに死んでしまえと、我ながらに思う。
国境沿いには危険な精霊が多くいると聞く。少しでもシュレイグ王国に入れば安全なのだが、それはもう許されない。
そんなところへ何もできない私が、他人にしか与えられない聖女の力しか持たない私が行けば、すぐにでも食い殺されるだろう。
どっちみち待っているのが醜い死ならば、舌を噛み切って自害しようか……。
それで誰か一人でも悲しんでくれるのだろうか……。
そう思うと、胸に浮かぶのは、決まってあの人の顔だった。
もう何日も逢っていない。
会うのは司法の家系である、クレメンテ家の人々ばかり……。きっと規制とかされているのだろう。
そうでなければ、きっと彼は来てくれるはずだ。
私の言葉だって、信じてくれたかもしれない。
私が死ぬと、彼は悲しむだろうか……。
我侭なのだけど、悲しんで欲しい。
そんなことを願うなんて意地悪な女だと、我ながらに思う。
けれど彼が私のことを一時でも思ってくれるのならば、私は死んでも良い。
お父様を本当に殺した人は憎い。復讐したいという、聖女にあるまじき思いがある。
けれど、今の自分にはどうしようもないことだと理解している。
ならこれぐらい願っても、女神様は許してくださるだろう。
やっと団長とも仲直りできてきたのに、やっと皆と仲良くなれたのに……。
まだまだやりたいことたくさんあったのに……。
ゼクスともっともっと一緒に居たかったのに……。
――逢いたい。
もう一度だけでいいから、彼に逢いたい。
今の私は聖女でも何でもない。有罪になった時点で、聖女の地位は剥奪されてしまった。
それでもゼクスに騎士であって欲しい。
私の騎士であって欲しかった……。
さっきは悲しんでくれるだけ満足だと言っておきながら、何と欲深きことか。
私は彼に、彼らに逢いたい。
生きていたら、もしかしたら逢えるかもという希望を抱く自分がいる。
そのせいで死ねない。
死ねないことにすら理由を付けねば此処に居られない、この臆病者が……。
きっと私は国境に放り出されるまで、自害することなどできはしないのだ。
有りもしない希望に醜くしがみ付きながら――。
裁判から三日が過ぎた。看守が意地悪そうに口を歪ませて教えてくれた。
『殺人聖女。父親殺しの聖女様よ。裁判から三日過ぎましたよ。いかがお過ごしですか? 今日死ぬことになるのですが、その心境は如何ですか? きゃはははははっ!』
あの高笑いが、耳にこびり付いて離れない。
看守も同じ女性だから、花形である聖女であった私を妬ましく思う気持ちが、彼女を歪な形で苛立たせるのだろう。
「出ろ……」
今度は男の声が聞こえた。
ああ――やっと時がきたのだ。
捨てられる時が、来たのだ。
私は重たい手錠を引き摺りながら、よろよろと折から這い出た。もう立つことも満足に出来ない。お腹が減っていてろくに力が入らない。
そして私の希望など結局、叶わないまま、荷馬車に乗せられた。
奴隷と同じ扱いだ。奴隷は荷馬車で運ばれると聞く。
重罪人にはふさわしい待遇だ。
「あの……」
遠慮がちに声を掛ける。
馬車を引く彼が恐ろしい。おそらくフリーダインから雇われた傭兵か何かだろうか、兎に角、騎士ではない。
「なんだ? 水か?」
「ゼクスに……ゼクシードという騎士はどうしてるか、知りませんか?」
逢いたいとは言えなかった。逢えるはずが無い。
もう二度と逢うことは無いのだ。
いい加減覚悟を決めなさい、アリスティア。最後くらい人間として、聖女として、尊厳をもって死になさい!
