第37節『最も親愛なる友人として……』
「ん……ここは……」
目覚めたアリスは、まず自分が立ったまま寝ていたことに驚いた。
しかし本当の驚きは次の瞬間だった。
「き、キャアァァァァアアー!!!!」
魂が抜け出るほどの絶叫が発せられた。城中に声が響き渡る。
悲鳴を聞き付けて飛んでやってきた衛兵が、声を荒げながら、ドンドンと扉を叩いた。
「どうなされましたか、アリスティア様! アリスティア様!」
扉に鍵が掛かっているので、中へ入ることができない。そして絶え間なく響いてくるアリスの悲鳴はただ事ではないと判断し、数人の衛兵で力を合わせ、頑丈な扉を蹴破った。
そしてアリスの姿を見た兵は目を見張った。血だらけの床。血まみれで倒れる家老。血を浴びまくった血まみれの聖女。
存在すべてが異常だった。
窓は割られておらず、侵入者がいたようには見えない。また扉にも鍵が掛けられてあった。
この日、綿密な調査の結果、一枚の紙がカーペットの下から発見された。血で描かれた『アリスティアが』というものだった。筆跡鑑定の結果、筆跡は間違いなくアントニオ。そしてノームの最新技術の成果でアリスティアの指紋が凶器であるとされたナイフからは検出され、それ以外は一切検出されなかった。つまりアントニオが最後の力を振り絞って紙に記し、それを隠したように思える状況である。
だからこそ、周りにあった全ての証拠が、犯人をアリスティア・メルカトーレ・ローゼンバーグだと断定した。
そしてすぐさまアリスの裁判が行われた。
裁判長はクレメンテ家の家長――ゲイルジア・オーガ・クレメンテが務め、彼の判決がアリスに下された。法に照らしあわされた模範的な判決だった。
――死刑。
家老を殺し、親族を殺した業深き者にはふさわしい刑罰だ。
ただ病的な虚ろな瞳で佇むアリスティアに、一切の弁明の機会も与えられないまま、すみやかに判決が下った以外は、普通の裁判であった。
それでも四大公爵家の一角であるローゼンバーグ家ということで圧力が掛けられたのか、死刑の次に重い刑に変更された。
すなわち――国外追放処分だ。
この刑はこれから如何なる理由があろうと、一切のシュレイグ王国立ち入りを禁じ、また全ての私財を没収。身包み一つで、国境沿いに放り出される。そして受刑者に付いていった者も、受刑者同様に二度とシュレイグ王国の大地は踏めなくなるため、歴史上付いていった者はいない。
飢えに苦しみながら、ただもがくこと以外に何も出来ないまま、下位の精霊に食べられてお仕舞いという刑だった。
それはほとんど死刑と変わらない。ただほんのわずかでも生きる可能性が残されているというだけだ。
この刑に、元聖女アリスティア・メルカトーレ・ローゼンバーグは処された。
☆
アリスの処分が下された日、ゼクスはラファエルの部屋を訪れていた。宰相直々に呼び出されたから来たのだが、ゼクスの用件は彼に裁判のやり直しを迫ることだった。
何度も何度も、裁判所へ行っては追い返されたゼクスたち、白光祈騎士団の面々。彼らだけではなく、他の多くの騎士などの署名を集め、直談判をしてやるのだ。
それのことしかゼクスの頭にはなかった。如何なる用件がラファエルにあろうと、まず先にそれを言うつもりだった。
決意を固め、ドンドンとドアをノックする。
「どうぞ……」
中から聞こえた声と共に扉を開き、部屋へ入るゼクス。
「失礼します……」
「よく来てくれました、ゼクシード」
椅子に座り机に向かっていたラファエルが座ったままゼクスを見て言う。
「ラファエル様! アリスの……アリスティアは無実なんです! アイツはあんなことやるヤツじゃない! 何かの間違いです! それにあのお父さんを殺すはずがないんです! 俺と夜一緒に仲良くメシを食べていたほどなんです! それにコレ! みんなの署名です! これで裁判をやりなおしてください!」
一息に話しきるゼクス。呼吸が乱れ、語気が荒くなるのも気にしていられない。それほどゼクスには大事なことだった。
