フィーネの調
この世界には、神が存在していた。
神が自我に目覚めた時、混沌だけが自身以外の全てであった。
だから神は、世界を見つめることにすぐに飽きてしまう。
このまま永久に退屈な日々を過ごすのか……。
神はそれを否とし、創造をすることにした。
創造に用いたのは詩だ。
『フィーネ』。
終わりを象徴するこの詩が、光を生み出し、大地を敷き、新たな生命さえも創った。
最初に生まれた生命は四精霊とも称される精霊だった。彼らは自然と共に生き、豊かな文化を築いていた。しかし彼らは永遠に近い命を有していたために、ひどく怠惰な存在でもあった。
故に、神はまたも退屈する。退屈をしのぐため、創造の最後に、有限の生命である人間が誕生した。
神は満足する。人間は有限なるがゆえに、思考し、苦悩し、前へ進もうとし、多種多様なことを行ったからだ。
――変化。
悠久の存在にとって、見ていてこれほど飽きないものは他にない。かくして半永久的な命を持つ精霊と、短い時しか生きられぬ人間が世界に存在するようになる。
そしていつしか、神は詩を忘れた。
もう詩を歌う必要がなくなったから……。
やがて世界は人間と精霊を纏めて“ヒト”と呼ぶようになる。
違う存在ではあるが、ヒトびとは、最初のうちは互いに手を携え仲良く暮らしていた。
しかしある時を境に、ヒトは人間と精霊で仲違いをしてしまう。
全ての発端は、今より数千年前の出来事であり、世界が捻くれていた事が、全ての元凶であった。そんな捻くれた世界の中で、精霊の守護者として神が精霊の味方となるのは必然だった。。
理由は簡単、人間が圧倒的に強かったからだ。
果て無き欲望を持った人間たちは、怠惰で生まれながらに持った能力の高さに|胡坐≪あぐら≫をかいていた精霊たちよりも、異常なまでに強かったのである。
しかし絶対の存在である神が精霊側についたことで、180度、戦況は変わった。
故に人間には――ただの人間の枠組みから逸脱した二つ目の種――神によって創り出されたわけではない完全にイレギュラーな存在。人間の生存本能が生み出した奇跡。
それすなわち『聖女』が現れた。
聖女らは神々が忘れし詩を用いて、あらゆる病を癒し、すべての者を助け、人間の住まう世界さえも救った。
そして聖女の出現と共に、彼女を守るための三つ目の種――『剣痕を持つ者』が現れた。
彼らは剣の刻印を産まれた時より体に持ち、自身の体内からそれぞれの痕になぞらえた剣を取り出せ、それをもって無敵の力を誇った……。
――これは未来の物語。世界に三種の人間と神とが現れ、主神と剣痕を持つ者が世界から消え去って、再び人間がノーマルと聖女の二種に戻ってから、千年の月日が経った頃の物語。
だがその前に、主神と剣痕を持つ者が消えた日について少しだけ語ろうと思う。
★
吐く息が白い。絶冬の寒さが、あらゆるものを拒絶しているようだ。
若者は呼吸を整えながら、視線の先で咆哮する神を睨み付けた。
冬を迎えたこの季節は、若者の周りの草や木や大地すらも、凍りつきそうなほど気温が低い。まさにこの世界――エデンハイドの冬を称するにふさわしい寒さだ。
若者の今のいでたちは、血だらけで真っ赤な肌。燃えるように真っ赤な髪――いや、これすらも血で赤く染まっているだけで、元は白髪だ。そしてがっちりとした体躯。年の頃は20前後というところだろうか。非常に若い印象だ。しかし同時に歴戦の戦士を思わせる、不思議な風格を持っている。
この満身創痍の若者は、首から下を鋼の鎧で身を包んでいた。年季こそ感じられるものの、手入れはしっかり行き届いており、掠り傷や切り傷が鎧のいたるところに刻まれているのは、幾多の戦場でこの若者を守ってきた証だった。
そして手にしている大剣は若者の身の丈ほどもあり、幅の広い刀身には文字とも紋様とも取れるものが記されている。しかし何より特徴的なのは、鍔に位置する場所に埋め込まれた宝玉である。それが今はひっそりと息を潜めるかのように蒼く鈍く、光が沈み込んでいた。
