第30節『祝福の接吻』
ゼクスがその場に膝をついた。気付くと、アリスは大声で叫んだ。
もう、ダメだ。これではゼクスが死んでしまう。
しかし詩は紡げそうにない。あれだけの怪我を癒すには、聖歌を歌うしかない。魔力が圧倒的に足りないのだ。全然、湧いてもこない。
だけど彼を救う術を、ただ一つだけ思いついた。
その答えに思い至った瞬間には、アリスはなりふり構わずに、ゼクスの下へ駆け出していた。
「……いけません、アリスティアさん。貴方が行っても、意味が……」
ロイドの呻くような声が聞こえる。彼が言っていることは、何もかも正しい。それに団長の命令は絶対のもの。たとえそれが聖女であっても、本来は従わねばならない。
しかし、アリスが止まることはなかった。
雷龍はまるでアリスがゼクスに駆け寄るのを待つかのように、天空に浮いていた。もしかしたら、雷を蓄えているのかもしれないし、違うかもしれない。
だけど正直、そんなことどっちでも良かった、正確にはどうでも良かった。
「バカアリス……、逃げろって……」
彼の語気に力がない。本当に限界なのだ。
アリスはゼクスを誰よりも、何よりも、一番に誇らしく思った。
「ゼクス。私の、私だけの騎士。もういいの、もういいんだよ……。本当にありがとう。こんなにボロボロになるまで戦ってくれて……」
「な……にをバカなこと言って……やがんだ」
息遣いは荒く、汗の量は尋常ではなく、全身は傷だらけで、本来なら白いはずの髪の毛は自身の血でところどころ赤く染まっている。
それでも彼は、倒れていない。
だからこそアリスは、ゼクスと雷龍の間に入り込み、ゼクスと向かい合うようにして、彼の傷だらけの体を抱き締めた。
真っ赤な血が純白のローブにこびり付くが、知ったことではない。構わずに顔を摺り寄せると、ゼクスの厚い胸板は確かな鼓動を持っていて、不思議な安心感が訪れた。
やがて、顔を上げる。
覚悟は、決まった。
ライラックの瞳とタッカ・シャントリエの瞳がぶつかり合い、互いを、互いだけを映していた。
思わずゼクスはアリスを抱き締めようと手を伸ばすが、力が入らずそれができない。そんな様子に気付いたのか、アリスが彼の手を取って、まるで宝物のように両手で包み込んで。
そして――アリスは笑った……。
雷龍はただこの光景を見つめていた。あたかも二人の遣り取りを、純粋に楽しんでいるようである。なんという傲慢な知性。
しかしこれだけの知性があるのなら、むしろ都合が良いとアリスは思った。龍は総じてプライドが高く、力にどこまでも貪欲だとも聞き及んでいる。
故に――。
「雷龍よ! 汝に提案したい!」
アリスはゼクスと離れ、今度は雷龍と向き合った。
「私は聖女にして、神々が忘れし詩を紡ぐ者なり。故に、私の生き血を啜れば、汝はより強大な力を得られるであろう」
雷龍は無言で浮いている。どうやら本当に、アリスの話を聞いているようだ。
聖女の血は特別なものだ。神が忘れた詩を歌える、ただ一つの種。それ故に、その生き血を飲み干すことで、神と同等の力を手に入れることができるといわれている。
しかしその聖女にも条件があって、至高の聖歌である『アメイジング・グレイス』。その最終楽章の別名『フィーネ』。この天地創造の詩に連なるものを歌える者の血しか、効能はないとされ、しかも効能を得られるのは精霊だけというのも古い言い伝えにあったのだ。
神と同等の力を、龍はきっと、望む。
そこに全てを賭けた。
「また汝らは高潔なる種族と聞き及んでいる。そこで、私と契約をしようではないか」
「アリス……なにを……」
「いいから黙っていてちょうだい、ゼクス。汝が私以外の者を見逃すという条件で、私の血の全てを汝に捧げることを誓う。しかし汝が殺すのならば、私は自害をし、生き血は手に入らない。もし約束を反故にするようであれば、龍としてのプライドはないものと、世界の、全ての息づく者たちの、知るところとなるであろう。以上をもって、この私、アリスティア・メルカトーレ・ローゼンバーグと契約をしようではないか!」
アリスはキッと雷龍を睨みつける。
「ダメだ……アリス……」
「…………」
ゼクスの言葉は、もうアリスには届いていない。
雷龍は聖女の言葉に、一度、深く頷いたように見えた。
それを了承と受け取ったアリスは、最後にもう一度だけ、ゼクスと向き合った。
「ゼクス。さよならだね。貴方なら、大切な人全てを守れるような、すごい騎士に絶対なれるって信じてるから」