「ゼクシード。落ち着きなさい……」
普段と同じ冷静なラファエルの仕草に、苛立ちを覚えるゼクス。彼は何もしていないのだと分かっていても、心がそれを許せなかった。
「お前はなんでそんなに落ち着いてられるんだよ! オッちゃんとは友達じゃなかったのか! アントニオのオッちゃんは言ってたぞ! ラファエルとは同期の仲間だって! その真犯人が別にいるんだ! これじゃあオッちゃんが浮かばれねぇよ!」
「ではゼクシード。貴方はなにを証拠に、犯人は別にいるなどと言っているのですか?」
憤るゼクスとは対照的に、どこまでも冷静なラファエル。
やはり彼は冷たい人間だったのかと、ゼクスは思った。
「しょ、証拠なんてない! だけど絶対にアリスはやってないんだ!」
「……はぁ。それでは例え裁判をやり直したとしても、結果は同じことです。ゼクシードはアリスティアと仲が良いとアントニオから聴いています。故にその判断が滅茶苦茶になっているのです」
「ふざけんなっ! そんなこと関係ねぇよ! どうしてなんだよ! お前は宰相なんだろ! なんとかならないのかよ! オッちゃんはアリスのこと大好きだった。アリスもオッちゃんこと大好きだった! なのに、なのに……こんなのあんまりだっ!」
ぜぇぜぇと息を吐き出しながら、ゼクスはラファエルに掴みかかり、グイッと顔を寄せた。このようなことをすれば、騎士団を強制除隊されても仕方がないほどだ。
そして衛兵がただ事ではない音を聞きつけたようで、飛ぶように部屋に押し寄せ、「どうかなされましたか、ラファエル様!」と言った。あの件以来、警備が厳しくなっているのだ。
しかし。
「大丈夫です。なんでもありません」
ラファエルはゼクスに掴み掛かられているのだが、そのようなことは一切言わず。
ただ冷静に。
「私は大丈夫ですから。警備に戻りなさい」
とだけ言った。
ゼクスは何の抵抗もせず、そのようなことを言うラファエルを不思議そうに見つめた。絶対に叫ばれ、兵士を呼ばれると思っていたのだ。細い体つきのラファエルなど、ゼクスでも簡単にどうにかできてしまいそうで、それぐらいの力で掴み掛かっていたつもりだが、彼は何故そうしなかったのだろう。
疑問だけが、心に残る。
「なんで言わなかったんだよ?」
「私だって……悔しいからですよ」
ラファエルの言葉を聞いて、ゼクスは耳を疑った。いつだってこの宰相は冷静で、取り乱した姿など見たこともない。そんなラファエルが嗚咽のような声で呟いたのだ。
「彼は……アントニオは私の親友です。彼と、シュレイグ王国の輝ける未来を築きたかった。彼と共に、新しい種を育てたかった……。彼が信じた理想――精霊との友好を、私と彼で成し遂げたかった……」
「………………」
ラファエルは泣いていた。涙がぽろぽろと流れ落ち、デスクの上の書類を濡らす。
何年も泣いたことなど無く、他者を蹴落としてまで今の地位に就いたラファエルにとって、親友と呼べる者などアントニオぐらいしかいなかったのだ。
ラファエルは自分がまだ泣けるのだと他人事のように思った。
――悲しい……。悔しい……。そういった人間らしい感情が、まだ私に残っているとは以外ですね。
冷静な批評家を気取るもう一人の自分が、そう己の心を分析しているようだ。
しかし己の本能は、止め処ない涙をただ流すだけだった。
「私はね、ゼクシード」
「は、はい……」
話しかけられ、ゼクスは急いで手を離した。
そして呆然としながら、彼の言葉に耳を傾けていた。
「私はね、今まで人間らしさを捨て、この地位に登り詰めました。しかし私の周りにはいつしか人がいなくなっていた。皆が私を敬い、臣下の礼を取るのですが、傍には誰もいなかったのです」
ゼクスはこの意味をなんとなく理解した。アリスが悩んだ問題も、きっとコレだったのだろう。
「寂しいとは思いませんでした。それだけのことを私はやってきたのですから……。ですが漠然とした何かが、時折、心を揺さぶるのです。時々、喩えようの無い孤独感を感じるのです。そんな時です――アントニオ。彼が現れたのは」
