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92/110

92:潜伏

 春の彩りが深まる、羊の月の7日。帝都オストリアを脱出して9日目。


 その晩、坊ちゃんと私は帝国の中西部に位置する廃村に潜んで、一夜を過ごしていた。


 山あいを縫うように細長く伸びた廃村は、枯れ木と廃屋が交互に立ち並び、荒涼とした雰囲気を漂わせていた。周囲の山々には緑が生い茂り、春の恩恵を存分に満喫していたが、廃村の周囲だけは枯れ切った倒木が幾つも連なり、その隙間から新たな緑が芽吹いている。私達は馬を引いて一軒一軒廃屋を覗き込み、損壊が進んでいない石造りの家屋を見つけると馬を繋ぎ、中に潜り込んだ。周囲から枯れ木を拾ってきて暖炉に放り込み、火をつける。やがて枯れ木に火が回ってパチパチと音を立て始めた頃、私は革袋を開け、昼間水に浸けておいたひよこ豆を小さな鍋に注いだ。家事全般、壊滅的な私だが、野戦築城や戦闘食など、こと軍事に限ると何故かできたりする。鍋を火に掛け、干し肉を手で裂きながら煮立つのを待つ。埃を被っていた木製のテーブルと椅子を水拭きして腰を下ろした坊ちゃんが、両手で広げた地図を眺めながら呟いた。


「…わっかんねぇなぁ…」

「どうしたんですか?坊ちゃん」


 干し肉を裂き終えた私はとりあえず籠の中に放り込むと、坊ちゃんの傍らに椅子を引き摺り、並んで腰掛ける。坊ちゃんはテーブルの上に地図を広げると、地図の中央付近を指でなぞりながら疑問を呈した。


「コレ、見てみろよ。今、俺達が居るのは此処、そして一昨年と去年、俺達がサン=スクレーヌとオストリアの間を行き来した時の道は、多分コレだ」

「あぁ…」


 坊ちゃんの指の動きを見て、私は坊ちゃんの疑問が理解できた。私達は今、山あいを縫うように細長く伸びた廃村に腰を落ち着けているわけだが、去年と一昨年行き来した道はと言うと、その山の外側を大きく迂回し、円を描いている。坊ちゃんが両手を上げ、後頭部で手を組みながら言葉を続けた。


「長く使われていなかったとは言え、多少整備すればすぐに使えるはずだ。此処を通った方が少なく見積もっても1日は短縮できるんだが。何で放棄されたんだろう」

「虫害か立ち枯れのせいで、作物が育たなくなったんじゃないですか?ほら、この付近だけ枯れ木ばかりじゃないですか」

「それにしても、幹道沿いであるが故の通商の恩恵は無視できない。住民総出で村を放棄するほどではないと思うんだが。此処に来る前に、話を聞けなかったからなぁ…」

「…ん…坊ちゃん、駄目ですってば…」


 地図を覗き込んでいた私の耳元に坊ちゃんが顔を寄せ、息を吹き掛ける。私はゾクゾクと身を震わせ、掻き立てられる情欲に必死に抵抗しながら坊ちゃんの頬に掌を当て、押し返した。


「2日も湯浴みをしていないんですから…勘弁して下さい…」

「何でよ?お前の匂い、俺は好きだぞ?」

「っ!?そう言っていただけるのは嬉しいんですけど、そんなデリカシーのな…んんっ…坊ちゃ…んぁ…」


 オストリアを出立して以降ご無沙汰だった事もあって、どうも我慢出来なくなったっぽい。晩御飯もまだなのに、こんなコトで体力を消耗するわけにはいかないのに。そう反論しようとするも、再び覆い被さって来た坊ちゃんによって唇を塞がれ、口腔から絶え間なく雪崩れ込む欲望の前に、私の理性が瞬く間に焼き切れていく。


 ――― コォォォォォォッ…。


 澄み切った春の夜空に鳥の声が鳴り響き、涼しい風と共に白い靄が家屋の中に流れ込んで来た。




「…はぁ、はぁ、はぁ…坊ちゃん…」

「…何だ?」


 喘ぐように深呼吸を繰り返す私から唇を離し、坊ちゃんが部屋の中に漂っている白い靄を訝し気に眺める。白い靄はテーブルの上で折り重なる私達の許へと押し寄せ、鼻をひくつかせて匂いを嗅いだ坊ちゃんは、次の瞬間顔を歪め、鼻と口を手で覆った。


「ぐぅ…っ!?」

「坊ちