第32節『暗躍する者たち』
「ぜ、ゼクス、よね?」
「ん、アリス。当ったり前だろ! 俺以外の誰に見えるんだよぉ! この、このぉ!」
いつの間にか近くへやってきていたアリスが変なことを訊いてきたので、ゼクスは思いっきり柔らかい頬を抓ってやる。相変わらずスベスベしていて、フニフニと柔らかくて最高の触り心地だった。
「にゃにふるのよぉ!」
パシッと手を叩かれた。
「わりぃ、わりぃ。それより、本当に良かった」
言ってゼクスはアリスを抱き締めた。思いっきり抱き締めてやる。アリスが腕の中で文句を言っても暴れても、絶対に離してなんかやらない。何たって、あんなバカなことやりやがったんだから、これぐらい当然だ。
でも途中から大人しくなり、そのうち本当に苦しそうにし始めたので開放してやった。
「ぷはぁ! なにすんのよ! このバカゼクス!」
「うるせぇ! お前がバカなことを二度と言い出すから悪いんだよ、このバカアリス!」
「なんですって! 私のどこがバカなのよっ!」
「バカはバカじゃねぇか! 自分だけ犠牲になってみんなを助けようだなんて、残される身にもなってみろってんだ!」
「だってあの時はああするしか他になかったんだから、仕方がないでしょ!」
喧嘩になりそうな二人。やっぱりこんなことがあった後でも、いつも通りの二人なのだろうか。
「それがバカだってんだ! 俺はお前の騎士なんだろうが! なら俺が死ぬまで、お前が死ぬのなんて許さねぇ! 女神が許したって、この俺が許さねぇからな!」
一瞬、ハッとしたような表情のアリス。
「……別にアンタの許可なんていらないわ」
でもやはり、こんな時でもいつもと同じ――。
「でも……、そう言ってくれて、素直に嬉しい。ありがとう、ゼクス」
違った。
いつもの喧嘩腰の態度はここにはなく、アリスは素直に自分の気持ちを言っていた。彼の本気の叫びを聞いてしまったから、こちらも本音を言わないとフェアじゃない。
最後だと思った瞬間に聴こえてきた、あの言葉。
――『俺だけの聖女を……』。
とても嬉しかった。思い出すだけで、何故か涙が出てきそうだ。
これは時々見る、あの夢に何か関係があるのだろうか。あの瞬間、途方もなく胸が熱くなって、思わず泣きそうになったことに。
「な、な、なに言ってんだよ……」
「あれ、もしかしてゼクス照れてるの?」
「照れてねぇよ!」
「うそ! 絶対照れてるでしょ。だって耳まで真っ赤だもん」
笑いながら追撃をするアリスに、余計に慌てるゼクス。
「ちげぇって! これは傷が痛むんだ!」
「あっ、ゼクス! 傷は大丈夫なの!?」
言われて気付き、途端に心配そうな表情になるアリスの小さな頭をポンポンと優しく叩いてやった。
「まぁな。ほとんど治ってる……ほら」
「本当だ。すごい回復力……。信じられない……。信じられないといえば、あの時の別人みたいに強かったゼクスはいったいどうしちゃったの?」
こうしてゼクスはアリスの質問攻めを収集してゆくのだった。彼女は声が聞こえたというところで顔つきを変え、自分にも聞こえることがあると言ってきたので、ゼクスも驚いたものであった。
そして屋敷から出てきたウンディーネたちに傷薬などを施され、ロイドたちも事なきを得る。しかしウンディーネの中で7名の死者が出て、皆は悲しみに暮れた。永遠の命を持つウンディーネの数はとても少なく、また子を成すことがないため、たったの1000名にも満たない。そのうちの7名が死ぬという事は、大事なのだ。
だがゼクスたちはウンディーネを、ひいては水の都を守ってくれた騎士団として、多くのウンディーネたちから感謝され、束の間の勝利の美酒に酔う。
そしてこの一件は落着する。
――はずはなかった。
☆
「ちぃ、あの役立たずがっ!」
水の都への入り口となっている偽の湖。その近くに二人の人間がいた。一人は湖のほとりにおり、もう一人は森の中に姿を隠している。
声を荒げているのは、隠れている方の人間だった。彼は忌々しげにもう一人の人間のことを見つめている。長身の男だ。見事な赤髪を風になびかせている姿は、けっこうキザったらしかった。
そして男は呟く。
「ならばせいぜい有効的に利用せねばなるまい……」
ほとりにいる人間の男はすでに死んでいた。死傷はどこにもないのにも関わらず、綺麗に死んでいた。ただ、魂が抜け落ちたかのように虚ろな目をしながら。
その男に近付き、服を着替えさせる。着替えさせた服は騎士装束だ。シュレイグ王国の騎士団に支給される一般的な装束。これを着た人間を騎士だと思わない者はおそらくいないだろう。
故に、この死人はたった今から騎士となった。人間の認識など、その大半が外見であることを彼はよく心得ていた。
死んでいる男は、元は浮浪者だったのだが、それに気付く者はおそらくおるまい。それにもし気付いたとしても、家の力を使ってどうとでもできる。
それにあの女もいることだし……。
「くくっ……今度はせいぜい役に立ってくれたまえよ。いつも動こうとしない、愚鈍な平民」
自然と湧いてきた乾いた笑いを洩らしながら、死人に着せた騎士装束ではない、特注の騎士装束に身を包んだ男は湖から去っていった。残酷な光を宿した男の瞳は、鮮血のように紅かった。
何事もなかったかのような静寂に湖は包まれる。いや、男は一度だけ振り返り、物を投げた。それは笛だった。不思議な彫刻がなされた笛は、死人の少し離れたところに転がった。彫刻はどこか龍の姿のようにも見受けられた。
男はいつの間にか隣に現れた妙齢な女性に語りかけた。
「イドゥン。これで全て上手くゆくのだな?」
「はい、全ては滞りなく……」
「そうか。それを聞いて安心したぞ、にしても何故白光祈騎士団がいたのだ……。父上の情報では明後日のはずではなかったのか」
「手違いというものは、いつでもありますゆえ……」
「それもそうだな、幸い、我が同胞たちに死傷者は出ていないようだしな。しかしあのゼクシードの力はいった何なのだ……まるで別人のようだった。そう、あの騎士テストの時のような」
男――ロクシスは前に部屋で会った時は、熱くなりすぎていたと反省していた。少しでもゼクシードの性格を考えれば分かりそうなものなのに……と。
しかしロクシスは今の戦闘を思い出すと、身体が震えるのが分かった。あれが本当のゼクシードの力なのだとしたら、正直恐ろしかった。同じ人間とは到底思えない。
「あれは……剣痕を持つ者でございます」
「剣痕を持つ者?」
聞きなれない単語に首をかしげた。
「はい。古の時代の遺産。かつてこの世に存在した主神オディウスを討った者、彼の正統後継者こそ、あのゼクシードなのです」
「な……」
主神オディウスとはすでに伝説だった。かつてすべての神々と精霊、そして人間さえも統べる唯一にして無二の存在。天地創造の詩を紡ぎ、全てを構築した張本人。何故そんな神が世界から消えたのかは、男が読んだどの古文書にも記されてはいなかった。
それが人間の手によるものだと、彼女は言っているのだ。これが驚かずにはいられるだろうか、いやいられない。
「有り得ないだろう! 相手は神だぞ! あの水神アフロディーテでさえ最強の騎士団が束で挑み、たった三人だけの生還者を除いて死亡した、あの神なのだぞ! それさえ統べていた主神に人間が勝てただと……」
最強の騎士団の団長であるジダンと、その聖女であるクリスティアン、そして副団長のレイトス。彼らは三人だけで龍を討伐できたと言われ、今尚伝説的存在だ。龍を屠る者を賜ったことのある、唯一の騎士団。彼らでさえ、水神を倒すのに団は壊滅したのだ。そして唯一の生き残りであった三人も、その後に起きた忌まわしい事件で二人が死亡し、一人は消息を絶った。それすらも神の力故だと言われている。
そんな強大な神に人がたった一人で勝てるはずがない。それもその上位に。
ロクシスはイドゥンに詰め寄って、事の是非を問う。彼としては彼女に「有り得ない」と言って欲しかった。そうでなければ、気が狂いそうだ。
だが――。
「はい。正確には彼と聖女による、たった二人による討伐でした」
やはり真実はいつだって残酷なものだ。
「まさか……それは嘘ではないのだろうな?」
「はい。嘘は嫌いなので」
「ふ、ふはははははははっはあっははははははっはーー!」
可笑しかった。何もかも可笑しい。そもそも彼女が嘘を言わないことはこの何日かで分かっていた。現に、忌まわしい精霊どもを根絶やしにするための龍を使役できる素晴らしい笛さえ寄越してくれたのだ。
嘘であるはずがない。
ならばこれが笑わずにいられようか……。
「しかし……主神オディウスは死んだわけではありません。世界は捻くれていますから、世界が、ヒトが、大いなる歪みをもたらした時。再びオディウスは現れます」
「……そのような些事はどうでもよい。それよりもゼクシードはどのぐらい強いのだ? あの力をいつでも引き出せるのか?」
「さすがにいつでもというわけにはいきません。過度の使用は未成熟な身体に多大なダメージを与えます。しかしどうやら先の戦闘で一皮剥けたようには見受けられます。大剣はいつでも出せるようですし、先ほどの力の3割ほどはいつでも出せるかと」
「くっくっく、そうかそうか……ならばいい。予定通り、まずは目障りなヤツの権力の排除してゆくとしよう。ゼクシードはシュレイグ王国に必要なヤツだ。敵にならぬなら、俺はヤツを好敵手として接する」
「はい、それでよろしいかと」
「では行くぞ、イドゥン」
「分かりました、ロクシス様……」
ロクシスと謎の女イドゥンは、それぞれの馬に乗ってシュレイグ王国に帰っていった。
☆
「本当に、甘い人間ですね……ロクシス様は……権力だけで人は終わらぬのですよ……ふふっ」
静かに呟いたイドゥンの言葉は、ロクシスの耳には届かなかった。これが彼の耳に届いていれば、なにかが変わっていたかもしれないが、それを言っては栓なきことだろう。