98:報恩の秋
「ぐわあああああああっ!?」
「坊ちゃ…」
私は地面に片膝をついたまま背後へと振り返り、上空へと立ち昇る巨大な漆黒の柱に呑み込まれた坊ちゃんの姿を、呆然と眺めていた。
坊ちゃんは漆黒の柱から頭と両手を突き出したまま、苦悶の表情を浮かべていた。胸から下は漆黒の柱の中に隠れて姿が見えず、まるで柱を飾る彫刻のような姿で破滅の歌を奏でる。そんな彼の命を賭けた独唱の前に、私は呆然としたまま、ただひたすら聴き入った。
「…め、女神よ!孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
坊ちゃんの独唱に切迫したカサンドラ様の声が加わり、漆黒の柱に幾筋もの光の帯が立ち昇って純白の柱へと置き換わる。漆黒の柱の拘束から解放された坊ちゃんは、純白の光に包まれながら力尽きてその場に崩れ落ちた。地面に蹲るように倒れる坊ちゃんの許にカサンドラ様とフランシーヌ様、お義父様が駆け寄り、悲鳴混じりの声を上げる。
「シリルっ!」
「うっ!?何て濃い瘴気なのっ!?オーギュスト様、シリル様に触れないでっ!女神よ、七徳をもって彼の者を蝕む邪を追い祓い給え!≪聖浄≫!」
「シリル様、しっかりなさって下さいっ!女神よ、大地の恵みと空の潤い、生の息吹をもって彼の者の傷を癒し給え!≪大治癒≫!女神よ、潰える者と我を結び、消えゆく生命を繋ぎ止め給え!≪生命の架け橋≫!」
「ヴァレリー、ナイフを貸してっ!」
カサンドラ様とフランシーヌ様が次々と神聖魔法を唱え、坊ちゃんの体が幾重もの光に包まれる。カサンドラ様は体に触れようとするお義父様を声で制すると、ヴァレリー様からナイフを受け取り、坊ちゃんの衣服を切って脱がし始めた。
坊ちゃんは、見るも無残な姿へと変わり果てていた。両腕と鎖骨から上を除いた全身が真っ黒に染まり、細く引き締まった体は泥のように脆く形が崩れて一部が粘着質の液体と化しており、カサンドラ様とフランシーヌ様の光を浴びて辛うじて原型を留めている有様だった。私は生まれたての小鹿のような頼りない足取りでよろよろと近づき、坊ちゃんの傍らで崩れ落ちると、震える両手で坊ちゃんの手を掴み、恐る恐る声を掛ける。
「…ぼ、坊ちゃん…しっかりして下さい…」
「…リュ………生…き…」
「坊ちゃんっ!?」
「シリルっ!しっかりするんだっ!」
私の両手の中で、まるで赤子のように彼の手が動き、掠れた声が聞こえて来る。お義父様が私の傍らで声を荒げるのも構わず、私は坊ちゃんの手を握り締め、震えながら繰り返し呼び掛けた。脇目も振らず、ひたすら坊ちゃんの名前を繰り返す私達の後ろから、女の声が聞こえて来る。
「…あら。凄いじゃない、私の≪邪罰≫を塗り替えるなんて。なら、これはどうかしら?…男神の七欲をもって七戒を打ち破らん。≪七虚孔≫」
「くっ!?女神の七徳をもって七邪を討ち祓わん!≪七聖光≫!」
女の詠唱と共に空中に七つの魔法陣が浮かび上がり、私達に向かって七条の漆黒の闇が襲い掛かる。同時にカサンドラ様が錫杖を振りかざして七つの魔法陣が現れ、七条の白光となって漆黒の闇を迎え撃った。双方合わせて七対の柱が激突し、戦場で白と黒が激しい瞬きを繰り返す。錫杖を掲げたまま顔を顰めるカサンドラ様の姿を見て、女が感心した。
「…頑張るわねぇ、あなた。でも、何処まで続くかしら?…男神よ、主の赦しも得ず大地を這い回る不遜の者達に罰を与え給え。≪邪罰≫」
「女神よ!孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
「≪邪罰≫」
「≪聖罰≫!」
「≪邪罰≫」
「≪聖罰≫!」
「≪邪罰≫」
「バ、≪聖罰≫!」
「ね、姉様っ!シリル様の容態がっ!」
「あああああああああああああっ!≪聖浄≫!」
