第18節『婚約者』
――トントン。
ロクシスは控えめにアリスの部屋をノックする。いきなり尋ねているので、彼なりに遠慮でもしているのだろう。
しかし事態が急を要したため、否の選択肢はなかったというところだろうか。
「はい? どなたですか?」
すぐに慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、高めのソプラノ声が響いた。今日は休日でもあったので、アリスは部屋にいたようだ。
「僕だよ。ロクシスだ」
少しだけ扉が開いて、中からアリスが顔を出した。瞬間、彼女の表情は嫌なものを見たという一点に限るものとなった。ジト目にすらなっている。
ロクシスは公爵家の嫡子であり、顔の造形も良いので非常に女性にはもてる。
しかしアリスにはどうしても彼のことが、ただの嫌味なナルシストにしか見えず。つまりはとても嫌いだった。そうなると当然、母親同士が勝手に進めた縁談など、彼女としては絶対に了承するつもりもないのである。
「ロクシス様、なにか御用ですか? 私は今、少々忙しいのだけれど……」
明らかに棘のある口調。
しかしそれが自分に向けられたものだとは微塵も思わないロクシスは、ニッコリと笑顔を作って続けた。
「そうなのかい? でも少しでいいんだ。時間をもらえないかな?」
「すいません、無理です。私は今、勉強をしてるので、話なら明日にでもしてくださいな」
ぴしゃりと言い切り、反論すら許しはしなかった。
笑顔ではあるが目が据わっているのが、より一層に恐ろしい。
――アリスが怒るのは理不尽と、気に入った相手にだけ。それ以外は、相手にもしない。
アントニオが前に言った通りだった。今のアリスはロクシスを相手にもしていない。嫌がってはいるが、怒ってもいないし、極めて冷静であり、冷徹だった。淑女の仮面を深々と被り、けっして素顔を晒そうとはしていない。
「ダメだ。それだと間に合わないんだよ。急ぎの用なんだ。すぐに済むから、開けてくれないか? 僕たちは婚約者同士だろう?」
しかしこれはアリスにとって禁句に等しかった。
「それは家が勝手に決めただけです。私が認めたわけではありませんし、それに家長である父も反対だと言っていたはず。さも大体、用事と婚約者は関係ないはずですから、持ち出さないで欲しいです」
刺々しい言葉の羅列。
――くっ、この女! 下手に出てれば、付け上がりやがって!
普段の彼ならばこれぐらいで怒りはしないが、ただでさえ焦り苛立っていたロクシスの心が一気に怒りに燃え盛る。しかしそんな様子は億尾にも出さず、笑顔のまま言い募ろうとした時――。
「おーい、アリス! なにやってんだよぉ~!」
部屋の中から声が聞こえてきた。
しまった! と顔をしかめるアリス。すかさず韻律のシークレット=コードを使い、声の主であるバカゼクスとだけ会話をする。
『ちょっと声を出すな、バカ! 静かにしてなさいと、あれほど言ったのに!』
「でも長かったからさ。何かあったのかと思って」
『だからしゃべるな! 頭の中だけで念じなさいって何度言わせれば!』
「ん? 誰かいるのか? それにこの声、どこかで……」
訝しんだロクシスが部屋の中を覗こうとする。
だからアリスは扉を閉めてしまおうとした。
しかしそれをロクシスの手がヌッと滑り込んで、強引に押し開けてしまった。所詮、力では敵いっこない。
当然、顔を見合わせることとなるゼクスとロクシス。
「あぁーー!! ロクシス!」
途端にゼクスが指差しながら声をあげる。因縁の相手であり、訓練なども一緒にやってきたが、まさかここで会うとは思ってもみなかった。
