王女殿下>婚約者、の図式
「彼を、解放してあげてほしいの」
その言葉に、私は目を瞬いた。
彼女が口にした言葉の内容そのものより、そのセリフにどこか、既視感を覚えたからだ。
私は、不敬にもぽかんと口を薄く開き、彼女を凝視する。
当然、彼女はいい気分にはならない。
柳眉をひそめ、咎めるように私の名を呼んだ。
「聞いているの?エレイン・ファルナー!」
その瞬間、ぱちん、となにか弾ける音を聞いた。
さながらしゃぼん玉が弾けるような、夢から覚めたような、そんな感覚に陥った。
同時に、私は【前世の記憶】を思い出していた。
平々凡々な人生、特筆することのない日々、寝て起きて会社に行って、週末には少しだけいいものを食べたりして。
もし私の人生をエッセイとして売り出したところで中身が薄すぎて誰も見向きもしないだろう。
それほどまでにありふれた日々だった。
前世の記憶がざぁ、と流れ込んできて、私はこの瞬間、自分が今どこにいるのかすら分からなくなっていた。
だけど、すぐに私の名を呼ぶ苛立ちを含んだ声に、ハッと我に返る。
「なにか、言ったらどう!?」
エレイン・ファルナー。
それは私の名前だ。
ファルナー伯爵家の長女。
トリアム侯爵家の嫡男、テール・トリアムと婚約を結んでいる。
そして、今私の前に立ち、怒りを露わにしているのは──。
「失礼しました、エリザベス殿下」
エリザベス・アーロア王女殿下。
アーロア王国の末の王女で、未婚。婚約者もいない。
彼女は──。
(そうだ、そうだわ。そうだった)
前世の記憶が流れ込んできたことで、一瞬、何が何だか分からなくなっていた。
情報を整理するために、あえて私は自身の立場を明確化する。
私は、エレイン・ファルナー。
ファルナー伯爵家の長女で、トリアム侯爵家の嫡男である、テール様と婚約関係を結んでいる。
そして、テール様は、エリザベス王女付きの若き近衛騎士だ。
『テール様とエリザベス王女殿下は、実は、秘密の恋人らしい』
その噂を聞いた時、私はそれを信じたくなかった。
彼の愛が、ほかの女性に向いているのだと思いたくなかった。
彼は、とても優しい。
だけどそれが、ほかの女性にも変わらずに向けられるものだと気がついた時から、私は少しだけ、苦しくなった。
テール・トリアム様。
彼は、長い銀の髪をひとつにゆるく結び、王家に仕える近衛騎士とは思えないほど軟派な性格をしている。どこか軽薄さを感じさせる面立ちに、柔和な瞳。
濃い青の瞳は垂れ目で、他者に警戒心を与えにくい。
すらりとした長身に掴みどころのない雰囲気は、すこぶる女性受けがいい。
近衛騎士団に所属している彼は、密かにファンクラブなるものまで結成されている。
対して、私はどこにでもいる【よくいる令嬢】のひとりだ。
特別、目を見張るような美しさはなく、名を挙げられるほどの印象にも残らない。
小麦色の金の髪も、森色の瞳も、全体的に小作りだと自負しているこの顔も、【それなりに可愛い】、【まあ可愛いかな】レベルであって、【なんて美しいんだ!】と大々的に言われるものでは無い。
顔の系統からして美人とは程遠く、色気とは無縁な容姿だ。あいにく、胸もあまり育たなかった。
目の前に立つエリザベス殿下は、さすが王族、と言わんばかりのオーラがある。
クリーム色の銀の髪、長いまつ毛に彩られた、髪と同色の銀の瞳。薄いくちびるは色っぽく、ただ笑みを浮かべているだけなのに不敵に感じられる。
女性として圧倒的な敗北を感じるほどに、彼女は魅力的だ。
私は、ゆっくりと息を吐く。
ええと、そうだった。
私、何を言われたのだっけ?
彼を、解放して、だったっけ。
彼、彼というのは……。
「テール様のことですか?」
尋ねると、彼女は満足そうに瞳に笑みを浮かべた。瞳だけで感情を伝えてくるのもまた、彼女ならでは、だろう。
少なくとも私にはその伝えた方はできないし、技量もない。
エリザベス殿下は、すこし首を傾げた。
エリザベス殿下主催のティーパーティーに参加した帰り、私は彼女に呼び止められたのだ。
彼女も他人には聞かれたくないのだろう。
人気はなく、もしかしたら彼女自身が人払いをしたのかもしれなかった。
「そうよ。テールのこと。彼を縛り付けるのはやめてあげてほしいの」
「縛り付けるなど……しておりません」
反論するのは口答えと見なされそうで声がちいさくなってしまったが、ハッキリと口にする。
明らかに気分を害したように、エリザベス殿下が私を咎めるように見た。
どうして瞳だけで感情を伝えられるのだろう。
彼女は大袈裟な振る舞いを一切していないというのに。
彼女のそういったところもまた、私が彼女を苦手に思う理由のひとつだった。
とても失礼な例えかもしれないが、彼女はどこか蛇に似ているのだ。
であれば、さしずめ私は蛇に睨まれた蛙、と言ったところだろうか。
「縛り付けているじゃない。好きでもない女と結婚するなんて、テールが可哀想だわ。おおかた、あなたが無理を言って婚約を結んだんでしょう」
「いえ、婚約は両家間でまとめられたもので……。両家に利があると判断され、結ばれたものです」
「そんなの嘘に決まっているでしょう!全く、どこまで図々しい女なの!?」
殿下は、私が無理を言って結んだ婚約だと確信を持っているようだった。
(テール様が何か言ったのかな……)
彼は、口が軽い方ではない。
そもそもこの婚約はほんとうに私の意思などではなく、両家の利になるからと結ばれたものなのだ。
つまり、政略結婚。
そもそも貴族が恋愛結婚などするはずがない。殿下も、それはよくご存知のはずなのに。
テール様とエリザベス殿下はたいへん仲がいいので、思わず彼が何か言ったのかと勘ぐってしまう。
だけどまさか、テール様も婚約者の悪口を王女殿下に吹聴はしないだろう。
ひとまずこの場をどう収めようか悩んでいたところで、第三者の声が聞こえてきた。
「殿下!」
カッカッカッ、と足音がする。
振り向かなくとも、そのひとが誰かはすぐに分かった。長い付き合いだ。声だけで、じゅうぶん分かるというもの。
(……そう)
私は静かに理解した。
彼が最初に呼ぶのは、私ではなく──王女なのだ。