女とカサンドラ様が交互に詠唱し、私達の真下に広がる魔法陣が、黒へ白へと目まぐるしく点滅する。秀麗な顔を歪め、血走った目を剥くカサンドラ様に切迫したフランシーヌ様の声が掛けられ、カサンドラ様はヒステリックに喚きながら浄化魔法を唱えた。坊ちゃんの体の溶解が止まり、引き替えにカサンドラ様の整った鼻から二筋の赤い滝が流れる。苦痛に顔を歪め肩で息を繰り返し、幾何学模様をあしらった純白の袖で躊躇いもなく鼻血を拭うカサンドラ様に、女がにこやかな笑顔を浮かべ、一つ頷いた。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
「…男神の七欲をもって七戒を打ち破らん。≪七虚孔≫」
「うぅぅぅっ!女神よ、七つの輝きをもって我を護り給えっ!≪聖盾≫!」
女の手元に再び七つの魔法陣が浮かび上がり、カサンドラ様が苦渋に顔を歪ませながら新たな神聖魔法を唱えた。坊ちゃんを見守る私達の前面に六角形の光の盾が現れ、その周囲を更に六枚の六角形の盾が取り囲む。七枚の光の盾は押し寄せる七条の漆黒の闇を迎え撃ち、押し寄せる荒波の前に立ちはだかった巨岩のように、背後の私達を護り通した。しかし、盾に弾かれた漆黒の闇が大量の飛沫となって周囲へと飛び散り、飛沫を浴びた大勢の人々が苦悶の表情を浮かべて次々と崩れ落ちる。
「ぐわあああああああああぁっ!」
「ぎゃああああああああぁっ!?」
「く、苦しい…助け…」
「ひっ!?…め、女神よ、七徳をもって彼の者を蝕む邪を追い祓い給え!≪聖浄≫!」
「カサンドラ様をお助けしろっ!支援隊!撃てる者は≪聖盾≫を張り巡らせろっ!打撃隊、一斉射撃!」
周囲に悲鳴と混乱が広がり、治癒師が動揺を露わにして駆けずり回る。右往左往する人々にヴァレリー様の叱咤の声が響き渡り、人々は皆一斉に従って、ラシュレー軍は秩序を取り戻した。
「女神よ!孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
「女神よ、七つの輝きをもって我を護り給えっ!≪聖盾≫!」
「≪氷槍≫!」
「≪炎弾≫!」
「≪空刃≫!」
「≪飛礫岩≫!」
ヴァレリー様の攻撃命令を受け、ラシュレー軍が一斉攻撃を開始する。≪七聖光≫に次ぐアンデッド殲滅力を誇る≪聖罰≫と、≪七虚孔≫さえも防ぎきる≪聖盾≫が唱えられ、魔術師達も己の得意とする属性魔法を次々と放っていく。戦場のあちらこちらに六角形の光の盾が乱立し、地水火風の大量の魔法が様々な煌めきを放ちながら女へと襲い掛かり、女の足元に無数の魔法陣が浮かび上がって、幾筋もの光の帯が天空へと立ち昇る。
その光景を目にした女は、にこやかな笑みを浮かべ、唄うように呪詞を唱えた。
「…男神よ、七つの虚無をもって我を護り給え。≪邪盾≫。――― 男神よ、深淵の暗闇で我を包み、主の僕に安寧を齎し給え。≪闇夜の揺り籠≫」
直後、まるで墨を浸した泡を思わせる薄暗い球体が女の全身を包み込み、その外側に六角形の漆黒の盾が七枚、張り巡らされる。そして、全ての属性魔法が漆黒の盾の前に弾かれ、女の足元から立ち昇った無数の光柱は薄暗い球体を破れず、照明のように虚しく天空を照らし続けた。
「…なっ…」
百にも届く無数の魔法を一斉に浴びながら全く無傷な姿を現わした女を見て、ヴァレリー様が愕然とする。女は薄暗い球体に全身を覆われ、六角形の漆黒の盾を従えながら乱立する光柱を掻き分けるように進み出ると、顎に指を添えて周囲を見渡し、溜息をついた。
「…全く。大の男が寄ってたかって女性一人に無体を働くなんて、男の風上にも置けないわね…。男神の七欲をもって七戒を打ち破らん。≪七虚孔≫」
「っ!?総員、退避ぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
女の呪詞を聞いたヴァレリー様が必死の形相で退避を促し、人々は我先に光の盾の陰へと飛び込み、身を隠した。女の手元に七つの魔法陣が浮かび上がり、七条の漆黒の闇が人々へと襲い掛かる。漆黒の闇は光の盾と正面衝突して大量の飛沫を飛び散らせ、直撃を受けた光の盾の幾枚かが砕け散って、盾の後ろで息を潜める人々が漆黒の闇に呑み込まれる。
「ぎゃあああああああああぁぁぁっ!」