言って駆け寄るゼクス。膝を抱えて蹲り、額に手を当てているアリスなど気にしない。
「ゼクシードか……!」
ロクシスの中でも、ゼクスは特別な存在だった。倒したはずなのに起き上がり、驚異的な力を見せつけ、一回戦敗退にも関わらず騎士となれた男。理由を探したところ、あのジダン・ヴィ・エルトロンの息子だと分かった。おそらく理由はあれだが、あの脅威の力のことは分からなかった。
だが彼が本当に強い者ならば、すぐにでも頭角を現すだろうと思っていたロクシスにとって、ゼクスは期待はずれもいいところだった。
それでも何故か、ゼクスとは一緒に訓練をしたくなり、その機会も多かった。そして訓練をする中で、彼が本当の騎士を目指していることが手に取るように分かってしまった。だからロクシスも彼の訓練に付き合って、互いを磨いたのだ。
ゼクスにとって一番の相手はロクシスであって、ロクシスにとっても同じことだった。
――いずれ、彼も俺と同じようにこの国の未来を背負う騎士となる。
そんな妙な確信がロクシスの中にはあった。
さらに龍を退けたのも認めている。しかし最高の聖女のレベルであるアリスティアの加護を受けたのならば、それも当然のこと。自分なら討伐できたとも思う。
まだまだゼクスには、好敵手に足る存在として強くなってもらわねばならない。
しかしこれとは別に、何故優秀な彼女が自身の団――黒天翼騎士団に来なかったのか、甚だ疑問だった。その理由はアントニオの計略によるものだったが、それをロクシスが知る由もない。
だからこう思ってしまった。
アリスは、自分の婚約者は自分ではなく、彼を選んだのではないか……と。
「ロクシスてめぇ、最近どこにいやがった! 探したんだぞ!」
「ちょっとゼクス! 彼は団長なのだから、ちゃんと敬語を使いなさい」
ロクシスは自分と違って礼節を重んじている。それはもう異常なほどに。アリスはこれを知っていたので、慌ててゼクスを叱った。
「いや、彼はいい。彼は俺の好敵手だから」
「え?」
少しだけアリスは驚いた。今までに彼がこれほど他者を認めるところなど見たこともなかった。
また元々敬語など気にするゼクスでもないことを、どこかで分かっていたので、半分以上は諦めていたのも事実だったから、正直安堵した。
「は? 団長? コイツが? ありえねぇーだろ! ロクシスはこの前騎士になったばかりじゃん! それにそんなこと言ってなかったぞ!」
「そりゃ、お前には言ってないからな」
冷静にロクシス。
「なにぃ!」
「んもう! ちょっと貴方は黙ってて! 話がややこしくなる!」
それでもここままではまずと、アリスは立ち上がってゼクスのことを手で奥へ押しやった。
「すぐ済むから、大人しく待ってて。お願いよ」
『お願い』とまで言われ、ゼクスはしょうがなく大人しく勉強机に戻った。今は『騎士教育』における、成績最低者に補習を行っている最中だったのだ。
「なぜ、彼がここに?」
アリスが戻ってくると、冷めた表情でロクシスは尋ねた。
「ゼクス――ゼクシードは勉学が苦手なもので、同じ団の仲間として勉強を教えてやっていたの」
「その割には、随分と親しそうだな。君は僕の婚約者だろう。他の男と――」
段々と温厚な仮面が崩れてゆくロクシス。彼はアリスのことを好いていた。幼い頃からずっと好きだった。
――あんなアリスティアの表情を俺は知らない。なのに、アイツには、平民で身分も釣り合わない彼には見せるというのか……。
どす黒い感情が心を埋め尽くしてゆく。ゼクスのことを良いライバルだと思っていたのは自分だけなのか……。彼は自分の婚約者を奪い、高笑いをしていたのか!
