間奏『その日の夜』
――龍と遭遇した日の夜。
アリスは、ゼクスが泊まっている部屋のドアをノックした。
「だれぇー?」
「私。アリスティア」
「お、アリスか」
ドアを開けたゼクスは、アリスの顔を覗きこんだ。風呂に入ったばかりなのだろうか、彼女の黒髪は乾かしたばかりといったサラサラ感があり、独特のフローラルな香りが漂ってきた。
しかし寝間着ではなく、普段着のローブを着ている。
「どしたんだ? こんな夜更けに」
「うん、悪いかなとも思ったんだけど。やっぱりじっとしてられなくて……貴方龍との戦闘で手を切ったでしょ」
「ん、ああ、これのことか?」
ゼクスは思い当たる傷らしい箇所を見せた。ゼクスはこれから風呂へ行こうと思っていたので、服は着たままだった。
彼が着用している革手袋の一部は破け、全体にかけて血が滲み広がっていた。
「そう、それ。ちょっとじっとしてなさい」
アリスは集中しようと目を閉じる。どうにか癒せるほどに魔力を回復できたので、詩で傷を癒そうというわけだ。
しかしそれをゼクスは遮って言った。
「いいって。こんなの舐めときゃ治る」
額をポンと押されて、目を瞑っていたアリスは後ろによろめいた。そのまま尻餅をついてしまう。強い力で押されたわけではなかったが、魔力が完全に回復してないせいで体の芯がなっていなかったのだ。
慌てて謝ってくると思っていたが、ゼクスはニシシと笑っている。もしかしたら彼は分かっているのかもしれないと思った。
自分の魔力がほとんどないことを分かっているのかも、と。
しかしそんなことは問題ではなく。
アリスはひっくり返されて、カァッと頬が熱くなった。
「ば、バカ言ってんじゃないわよ! いいから、見せなさい!」
だから語調を強めて言い切ってやった。
おそらく、傷を癒したらまた魔力は空っぽになるだろう。それでも構うものかと、アリスは思うのだ。
――ゼクスは、ちゃんと私を守ってくれたから。
そう思うと、体はだるくてきついのだが、アリスの表情は自然と柔らかなものになっていた。
「いいって!」
遠慮するゼクス。
「よくない!」
やると言って聴かないアリス。
「…………」
「…………」
しばし無言で睨み合うゼクスとアリス。黒と紫の瞳が火花を散らす。
どちらも譲りそうになかった。
「…………ぷっ! はははっ!」
「…………ふふっ、あははっ」
そして同時に噴出す二人。
「分かったよ。じゃあ、アリス。頼むぜ」
もう一度アリスの薄い紫色の瞳を見て、ゼクスは何かを悟って諦めたような表情で言った。
「ええ、任せなさい」
ドンと胸を叩いて見せるアリス。彼女は目を閉じ、あまり無い魔力を有りっ丈掻き集める。
歌うは治癒の詩。中ランクの聖歌だ。
『What a friend I have in Goddess, all his pain and sufferings to bear.』
(慈しみ深き友なる女神は、彼の全ての痛みと苦しみを取り去り給う)
高めのソプラノが澄み渡る。狭い部屋の中で詩が流れ、ゼクスはアリスの詩に魅了され、また傷は光を纏い跡形もなく消えていった。
やがて詩はやみ、カクンとアリスが膝をつく。限界がきたようだ。しかし綺麗に傷が消え失せたゼクスの手を見つめる、彼女の表情はとても満足そうで。
「今度、普通の歌も聞きたいな」
「え?」
ゼクスはアリスに肩を貸しながら、ポツリと言った。
素直な言葉だった。彼女の綺麗な声ならば、きっとどんな歌であれ、素晴らしいものになるだろうと思った。歌などの芸術に興味などあまりないゼクスがそう感じるのだから、かなりのものである。
今まで、そんなことを言ってきた人は誰一人としていなかった。だから少々反応に戸惑ってしまう。
こうしてしばしアリスはポカンと口を開けていたが、きゅっと締めなおして、
「……しょうがないわね。また今度に、少しだけよ?」
と、微笑と共に言った。
「よっしゃ! 約束だかんな!」
「分かった、分かった」
この後、ゼクスはアリスを部屋まで送っていった。
風呂に入り、ベッドに潜り込んだゼクスは、今日は痛みで寝付けないかと思っていたが、アリスのお陰でぐっすり眠れそうだと確信した。事実、疲れが出たのかものの数分で部屋に寝息が木霊していた。
宿で一泊し、町で小休止を取った後、ゼクスたちは再度シュレイグ城を目指して出立した。