「痛いっ!痛いっ!」
「ひぃぃぃぃぃっ!?」
地面に描かれた真っ黒な直線から逃れようと人々が左右へと駆け出し、ラシュレー軍に混乱が広がる。人々が逃げ惑い、男達が光の盾の陰に縮こまる様子を見て、女が噴き出した。
「…ぷっ。駄目じゃないの、大の大人が地虫のように物陰に隠れちゃ。ほら、出てきなさいって。≪邪罰≫、≪邪罰≫、≪邪罰≫、≪邪罰≫、≪邪罰≫」
「うわあああああああぁっ!」
「女神よ!孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
「め、女神よ!孔より這い出た偽りの生を…ぎゃあああああぁっ!」
「男神の七欲をもって七戒を打ち破らん。≪七虚孔≫」
「ぐわああああああああああっ!」
「た、助けてくれぇっ!」
女が笑みを湛え、掌を上に向けてしなやかな指を動かすたびに、光の盾の陰に隠れていた男達の足元に巨大な魔法陣が浮かび上がり、幾筋もの漆黒の帯が天空へと立ち昇る。男達は足元に描かれた魔法陣から逃れようと慌てて駆け出し、周囲と衝突を始める。治癒師達が上書きを試みるも、そのうちの何本かが間に合わず、巨大な漆黒の柱が天空へとそびえ立った。魔法陣から逃れようと光の盾から飛び出した男達を新たな七条の漆黒の闇が一掃し、その狂乱を見た女がついに堪え切れなくなり、目に涙を浮かべて笑い出す。
「…ぷっ、くっくっく…も、もう駄目…、あははははははははははははっ!」
そんな阿鼻叫喚の喧騒の中で、――― 私は坊ちゃんの傍らに跪き、ただひたすら坊ちゃんの無事を願って震えていた。
「…ぼ、坊ちゃん、しっかりして下さい。…い、今、私が浄化してあげますからね…?」
私は呂律の回らない舌を叱咤しながら坊ちゃんを励まし、右の腰に手を回して逆手で投げナイフを引き抜いた。刃先が進行方向を向かないよう慎重に手元へと引き寄せ、目の前で順手に持ち替えると、真っ黒になった坊ちゃんの脇腹にナイフの腹を圧し当てる。
じゅぅぅぅぅぅ。
坊ちゃんの体から無数の白煙が上がり、ナイフの腹が坊ちゃんの体内にめり込んだ。慌ててナイフを引き上げると、坊ちゃんの脇腹が大きく抉れ、背中側の衣服が垣間見える。私は悲鳴を上げてナイフを取り落とし、狼狽しながら坊ちゃんに繰り返し頭を下げた。
「ひぃぃぃぃぃっ!?ご、ごめんなさい、ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったんですっ!」
「リュシーさん、落ち着いてっ!」
「おい!リュシー、落ち着けっ!」
私の浄化魔法では強すぎて、むしろ坊ちゃんを滅却してしまう。
私は口元を手で押さえ、フランシーヌ様やハヤテ様が必死に宥めようとする声も耳に入らぬまま、坊ちゃんの体に開いた穴を凝視し、懺悔を繰り返した。悔恨と恐怖と絶望が心を鷲掴み、幼児のように為す術もなくただ泣き喚く事しかできない。
「――― リュシーさんっ!」
パァン。
突如、細く形の整った手がしなやかに翻って泣き喚く私の頬を捉え、鋭い痛みと共に私の視界が揺れ動いた。
「…リュシーさん、いい加減になさいっ!」
「…カ、サンドラ…様…」
私が頬を手で押さえながら視界を元に戻すと、カサンドラ様が左手を振り切ったままの姿で私を睨みつけていた。その秀麗な顔は苦痛に歪んで目が血走っており、こめかみには太い血管が浮き出て、鼻の下から乾いた血が幾筋もの線を引いている。そんな凶相と化したカサンドラ様が眉を逆立てて目を剥き、身を捩って笑う女を指差しながら私を叱責する。
「…いつまでメソメソしているのっ!?あなた、シリル様の恋人でしょう!?シリル様を愛しているんでしょう!?だったら、シリル様をこんな目に遭わせたあのフザけた女をさっさとブチのめして来なさいよっ!そんな事、この世界であなたにしかできないんだからっ!シリル様は、私とフランシーヌが必ず助けてみせるっ!だから、あなたはアレをどうにかしなさいっ!」
「男神の七欲をもって七戒を打ち破らん。≪七虚孔≫」