アリスは台詞を一度そこで区切って、何かを考え込むような仕草をした。
そして――。
「…………私、貴方のこと忘れない。だから、だからね。その……もし貴方がこれから先、誰か他の聖女の騎士になっても、ときどきでいいの。私のような聖女がいたことを、思い出してね」
「やめろ……いくな……ア、リス…………ッ!」
声は無視して、スッとアリスは背伸びをする。
そして、傷だらけのゼクスの頬に、静かな口付けを捧げた。
「い、いい? これは祝福の接吻なんだから、へへ変な勘違いしないでよね! 分かった?」
これで最後なのに、どうしても素直になれない。
真っ赤な彼女の頬を、止め処ない涙が流れていた。
「ふざけんな……。……わからねぇよ、わからねぇ……。俺はバカだから……お前がいないとなんにも…………わかんねぇんだよ……」
ぐしゃぐしゃに歪む彼の頬に、溢れる涙が零れていた。
アリスは、後悔も、未練も、嘆きも、怒りも、幸せも、嬉しさも、楽しさも、その全てを断ち切ったとばかりに、雷龍の方へ歩んでゆく。
その確固たる足取りに、一寸の迷いも見られない。
「さぁ、私の全てを喰らい、その身に強欲なる力を宿しなさい!」
両手を広げ、最後の瞬間までも、全てを守るように立ち塞がるアリス。
彼女の長い黒髪が風で揺れ、ゼクスの視界を勝手に埋め尽くす。
必死に手を伸ばした。
だが、届かない。
――ここが俺の限界だっていうのか……。
――そもそも、限界ってなんだ……。
――どこまでが限界なんだよ……?
――そんなの俺が決めてるだけじゃねぇか……。
ただ、分かるのは。
こんな小さな手すらも。
――俺には、掴むことすらできないのか……。
ならばここで諦めて、全ては己の弱さゆえだと納得する?
――有り得ねぇ……。
龍が強すぎたのだと、言い訳がましいことで己を慰める?
――それこそ有り得ねぇ……。
もう体力の限界だと、己はよくやったのだと褒めてやる?
――そんなこと、絶対に、違うっ!
俺は騎士だ!
ただの聖女の騎士じゃねぇ!
俺だけの聖女の騎士なんだ!
だから俺が、あいつを守ってやらねぇといけねぇんだ!
――ドクン。大きく鼓動が高鳴った。
――ズキン。首が激しい痛みを伴って疼く。
――熱い。あつい、アつい、アツい、アツイ、アツイッ!!
(俺がアイツを守らないと。アリスが支え、俺が戦わないと……。いつだって他人優先なアイツを守れるのは、俺しかいないんだ……っ!)
――ドクン。
ふいに、王都へ行く際に、姉へ言った言葉が脳裏に鮮明に蘇った。
『騎士になって、俺の大切な人を守り抜くんだ! 父さんみたいにさ!』
この言葉が如何に為すに難しく、言うに易きことかを知った。
でも、今だけは……為すだけの力が欲しい。
(彼女を……守りたい。守るって誓ったんだ! 俺の大切な人なんだ! 俺は大切な人を守るために騎士になったんだ! だからっ! もし守れるのならば、俺の全てをくれえてやる! 神だろうが、悪魔だろうが、なんだっていい!)
――俺に!
「この俺、ゼクシード・ヴァン・エルトロンに! アリスを、俺だけの聖女を守れるだけの力を! 寄越しやがれぇぇーーーーっっっ!!!」
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
――ドクン。
カッ!
眩い閃光が弾けた。
ゼクスの首が強烈な光を放っているのだ。
無意識のうちに、ゼクスは強烈な熱を帯びている首筋へ手をやった。何故かは知れぬが、やらねばならぬと思ったのだ。
瞬間――手に確かな重みがあった。
手にした重みの正体は、大剣であった。背の丈ほどもある大剣で、鍔の中央には丸い窪みがある。刀身には幾何学的な紋様が描かれており、淡い光を放っている。
パシッ!
ゼクスは飛んできた何かを、咄嗟に掴み取った。といっても、自分の手の中に自然と納まったような気もする。それは、鞄の中に仕舞い込んでいた剣珠だった。
「コレ……父さんの……」
呟くと同時に体が勝手に動き、剣珠を大剣の鍔にある窪みへ入れてしまった。
――ドクン。
まず青く鈍い光が大剣全体に広がっていった。水のような滑らかで静かな流れを感じる。
次に体中の痛みが消えていった。身体の内側から痛みが取り除かれてゆくような感覚。
そして――声が聴こえた。
『よく言ったな、ゼクシード――ゼクスよ……』
頭の中に直接流れ込んでくるかのような声。
確かに、声が聞こえてきた……。