第16節『俺たちが一番長く付き合うのは……』
初任務から、すでに二ヶ月が過ぎようとしていた。
騎士団全体でこなした任務が無事終わり、ゼクスたち白光祈騎士団のメンバーは城下町で一番と評判の酒場――天使の集いにて、全員揃って打ち上げをしている。店内はこういう日だけは無礼講ということも手伝ってか、ガヤガヤと非常に賑やかだった。
団長に誘われ酒の飲み比べをしている者たちは、酒豪であるロイドの飲みっぷりに脱帽している。それでも、飲める面子をロイドが厳選し集めただけあって、テーブルの上には大量の酒瓶が無造作に置かれていた。まだまだこの酒宴は続きそうだ。
一方のゼクスたち見習い騎士は講習や訓練やで一緒にいる機会が何かと多いため、独自のコミュニティーを形成していた。変わらない日常のことだとか、変わった非日常のことだとかを教え合って楽しんでいる。もちろんアルコールも多少入っているので、皆が陽気にカミングアウト。とてもカオスティックな状態だ。
そんな風に盛り上がっている酒場の中で、独りポツンと座る少女。彼女はその小さな口へ、ノンアルコールのアップルジュースをストローでチビチビと注ぎ込んでいた。
リンゴの少女――アリスは時折、ゼクスの方をチラチラと見ながら、それでも勇気が出せず席を動こうとしない。やはり自分は、騎士団の中でも特殊な存在である聖女。講習や訓練で騎士たちと一緒になることはまずないし、連携訓練も滅多にない。しかし地位は団長クラス。
このためアリスが彼らに対してと同じように、皆が一様に遠慮に近い感情を彼女に対して持っていた。
他の騎士団でもこんなものであるが、基本的に聖女は団長と一緒にいるものだ。それはパートナーと呼ばれるからとも言えるし、階級が近いからとも言える。
しかしアリスにとってロイドと一緒にいるのは、全くの選択外だった。それなら独りでいた方がよっぽどいい。
見習い時代から優秀で、名家出身だったアリスは、孤独にはそれなりに慣れていた。かといって、賑やかな場所で独りだけでいられるほど人間ができてもいない。
だから一番近いと思え、自分を仲間だと言ってくれたゼクスを。遠慮なんて無縁で、呼吸をするみたいに喧嘩が絶えなくて、だけど一緒にいて何となく心地よい彼を。
アリスは密かに見ていた。
でも見るだけだ。楽しそうに騎士見習いの仲間と飲んでいるところへ自分が行けば、陽気な雰囲気が壊れるだろうし、皆が緊張してしまうだろう。それは気が引けるし、アルコールがダメなことも行けない理由の一つだった。
そう割り切ってはいても、ついつい見てしまう。
そして女性の見習い騎士と楽しげに会話しているゼクスを目に収めた時、アリスの心はチクリと痛んだ。この痛みを何と呼ぶのか知らない。知っているのは、自分は今、ちょっぴり寂しいのと、意気地のない自分に憤りを感じていることだけだった。
自然と俯いてしまい、またチビチビと本日二杯目のカシスジュースを飲んでいた。意味もなく、黒い髪を手で弄くったりして暇をつぶす。
しかし――すぐに暇ではなくなった。
「なーに独りでやってんだよ」
「え?」
明るい声と共にアリスの隣の席にドカッと腰を下ろしたゼクス。アリスが振り向いた時には、勝手にマスターに自身の分のオレンジジュースを注文していた。
「独りで飲んでちゃつまんないだろ」
そして当たり前のように言うゼクスは、出てきたジュースをゴクゴクと豪快に飲み干した。一気飲みだ。
「べ、別にそんなこと……」
素直に認めるのは嫌だったので、どうにも歯切れが悪くなってしまった。
――なにやってるんだろう、私。せっかくのチャンスだったのに。独りが嫌なら誘いなさいよ、アリスティア。
しかし幾らそう思っても、言葉にならない。
「ま、別にいっか」
ゼクスが席を立つ。
――ダメ! 行かないで!