「あああああっ、もうっ!女神よ、七つの輝きをもって我を護り給えっ!≪聖盾≫!」
「姉様、シリル様がっ!」
「わかってるわよっ!≪聖浄≫!」
「…カサンドラ様…」
叱責の途中で女の呪詞が聞こえ、カサンドラ様がヒステリックな声を上げながら錫杖を掲げ、新たな光の盾を張り巡らせた。光の盾に阻まれ私達を迂回するように漆黒の闇が横切り、フランシーヌ様の指摘にカサンドラ様が苛立たし気に応じる。その形良い鼻孔から新たな二筋の赤い滝が流れ、カサンドラ様は血塗れになったローブの袖で躊躇いもなく鼻を拭い、顔を歪めながら坊ちゃんに向けて神聖魔法を唱えた。
「ほらほら、みんな、頑張れ、頑張れ。≪邪罰≫、≪邪罰≫、≪邪罰≫、≪邪罰≫、≪邪罰≫」
「女神よ!孔より這い出た偽りの生を質し給え!≪聖罰≫!」
「ぎゃああああああああっ!」
女が呪詞を唱えるたびに、地面に無数の魔法陣が浮かび上がった。治癒師達が奔走して上書きを試みるがその全てを覆す事はできず、戦場の至る所で巨大な漆黒の柱が天空へと立ち昇り、柱に囚われた男達が藻掻き苦しんでその場に崩れ落ちる。今や大地は放射状に広がる黒い直線と点在する黒円で斑模様に塗り潰され、その上で多くの人々が墨に塗れて横たわり、事切れていた。未だ生き長らえている人々が戦う事を忘れて逃げ惑う姿に、女が腹を抱えて笑い出す。
「あははははははっ!ちょっともう、勘弁して。お腹痛い、あははははははっ!」
――― パァン。
女を護る漆黒の盾が一枚粉々に砕け散り、一閃の白光が薄暗い球体へと飛び込んで、その表面に波紋を作り上げた。
「――― 五月蝿いなぁ。少し黙ってなよ」
「ちょっと、リュシー。駄目じゃないの。お祖母ちゃんにそんな乱暴な口を利いちゃ」
女が笑うのを止め、背中を向け地面に膝をついた姿の私を窘める。私は女の苦言を無視し、投げナイフを逆手で持ったまま蹲るように頭を下げると、地面に横たわる坊ちゃんの額にそっと口づけを落とした。ゆっくりと顔を上げた私は、荒れ狂う感情を捻じ伏せて精一杯の笑みを浮かべ、意識の戻らない坊ちゃんに優しい声で語り掛ける。
「…坊ちゃん、少し席を外しますね。すぐに戻って参りますので、早く元気になって下さい」
「…リュシー…」
「旦那様、行って参ります。カサンドラ様、フランシーヌ様、坊ちゃんを頼みます」
坊ちゃんに慈しみの目を向けた私は、お義父様に一言添えると静かに立ち上がった。身を翻し信頼する人達に坊ちゃんを託すと、投げナイフを順手に持ち替え、女に向かって歩き出す。抑制の利かない右腕が前後に揺れ動くたびにナイフの刃先から白光が零れ、地面を抉って白煙を上げる。
味方から突出し、ただ一人で女と対峙した私は、再びナイフを逆手に持ち替えた。女に冷たい目を向けながらナイフを持つ右手を上げて口元に添え、手首を一つ振るう。真下に向かって放たれた一閃の白光がお仕着せのワンピースを両断して胸元のボタンを吹き飛ばし、中から張りのある二つの膨らみが溢れ出て、白日の下に晒される。
――― そして、ラシュレー家の技術の粋を結集した護身群が、起動する。
薄水色に輝く三重の透明な球体が私の全身を押し包み、表面を幾筋もの雷光が行き交って、煌めきを放つ。上方を向いて展開された魔法陣から1メルドにも及ぶ巨大な岩塊が出現し、高速で私の周囲を回転し始めた。両舷上下二列に展開された魔法陣から私の身長にも及ぶ長大な石柱が四本横倒しで現れ、各々が生き物のように揺れ動いて、正面に立つ女へと照準を合わせる。
私は右腕を覆う籠手に左拳を添え、2本の仕込みナイフを指の間に挟んで引き抜いた。右手の投げナイフを順手に持ち替え、炎さえも凍てつかせるほど冷え切った目で女の姿を捉えながら、静謐に満たされた泉に一滴の雫を落とすように、静かに宣告する。
「…ラシュレー公爵嫡男、シリル・ド・ラシュレーが侍女、リュシー・オランド。――― 推して参る」
「侍女」+「聖女」+「近接格闘」+「殺人光線」+「雷氷防御陣」+「高速浮遊機雷」+「石柱連装砲」+「おっぱい」。
これが、本作ヒロインの最終形態です。