若者のすぐ側では大勢の人間が倒れ伏し、唯一生きているのは全身を法衣で包み込んだ女のみ。彼女は片膝をついて、息遣い荒く蹲っている。すでに体力の限界なのだろう。珠のような汗が滝のように白い肌から滑り落ち、空中で凍り付きながら氷の大地に降り注いでいる。
しかし彼女の闘志だけは全く衰えた様子がなく、先端から淡い光を放つ杖を地に立てて、どうにか立ち上がろうとしていた。
若者はそんな彼女、自分と同じくらいの年の女を庇うかの様に、一歩前へ出る。
「神よ、汝に問う! 何故我ら人間に仇なすのか? その真意を聞かせよ!」
若者は白い息を大きく吐き出しながら、己に立ちふさがる巨大な神に向かって声を上げた。
神は永久なる存在にして、絶対の調停者。大きな翼を二枚もち、さながら天使を想起させる出で立ちだ。しかし浮遊しているわけはなく、敢えて若者と同じ大地を踏みしめている。
世界のそのものを生み出した神は、人間ではなく精霊の守護者でありながらも、人の言葉を理解し、話すことも容易い。しかし神はその黒き眼で若者の鋭い視線を受け止めるのみで、彼の問いかけには答えなかった。
その代わりに突如、神は手に槍を出現させ、大地に突き立てた。
すると瞬時に大地が膨れ上がり、圧倒的な地の波と化し、若者と女がいる場所へ押し寄せてゆく。
若者は大剣のグリップを両手でしっかり握り込むと、ものすごい速さで迫り来る大地の波をなぎ払ってゆく。そのたびにガツンガツンと、全身に強烈な衝撃が走る。常人ならば、こんなことは全く持って不可能だろう。
しかし、若者にはできた。
彼が剣痕を持つ者だから。
そして何よりも、聖女の詩に、祝福され守護されていたから――。
一通りの砂礫を薙ぎ払ったところで、剣を地面に突き刺した。
若者は神を睨むように見据える。
「主神オディウスよ、もう一度だけ汝に問う! どうして俺たち人間に矛先を向けるのだ?」
余裕がないのだろう、若者の口調がいつもの調子に戻っていた。しかしありったけの声で、目の前の神に問いかけた。いやそれは問いというよりもむしろ、慟哭に近かったかもしれない。
だが次に神が吐いたのはまたも言葉ではなく、灼熱のブレスだった。
これに対し若者は敢えて剣を掲げることなく、真っ向から主神オディウスを見据え続ける。灼熱のブレスは若者の鎧を焼き焦がし、同時に彼の肩口の傷を焼いて塞いだ。
「ぐぁ……っ!」
炎の勢いに押され、一歩後退したところで、軸足にぐっと力を込めて踏みとどまる。
これ以上、退くわけにはいかなかった。後ろには若者にとって、世界よりも、己の命よりも大切な聖女がいるのだ。
――守るべき者がいる。だから俺の剣は、決してぶれる事はない。
剣士には守るべきものが必要だ。そうでなければ、きっと戦えない。
命というものを簡単に奪え、また奪わねばならない定めを背負う者には、本当の強さが必要になる。
本当の強さ――それに対する若者の答えが。
守りたい人だった。
誰かを守るために強くなり、また強くなれるのだと信じた。
だから――。
「それがお前の答えかっ!」
若者の問いかけを肯定するかのように、神が咆哮した。
もう……戦うしかなくなった。決して相容れることがないのなら、どちらかが滅びるまで戦うしかないのだ。
捻くれた世界は、そのように定めている。
「お前たち精霊族がこの世界エデンハイドの地に命の根を下ろしているように、俺たち人間族もまた、同じようにこの世界に息づく民。しかし――それを阻むというのであれば……」
若者は再びしっかりと剣を握り込むと、切っ先を神に向かって構えた。
同じ時に、杖を下に置いた聖女が両手を組み合わせながら口ずさむは――祝福の詩。
大いなる聖歌『アメイジング・グレイス』。
その第6楽章――神が忘れし天上の『詩』を。
天に届くかのような美しい声で、粛々と歌いあげる。
『|The earth shall soon dissolve like snow, The sun forbear to shine《やがて大地は雪のように溶け、太陽も輝きを失うだろう》; |But Goddess, Who called me here below, Will be forever mine.《しかし私を召された女神は、永久に私と共にある》』