言葉にはならない叫びが、アリスの中にはあった。
「……プハァ。にしても、ここのオレンジジュースはやっぱ最高だな。さてと、んじゃ行くぞ!」
「え?」
張り切った声を上げ、ゼクスはアリスの手を取って無理やり引っ張って行こうとする。驚いた顔つきのアリスを、グイグイとそのまま連行していった。
アリスはされるがまま付いていき、ゼクスが急に立ち止まったので危うくぶつかりそうになった。そこは騎士見習いの集まる場所だった。
「あ、アリスティア様」
「聖女様だ」
反応はまちまちだったが、皆がはっきりと緊張したのがアリスには分かってしまう。
これが嫌だったのだ。
皆は頭を下げてきた。無礼講の場ではあるが、聖女と団長はやはり違うもの。やはり遠慮しているようだった。
「ゼクス、やっぱり……」
「いいからいいから、さっさと座れって」
アリスは言われるままに、椅子へ座らされる。そこは真ん中の席で、先ほどゼクスがいた場所だとすぐに分かった。
「ちょっと詰めてくれよ。オレンジジュースでいいか?」
やはりアリスの横へドカッと座り込んだゼクスは、顔を覗きこむようにして尋ねた。
「え、あ、うん」
咄嗟に是と答えてしまっていた。
「マスター、オレンジジュース2つね」
「あいよっ」
皆が飲むのをやめ、じっとこちらを見ている。何だか居た堪れない気分になって、アリスは席を立とうとした。ジュースは別にどうとでもなるだろう。
その時――。
フニッと頬を引っ張られた。
「にゃ、にゃにふるろぉ~!」
強くはされていないので痛みは感じないが、口が思うように開かず上手くしゃべれない。ジタバタと暴れるが、所詮聖女の力では騎士のそれには勝てはしなかった。
「うっわ、柔らけぇ~! みんなも触ってみろよ!」
ビヨーンビヨーンとアリスの頬が、餅みたいに伸びている。
「ちょっとゼクス、何やってるんだ! 聖女様だぞ!」
「そうよ、ゼクス。失礼でしょ!」
「今日は無礼講だろ? だったらいいじゃん! なぁ?」
そう言ってアリスに訊くゼクス。
頬を抓られたままのアリスは目一杯に首を振ると、それでも離さないゼクスの足を思いっきり踏んづけてやった。ヒールを履いていたから、きっとものすごく痛いはず。さらには指に噛み付いてやる。これは絶対に痛い。くっきりと、並びの良い歯型まで付いてしまっていた。
「いてぇ! なにすんだよ! 今思いっきり踏んだだろ!」
案の定、痛かったらしいゼクスが大声を上げる。
「当たり前でしょ! いきなりなにするのよ! ビックリしたじゃない!」
台詞を言い終えたところでもう一度、踏みつけてやる。
しかしさすがに二回目は見切られ、さっと足を躱された。
「ちっ」
「うっわ、ありえねぇー! 聖女なのにこの女今舌打ちしたよ! なぁ、聴いたよな? な?」
ゼクスは仲間に問いかける。それを遮るように、アリスは慌てて言い繕った。
「え? 私はなにもやっておりませんよ? ゼクシードさんはなにか勘違いをしておられるのですね。少しお休みなられたほうが……」
必死で猫を被る。
「うわぁ、似合わないお嬢様アリスがきたよ」
しかしゼクスが茶化す。
「は? なによそのお嬢様アリスって! 私はこれでも正真正銘のお嬢様よ!」
だからいつも通りの展開が、そこには待っていた。
すなわちゼクスとアリスによる口喧嘩の幕開けだ。
ひとしきり満足するまで言い合いをした後、アリスはわざとらしく大きなため息をついた。
――やってしまった。つい、我を忘れてやってしまった。ここには皆がいるというのに。
迂闊だったとしか言いようがない。これまで猫を被ってきたのは、全部台無しになったかもしれなかった。いや間違いなく無駄になっただろう。後悔してもしきれない。
しかし――。
「な? 面白いだろ?」
隣で、得意げな表情のゼクスが皆に語っていた。
「面白いって、ゼクスすげぇよ。普通できねぇって」
「そうか? 別にアリス本気で怒ってきたことないし。平気だぞ」
「本気で怒ってるよ!」
――ああ、しまった。また素が出てしまった。
「そうだったのか!?」
本気で驚いている様子のゼクス。
「なんで驚いてるのよ! 当たり前でしょうがっ! 人のお皿から食べ物とったり、胸を触ったり、着替えを覗いたりと、アンタはいつもいつもいつも! ……あっ!」
ついカミングアウトしてしまい、気付いたときにはもう回収ができないところまで言い終えていた。穴があったら入りたい。
恐る恐る皆の様子を探るアリス。
すると意外なことに――皆が笑っていた。
「え?」
不思議に思いアリスは小首を傾げる。
「なんか聖女様って面白いよな」
「ええ、こんなに楽しそうな方だったのね」
「ねぇ、アリスティア様?」
「は、はい?」
「ゼクスと二人で講義してるって本当なんですか?」
「え、あ、はい。本当です。ゼクスは補欠合格だったので、ちょっと教えてあげようかと……」
本当のことは伏せておく。
「私たちも一緒にやってはダメですか?」
ニッコリと笑って、女性騎士見習いが訊いて来た。この笑顔は自分に向いているのだと、はっきり感じられるもので。
アリスも自然と笑みが零れていた。