そう、心が叫んでも、弱い私にはできなかった。
彼が今どうしているのか、尋ねてしまう。
「ああ、あの若い少年騎士か。アレは確か、近々できる騎士団の団長になるとかならないとか噂されてたな。ゲラゲラ、お前のお陰らしいぜ。家老殺しがあったから、新しく身辺警護専用の騎士団が増設されるみたいだな。まぁ、傭兵風情の俺には関係ないがな」
「そう……ですか……」
耳障りな笑いが耳朶を刺すようだ。
「なんだ、そのゼクシードってヤツはお前さんのコレか?」
言って男が小指を立てた。
私は冷静さを取り繕いながら、答える。
「貴方になど、言いたくはありません」
私の想いを知っていいのは、私と彼だけだ。こんな男に教えるなど、許したくはない。
そう思うと何故か、少しだけ元気が出た。
「けっ、そうかよ……。ほら、ご到着だ、殺戮姫」
「…………」
「さっさと出ろ。ここはあぶねぇんだ。俺だって早く帰りてぇ……ほら!」
背中を強い力で押され、外に引っ張り出された。
まだ夕焼け空で明るいのに、暗い。
連れてこられた国境は、海という断崖絶壁の近くにあった。このことから、おそらくサラマンダーが多く棲息するアポローン地方の入り口だろうと推測された。
最悪だ。
サラマンダーは人間をとても嫌っている。ウンディーネと同等か、それ以上に。しかも彼は非常に獰猛で、戦闘に特化していると聞く。人間だと認識した瞬間には襲ってくるのであろう。
今の自分は、さぞかし絶望した顔になっていることだろう。
「さて、お前さんには二つ選択肢がある」
「え?」
しかし男が意外なことを言ってきた。
「一つはこのまま国外追放され、野垂れ死にするか……。二つ目は俺の奴隷になって、一緒に来るかだ」
「奴隷、ですって……」
胸の奥が怒りで煮えたぎる。
「ああ、そうだ。俺はなかなか有名な傭兵だ。それもフリーダインのな。だからまぁ、お前さん一人ぐらい密航させるぐらい簡単だし、フリーダインに入っちまえば俺の勝ちよ。お前さんだって、このまま追放されて助かりたかったら、なんとかしてフリーダインへ行くしかねぇ。だが生憎、お前さんは聖女だ。自力で海なんて渡れねぇし、強い精霊を倒す術もねぇ。どうだ、悪い話じゃないだろ?」
グヘヘェ~と気色の悪い笑みを零す男。
見るに耐えない。吐き気すらする。
「お前さんはまだガキだが、もうちょっとすりゃあ良い女になる。素材としては上の上。特上だからな」
男が私の顔に手を伸ばしてくる。
思わず、私はその薄汚い手を全力で振り払った。
「この下郎! 貴方のような下郎の下に降るぐらいなら、わたくしは死を選びます! とっと失せなさい!」
最後くらいは、カッコ良く決めたい。
ゼクスたちの騎士団――白光祈騎士団の聖女がこんな下郎のものになるなど、天が、女神様が許されはしない。
そして何よりこの私、アリスティア・メルカトーレ・ローゼンバーグが許さない――。
彼らの名誉を少しでも守りたい。
そういえばゼクスはもう白光祈騎士団のメンバーではなく、新しい騎士団の団長だったわね。
本当に頑張ってたもんね、ゼクス。
貴方の輝ける未来を祈っておきます。
あぁでも、犯罪者の祈りじゃ、逆効果なのかな……マリア様?
「けっ、そんじゃとっとと野垂れ死ぬがいいさ! あばよっ、殺戮姫!」
「ええ、さようなら。貴方の未来が暗闇であるように祈っておきますわ、下郎」
ニッコリと笑みを作りながら憎まれ口を叩けるだけ叩いて、私はシュレイグ王国に背を向ける。
決別。初めの一歩を踏み出して、生まれ育った王国に永遠の別れを告げた。
そして岸壁に立つ。
さぁ、もう死ぬだけだ。
「止まりなさいよ、この! このっ!」
足の震えが止まらない。
下を見下ろすんじゃなかった。
怖い。
高い。
死にたくない……。
あの人の声が聞きたい……。
「みっともないですよ、アリスティア。いい加減、腹を括りなさい。どうせ死ぬならば、精霊の餌となるのではなく、人間の尊厳を持って死になさい!」
自分を叱咤する。
でもダメだ。怖い……。
そんな時――声が聞こえた。
知らず知らずのうちに涙が溢れ、頬を伝った。
「――リス――」
ああ、もう二度と聞けないと思った、あの人の声だ。いつだって私を本気させた、あの優しくて暖かくて頼もしい声だ。
目を閉じると、鮮明にあの人の姿が映った。
最後の最後に、女神様は慈悲をくださった。
――感謝します。
これで私は、ようやく死ねる。
もう怖くない。怖いけど、怖くないのだ。
なんたって、私の騎士は此処にいたから。
私の心の中に、彼はいたのだ。
それがわかったから――。
もう怖いものなど、何もなく。
恐れるものなど、何もない。
守られている。
私は、聖女として生きて、最期の最後で、一人の女として死ぬ。
だから、私は幸せだ。
さぁ、そろそろ一歩、前に踏み出そう――。