詩の締めに聖女は両の手を、若者へ差し出すようなポーズをとった。舞い落ちる|風花≪かざはな≫を浴びる聖女。まるで天使のような神々しさだが、注目すべきはそこではない。真に注目すべきは、彼女のポーズ。
まるで聖女の持つ全てを捧げるかのような光景だったのだ。捧げるのは、世界でも、全ての民草でもない。
これはたった一人へ捧げられた、永遠の祝福である。
『貴方に全てを捧げます』――祝福には、たったこれだけが籠められていた。
聖女の詩が途切れた瞬間、剣痕を持つ者の闘志と、聖女の意志に呼応するかのように、宝玉が突如として眩い光を放ちだす。その源流は聖女の全身から手へと伝う圧倒的な光であり、それが若者の持つ剣に埋め込まれた宝玉へ流れ込んでいるのだ。
この光はあっという間に宝玉から溢れだし、若者の全身を覆い尽くすと、裂けて血が滲む頬の肉を繕い、折れた骨を、裂けたあらゆる皮膚を、果ては若者の全ての負傷箇所を元通りにしてしまった。
あの詩の効果である。詩により癒され、さらに強化までされた己。
目を瞑る若者に、『いつも』の喩え難い全能感が押し寄せてきた。
「俺は阻むお前を、完全に滅ぼすまでだっ! 神が居なくとも、俺たちは生き、そして死ぬ。故に喩え主神であっても、その命を無暗に摘むことは断じて許されはしない!」
声と共に瞳を開けた剣痕を持つ者の全身からは、まるであらゆる障害を退けるかのような淡い光が立ち上り、足元の氷さえもが溶け出してゆく。獲物を見据える両の眼は、鬼神のように鋭く――赤い。
人ならざる者の如く、赤かった。
――神殺しを成せるは、“ヒト”には在らず。
ふと若者の脳裏に、そんな言葉がよぎる。しかしまるでその言葉を受け入れるかのように、剣痕を持つ者は口元を歪めた。
「マリア……。己の成すべきことを、成してくれ……」
だから優しく語り掛けるは、聖女への、最後の言葉。
ハッと瞳を見開く聖女を無視し、若者は腰を低く落とした。そして主神オディウスが槍をこちらへ刺してこようとする瞬間――。
「ハアアアアァァァッー!!」
気合の声と共に、巨大な槍を一刀両断すると、さらに尋常ではない速さで主神オディウスへ迫り寄った。
そして――爆発的な脚力で主神オディウスの巨大な体をよじ登り、頭部へ到達した刹那――全身の筋肉を使い、力を極限まで溜め込むと、収縮したバネが一気に開放されるかのように、剣痕を持つ者は魂により形成されし大剣で……。
完全に、神を貫いた。
確かな手応えが剣を通じて若者の全身を駆け抜け、それを裏付けるかのように、主神オディウスの頭が宙を舞った。巨躯を仰け反らせながら、大地が裂けんばかりの咆哮をあげると、痛みでのたうつ主神オディウス。神は大分弱りながらも、確かな再生能力でその身を着々と元に戻してゆく。
しかしそれを阻むかのように、若者は剣を再生中である神の体の中へ突っ込んだ。暴れまわる神がその長い腕を伸ばし、同じく巨大な手で若者を激しく締め付けた。
全身の骨が軋み、今にも粉々に砕けそうなほどの痛みを若者は感じた。遠くで、自分だけの聖女が泣き叫んでいる。
――ああ、彼女の声が聴こえる。
そういやお前を泣かせたり怒らせたりするのは、いっつも俺だったよな……。
しかし彼女は言われた通りに、掠れた声ではあるものの、ちゃんと詩を紡いでいた。詩に反応して地に置かれた杖の先端には不可思議な方陣が成され、漏れる淡い光が次第に力強さを増してゆき、神を包み込むかのように展開していった。
故にふっと僅かな笑みを洩らした若者も、己の全ての力を注ぎ込むかのように、神を刺す剣に力を込める。
この一撃に、全てを賭すのだ。
もうそれしか、主神オディウスを倒す術はない。ここで仕留め損ねるわけにはいかない。
――俺の持つ全てをくれてやる。
――だから。
――だから、この冬が終わる前に、俺は伝えてもいいよな?