目を細め、涙を流しながら思い出に耽るようなラファエル。メガネをデスクの上に置き、何も見えない眼で虚空を見つめる。
遠き過去に想いを馳せた。
『貴方はいつも独りでおりますな。寂しくはないのですか?』
『寂しい? 何故です? 私の周りには多くの人がいますが……』
『そうではない。貴方の心はいつも独りだ』
『な、なにを根拠にそのような戯言を……』
『なんとなくだよ。なんとなくそう感じただけだ』
『なんとなくで私の心情を読まれるならば、私はここまでの地位に就く事は叶いませんでしたよ』
『だが分かるものは、分かるのだ。仕方がないであろう? それよりどうかな、これから一杯飲みに行かないかい?』
『失礼。私はこれから所要がありますでの……』
『おおっと、待ってくださいよ、宰相閣下。ほんの少しだけ、夢をですね、語りませんか?』
『……夢、ですか?』
『そう、夢です。理想ですよ』
『………………」
『私の理想は――』
――この後、彼と飲みに行き語り合った。そして気が付くと、私は彼の話す理想の虜になっていた。魅力があった。私にはない魅力が、彼にはあった。
――彼となら、夢物語の続きを本当に成せるかもしれないと思った。それからだ、頻繁に彼と会うようになり、いつしか親友だと思い始めたのは……。
「だからね、ゼクシード。私は諦めるつもりはありません。今はまだ出来ないことですが、必ずや、真犯人を捜し出します。宰相ラファエル・ジ・クォーターの名に誓って」
「ラファエル様……すいませんでした!」
頭を下げる。ゼクスは理解していなかっただけだ。誰よりも悲しいのは他でもないラファエルだというのに、自分はそれを理解していなかった。そればかりかキツイ言葉も投げつけた。
己の行いを猛省し、ゼクスは額を地面に擦り付けんばかりの勢いで頭を下げ続ける。身体が柔らかいので、本当に床に着いてしまいそうな時、さすがにラファエルが止めた。
「顔をお上げなさい、ゼクシード。私は無力です。友の愛した娘すら守ってやれないのだから……」
「でもっ! 俺っ!」
「いいのです。貴方がアントニオを思ってくれる気持ち、確かに受け取りましたから。彼も本望でしょう。お気に入りのゼクシード、いえ、ゼクスにそこまで思ってもらえて……」
そう言って笑うラファエル。
ゼクスは彼の笑顔を初めて見た気がした。
「ラファエル様……ありがとうございました!」
謝るのは何か違うと思った。感謝する方が、何故か良いように思えた。
ラファエルはそんなゼクスの心のうちを知ってか知らずか、いつも冷静な状態に戻りながらも、薄い笑みを深く刻むのだった。
「それより……ゼクス。私がこう呼んでも構いませんか?」
「はい! もちろんいいです!」
「ありがとう。それではゼクス。貴方をここに呼んだ目的をお話します。いいですね?」
「あ、そういえばそんなこと言ってましたっけ……」
すっかり忘れていたゼクス。頭を決まりが悪そうにポリポリと掻き毟った。
「ふふっ、では話しますよ。心して聞きなさい」
「はい!」
「ゼクシード・ヴァン・エルトロン。貴殿を新しく創設される騎士団――銀剣聖騎士団の騎士団長に任命します」
ラファエルから出た言葉は、ゼクスの心構えの斜め上を行った。
「へ?」
そのお陰で何とも間抜けな声が出てしまう。
「貴方の昨今の活躍はすでに城中の知るところ。故に、陛下が異例の抜擢をされたのです。もちろんこの私みずからが推薦したのですがね……」
「ちょっと待ってください! 騎士団の増設って! そんな話一度も聴いたことありませんよ!」
「それもそのはずです。あの事件により、シュレイグ王国の力を増加されようと、新たに案が出て至急決まったのですから。そしてこの銀剣聖騎士団の主な任務は、用心護衛。私や他の貴族の身辺警護です。どうすか、やっていただけますか?」
ラファエルにはゼクスの答えが分かっていた。