少し考えれば分かることなのだが、今のロクシスは疑心暗鬼に囚われていた。
正直、裏切られた想いだった。
アリスはそんなロクシスの内面など関係なしに、やっぱりいつもの彼かと思いつまらなそうに眺めながら、ただ淡々と言葉を紡いでいった。
「その話は関係ないでしょう。それに婚約を認めた覚えはありません。何度も言われるのは、非常に不愉快です」
「なに? お前は女の分際で、この俺に文句を言うのか? クレメンテ家の次期当主に向かって……我慢の限界にも程度というものがあるのだぞ」
ずっと好きだったのに、分かってもらえない。確かに自分は傲慢なところがある。それは認める。だけどそれでも、彼女を自分のものだけにしたかった。
それを分かってくれないアリスに、怒りが最高潮になる。
「これでもわきまえているつもりなのですが……。しかし残念ながらわたくしの程度と、貴方の程度。相違があるのも、また当然のこと。だからこそわたくし、貴方と婚約などしたくはないのですから」
ニッコリとアリス。表情こそ笑顔なものの、紫の瞳は非常に険しい。
アリスが本当に怒っているときの一人称は、『わたし』ではなく『わたくし』になる……時もある。だからというわけではないが、言葉も完全に取り繕ったものではなく、はっきりと敵意を剥き出していた。
何が言いたいかというと、とどの詰まりはアリスがキレかかっているということだ。
アリスにとってロクシスとは、最も嫌いなことの体現者だった。貴族であることを誇りに思うのはいい。だが、貴族でないものを差別し、隔離することは許せなかった。
だから人は皆、自分たち貴族から離れてしまう。
小さい頃はそれをロクシスのような者のせいにし、それが積み重なって今がある。そしてロクシスは変わらずに、平然と差別をする。ロクシスにしてみれば、平民と貴族は差別されて当たり前であり、逆に明確な区別をしなければ、国が成り立たないと考えていた。
考えの擦れ違い。これが長い年月を経て、取り返しのつかないところまで来ていたのだ。
「アリスティア。貴様つけ上がるのもいい加減に……」
「つけ上がっているのは貴方でしょう? わたくしはいたって普通です。そもそもわたくしの何を見て婚約をお決めになったことやら。このて・い・ど、で苛立つようではまず性格ではないですよね。では顔かしら、それともプロポーション。これも違って、家柄……そう、四大公爵家の一角であるクレメンテ、そして私のローゼンバーグ。似合いすぎというぐらい似合っています。だからこれが一番しっくりきます。違いますか?」
ロクシスの言葉を遮って、言葉が機関銃のように発射される。
それに伴ってロクシスの表情もどんどん悪化してゆく。苛立ちを超え、憎悪すら滲み出ているように感じられた。それも当然だろう。本当に好きな相手にああまで言われたのだ。怒らないほうがおかしい。
「さぁ、勉強がまだ終わっていないので、出て行ってくださいな。さもないと……」
「はっ、人でも呼ぶのか?」
「人? わざわざ人を呼ぶ必要があるのですか? ここにはゼクスがおります。わたくしの騎士です。貴方よりもよっぽど頼りになる、ね」
嘲るロクシスに真っ向から視線をぶつけ、口元に手をやりながら零すのは余裕の笑み。そんな動きを敢えて見せ付けるようにして、アリスは断言した。
「ぐっ、貴様ぁ……アイツ如きがこの俺に敵うとでも言いたいのか! 騎士テストで大敗をしたアイツが! 訓練でも一度も勝ったことのないゼクシードが! 敵うはずないだろう!」
対して真っ赤な顔で怒鳴りつけるロクシス。自分よりもゼクスを庇うアリスを許せなかった。
大きな声だったから当然ゼクスにも聞こえていたが、後ろ手にアリスがシークレット=コードで『我慢して。貴方の方が強いって、私が保証するから』と言ってきたので、我慢した。見ていれば分かると思うが、非常に単純なヤツなのだ、彼は。
「そう思いたいのであれば、そう思っていればいいでしょう。わたくしに言うことではありません。わたくしもわたくしの思いたいように思うのですから。さぁ、どうします? 戦いますか、それとも出て行きますか? ロクシス様」
あくまで冷静に言い進めるアリス。同時に彼女の表情は、底抜けに冷ややかなものだった。すでにニコリとも笑んではいない。
「ちぃ……っ!」