再び、剣に埋め込まれた宝玉が純然と輝く。
宝玉は刀身をも眩く輝かせ、主神オディウスを完全に消滅させようと、神の再生スピードを上回るスピードで神の細胞を駆逐してゆく。
「うおおおおぉぉぉっ!! 滅せよっ、オディウス!」
気合の声はやがて、どんどん小さくなり……。
若者――初雪のような白髪のリディルは笑んだ。
それは幸福の限りを詰め込んだかのような表情で、静かに笑いかける。
――俺は。
――いくど冬が巡っても……。
――歌う君の全てを、想い続ける。
「……魂から、愛しているよ――俺の聖女」
リディルの最後の呟きはとてもとても小さなものだったが、マリアには充分に聴き取ることができた。
一瞬で胸のうちが熱くなって、止め処ない涙が頬を伝う。
必死に彼へ手を伸ばすけれど、決して届く事はなく。もう二度と、触れ合わせることすらままならないのだろう。
それが、分かってしまった。
でも……いや、だからこそ。
マリアは笑った。
ライラックの花を思わせる薄紫の瞳を涙で滲ませながらも、懸命に……笑った。リディルが笑っていたから、自分も笑わねばならない。そうしなければいけないのだと、強く思った。
きっとそれが――私にできる精一杯の恩返し。
しかし欲を言えば、最後の瞬間までにどうしても伝えたいことがあった。
だから、今、伝えよう。
――私も、最高に幸せだったよ。
――心から、愛しています。
――私の騎士。
だけどこの思いは言葉にはならず、空よりしんしんと降り注ぎ、地に積もる雪に紛れて消えてゆく。想いというものはままならないもので、きっと気付いたときには掬う間もなく消えてしまうものなのだろう。
今のように――。
ただ、蒼く光る宝玉だけを、マリアの手に残して。
彼女は宝玉を、まるで我が子を抱くかのように、そして慈しむように、とても優しく抱きしめていた。掻き抱かずには、いられなかった。
だってこれは、他の何より大切な、リディルの魂そのものだったから……。
彼の全ては彼女のもので、彼女の全ては彼のものだった。
故に。
――詩を歌おう。
天地創造の詩。
そんな大それたものなんかじゃない。
私にフィーネは紡げない。
だからこれは漠然とした世界なんかにではなく。
愛しい人のためだけに捧げる詩だ。
私だけの騎士である、あの人に。
貴方だけの聖女である、私が紡いだ言葉で捧げよう。
いつの日か、普通の詩を聴きたいと言ってくれた貴方へ。
――少しだけ遅くなっちゃったね。
『宛てもなく彷徨っていた』
『手がかりもなく探しつづけた』
『あなたがくれた想い出を』
『心を癒す詩にして』
『約束をすることもなく』
『交わす言葉を決めたりもせず』
『抱きしめ、そして確かめた』
『あの日々は二度と帰らぬ』
『記憶の中の手を振るあなたは』
『わたしの名を呼ぶことが出来るの』
『あなただけが見つけてくれる』
『わたしの居場所』
『あなたはわたしだけの騎士だから』
『わたしはあなただけの聖女です』
『永続調和の契りより』
『あなたの誓いを信じます』
『だからあふれる涙を』
『輝く勇気にかえて』
『わたしは生きる』
『夜を越え、疑うことなき』
『明日へと生きる』
黒髪を雪片で白く染め上げながら、マリアは歌い続ける。ただ一人に捧げし詩を、密やかに口ずさむ。迷いなく。淀みなく。でも淡々とではなく、どこまでも朗らかに……。
この日――リディルの白髪と同じ色の日に、初めて愛した人へ詩を送った。
初めて愛した人は嘘つきだ。最初で最後の嘘をついたから。
白銀の雪がちらつき、寒々とした冬も徐々に終わりを迎えるあの日に、共に雪解けの春を迎えようと約束していたではないか。
ずっと一緒にいるって誓いを書き記したではないか……。
忘れたとは、言わせない。
言わせてなんか、あげないんだから。
だから――ねぇ、リディ。私は、いったい幾度の冬を過ごせば、貴方にまた逢えるの?
天の御園へ旅立つ貴方は、私がそこへ行くのを待っていてくれますか?
もし待っていてくれるのなら、そこで一緒に居ると約束して。そうすればもう、嘘つき呼ばわりはしないわ。
寒い……独りは寒いよ、リディ……。