「いいですよ。一緒にやりましょう」
即答する。別に断る理由も無い。
「やったぁ!」
「あ、俺もいいっすか?」
「俺も俺も!」
「それじゃあこの際、皆さんでやりましょうか」
自然な笑みができた。作ったのではない、思わず零れてしまった笑みだ。
「おっしゃぁー! アリスティア様とお近づきになれるなんて!」
「私、アリスティア様には憧れていたんです! 詩とか凄過ぎですし、私たちの小さな傷にも気を使ってくださるし」
「あ、ありがとうございます」
顔が真っ赤になっているのだろう。火傷でもしたように熱ぼったい。でも嫌な熱さでは決してなくて。
むしろ嬉しい。楽しい。皆が自分のところに乗り出すようにしていて、近くにいて。笑っていて。わいのわいの騒いでいて。
こんなこと、初めてだった。
「お前ら、アリスの教育は半端じゃないぞ。恐ろしいぞ。悪いこと言わねぇから、やめておいたほうが……」
ゼクスは苦い顔つきで提言した。余程嫌な思い出があるようだ。
しかし皆は一様の反応を示す。
「それはきっとゼクスが悪いんでしょ。いっつも失礼なことばっかりやってるから」
「絶対にそうだよな。アリスティア様が恐ろしいわけないだろ」
「うへぇ、マジかよ……」
辟易したとばかりにゼクスは首を横に振った。しかし黒い瞳は何よりも雄弁で、彼が何かに満足していることを表している。
そんな時、ゼクスは気が付いた。
「ん、アリス。お前泣いてるのか?」
「な、泣いてないわよ! ちょっと目にゴミが入っちゃっただけ」
隣にいるアリスの顔は、涙で濡れていた。必死にゴシゴシと服で擦っているアリスが、妙に可愛く思われる。長い黒髪を無性に引っ張ってやりたいと感じた。
「あぁ、ゼクスが泣かせたんじゃないのぉ~! 謝りなさいよぉ~」
「そうだそうだぁ、聖女様に謝れ!」
「な、なんで俺が泣かせるんだよ! なにもやってねぇって!」
「アリスティア様。良かったらこれ使ってください」
女性の騎士見習いの一人がそう言って、アリスにハンカチを差し出した。
「あ、ありがとう」
アリスは礼を言ってそれを受け取ろうとしたが、また涙が溢れてきてそれどころではなかった。ぼやけて前すらろくに見えない。
仕方ないとばかりにゼクスが代わりにハンカチを受け取り、アリスの涙を優しく拭いてやる。
すると今度は、顔をより真っ赤に染めたアリスは、拭いてくれているゼクスからハンカチを分捕った。
「自分でできるわよ!」
この後、アリスは多くの騎士見習いと話をした。皆、様々なことを訊いて来たのでけっこう疲れたが、とても楽しかった。貴族のパーティーなんかより、数倍……いや、数百倍は楽しかったのだ。
――もしかしたら、私が壁を造ってみんなを遠ざけていただけかもしれない。家のことや、能力などに囚われすぎていただけかもしれない。いや、間違いなくそうだ。そのことが、ようやく分かった。分からせてくれた。
――だからほんの少しだけ、感謝しておくわ。
――ありがとう、ゼクス。
感謝の言葉は音にはならない。それでも何となくアリスには、ゼクスへ伝わっているのではないかと思われた。
なぜならゼクスがこちらの顔を見てきて、ニッと笑っていたから――。
こうして打ち上げの夜はゆったりと更けてゆく。
「ねぇ、ゼクス……? 貴方は自分のこと、好き?」
打ち上げ会が終わり、店を出てきたゼクスに一緒にいるアリスが尋ねた。表情らしい表情はなく、薄紫色の瞳を真っ黒の夜空へ向けている。そこからは彼女が何を考え、この質問をしたのか計りかねるものだった。
「なんだよ、いきなり……」
いきなり言われても意味が見えないゼクスは、頭を掻きながら聞き返した。
「私はね、嫌いなのよ……」
しかしそれには答えず、アリスが自分のことを嫌いだと言ってきた。意外だった。アリスは自分自身のことをそれなりに好きだと思っていたのだ。
(いっつも偉そうなのに、嫌いなのか……?)
アリスは自分という存在に自信を持っているのではないだろうか……。
「人と上手く付き合えない自分が、勇気が出ない自分が嫌い……」
このゆっくりと紡がれてゆく言葉に、ゼクスは言うべき言葉を思いつけなかった。
思いつくことはできなかったのだが、漠然と感じることはできた。
だからそれを言ってやる。
「それなら好きになってやれよ」
「え?」
目を真ん丸くしたアリスが、不思議そうにゼクスを見つめている。
「だって考えてもみろよ。俺たちが一番長く付き合うのは、きっと自分だろ。なら一番付き合いが長いヤツを好きにならねぇで、他のヤツとなんか上手く付き合えるわけないじゃんか。な?」
この時、アリスは扉を一つ開けられた気がした。
そしてそれが簡単でないことも同時に分かった。
でも目の前で得意げな表情で笑っているゼクスを見ていると、何だかとても簡単なことのようにも思えてしまう。
我ながらに可笑しい、と思った。
しかしだからこそ――。
「うん、そうだね!」
ゼクスに話して本当に良かったと思いながら、黒髪の聖女は笑顔で頷くことにした。
次の日、アリスは昨日のことを父のアントニオに言って聞かせたそうだ。
それはもう万遍に輝くばかりの笑顔とともに……。