彼の答えはまさしく否であろう……と。
彼は親友が認めし、騎士であり――。
剣痕を持つ者である前に。
彼女だけの騎士なのだから……。
「すいません……俺……できません」
「……そうですか。ふぅ……、困りましたね。騎士というものはそう簡単に辞められるものではないのですがね……」
「え? なんで俺が言おうとしていることを……」
「分かりますよ。この私を誰だと思っているのですか? 宰相にして騎士団の総司令ですよ?」
悪戯っ子のような表情こそしないものの、ラファエルはかなり楽しんで会話をしているようだ。メガネを外した彼の顔つきは朗らかであった。
「そう、でしたね。ラファエル様はすごい人でした」
「ええ、そうです。では……」
ラファエルがゼクスを手で促す。決意を述べよ、ということだ。
ゼクスは真剣な面持ちで頷き、
「はい。この俺、ゼクシード・ヴァン・エルトロンは今日限りで、騎士団を抜け、騎士を辞める許可をください!」
と、お願いをした。
「……私は貴方を買っていた。だから騎士テストを合格にさせたのです。それを無碍にするということですか?」
「……はい、ラファエル様にはこんな俺を評価してくださって、本当に感謝しています」
本当にラファエルには感謝している。もしも彼がテストを合格にしてくれなかったら、自分は騎士にも成れず、やりたいことを分からず、為すべき事も知らず、そして運命の人とも出会うことはなかっただろう。
万感の思いを込めて、一文字一文字を紡ぐ。
「ですが……俺は、俺にはどうしてもやらないといけないことがあるんです……。今、戦わなくちゃいけないんです! 今を戦えないヤツに、明日は来ないと思うから!」
「その過酷さを、本当に貴方は知ってるのですか?」
「……覚悟はしているつもりです」
「二度と、このシュレイグ王国の大地を踏めなくなるのですよ? 唯一の家族である、お姉さんと会うのも、来てもらわねばならず、もしかしたら二度と会えないかもしれませんよ?」
「王国へ戻れないのは、ちゃんと分かっています。それに姉ちゃんのことならきっと、ここで俺が行かないことの方が怒ると思います。大切な人を守れる、強い人間になるようにって散々言われて来ましたから……。それでもまぁ騎士団辞めたって言ったら、ぶっ飛ばされるとは思いますけどね、ははっ……」
ゼクスの黒瞳の奥に確かな意志を感じ取り、ついにラファエルは折れた。折れるしかなかったのだ。
この強靭なひと振りの剣は、自分には折れないのだと、そう悟ってしまったから。
「分かりました……。では正式な書類は後で書いておきましょう。あぁ、これで騎士団は大損失ですね……」
「ははっ、大げさですよ、ラファエル様」
「そのようなことはありませんよ。貴方の目覚しい活躍は騎士団、いえ、このシュレイグ王国にとっても必要なものでした」
ラファエルはただ事実を述べた。ゼクスが剣痕を持つ者だからではない。彼の志が、誰かを守りたいと思う強さが、このシュレイグ王国に必要だと思った。
――貴方は本当に強くなりました。
――ジダン、レイトス、クリスティアン、そしてアントニオ。
――シュレイグ王国の未来の種は、私達の手の届かない高みで花を咲かせるようです。
「ただ今をもって貴方を騎士団より除名します! 今までお疲れ様でしたね、ゼクシード。今を戦う貴方に祝福を……アリスティアを頼みます」
「ラファエル様……今まで本当に、ありがとうございました!」
言ってゼクスは頭を思いっきり下げた。
そしてゼクスは一礼し、確固たる足取りで部屋を出て行った。
ラファエルはそんなゼクスの背中に柔らかな微笑を向け、残念な気持ち以上に嬉しく思いながら、より良い未来が彼に訪れるようにと――。
心の中で、神でも、女神でも、他の誰でもない、彼女というマリア・ステラに祈りを捧げる。
そして今度は口を開き、静かに独白した。
「アントニオ……君と私の夢は、絶対に叶えて見せます。宰相としてではなく、ただ、最も親愛なる友人として――必ず」
と。