舌打ちをやってから、身を翻してロクシスは部屋から出て行った。
「今に見ていろ……!」
怒りと憎しみで、その紅き瞳をギラつかせ顔を歪ませながら。
しかし当のアリスは彼の後姿になど目もくれず、あっという間に扉を優しく静かに閉じた。そしてゼクスに近付いて、ふっと表情を緩める。
それは本当に些細な変化だったが、ゼクスには彼女の纏う雰囲気が変わったと何となく感じられた。
「……で、ゼクス。あれから全然進んでいないようなのだけど、これはどういうことなの?」
「は? だってお前……」
だけどゼクスは次の瞬間、夜叉女を見た。
「だってお前……の続きは?」
能面のような表情でありながらも妙なニコニコをプラスしているせいで、かなりシュールな光景がここにはあった。
「す、すいません、アリス先生」
「よろしい。じゃあ、私は紅茶でも入れてくるから、もう少し進めてなさい。いいわね?」
「やった! おやつだ! 今日はなんのお菓子なんだ?」
「そうねぇ……。良い香りと甘みのあるキャラメルティーが手に入ったから、少し酸味の効いたレモンフランにでもしようかしら…………うん、あれがいい。作るのにけっこう時間も掛かるから、それまでに進んだページ数で何切れあげるか決めるわ。だから頑張んなさい。分かった?」
指を頬にチョコンと当て思案顔になっていたアリスは、名案を思いついたように得意げになって言った。すでにゼクスがどうすればやる気になるのか、そのことをわきまえているようだ。非常に末恐ろしい関係である。
まずゼクスが尻に敷かれるのは間違いない。
「りょーかい! にしてもアリスって、お嬢様なのに料理も上手いよな! ちょっと尊敬するぜ!」
やはりゼクスは元気一杯で返事をした。単純だ。自分のことを分析され、掌握されていることに気付きもしない。
そして話は変わるが実はアリス、料理の類はとても得意だった。私室での夕食は、自分で作っている時もあるほどで。それは昔から大好きなお菓子を作ってきたお陰でもあった。
しかし任務の時は絶対に料理をしようとしない。だからゼクスがこの事実を知ったのは、アリスの私室にて二人で補習という『騎士教育』を行うようになってからなのでかなり最近だった。
事実、まだ7回しか彼女の手料理を食べた事はない。それでもアリスの部屋でやる時は、毎回出てきたのでゼクスは密かに楽しみにしていた。
「ば、バカ! さっさと勉強してなさいっ! 貴方は正真正銘のおバカなんだから、少しでも頑張らないとダメで、私は少しでもその無い頭が回りますようにと女神さまに祈りながら甘いものを作ってあげてるんだから、尚更頑張らないといけないの! 分かった?」
顔を真っ赤に染めたアリスが捲くし立てた。だが怒っているのではないことは明白で、どうやら恥ずかしがっているようだ。何がそんなに恥ずかしいのか知らないが、耳まで真っ赤になるほど恥ずかしがっているのは確かであった。
「ほーい! わっかりましたぁー!」
お菓子が食べられるならば、取り敢えず何でもいいゼクス。よって彼はアリスの様子など気にしないまま、元気よく返事をしていた。
しかし時間が経ってみると、アリスお手製のレモンフランが出来上がるまでの6時間のうちに、ゼクスはたったの2ページしか進んでいなかった。
つまり時間計算に戻すと、わずか3分の1p/hとなる。普通なら怒りそうなものだったが、アリスは慣れたものでありおそらくこんなもんだと思っていたので、ため息を一つ洩らしただけだった。
非常に困ったことに、自分が見てないとゼクスの勉強はほとんど進まないのだ。分からないという理由で。今日のアリスは冷蔵庫でフランを冷やしている時間を有効的に活用して夕食も作っていたので、ほとんどゼクスの勉強を見ていなかったのだ。しょうがないと割り切るしかない。
――それにまぁ、ゼクスなりに頑張っていたみたいだから、いいかな。
こう思えるほどに、けっこう甘いところがあるアリスであった。
そしていつもと変わらず、作ったフランの4分の3ほど取られ――最初は半分個だったのに、ゼクスに掻っ攫われた――飽きもせず、やはり喧嘩をした。
だが結局は夕食も一緒に食べていたので、アリスもきっとそれほど怒ってなどいなかったし、すぐに仲直りしたようである。仲が良いのだか悪いのだか、まことに分かり難い二人だと第三の視点は物語った。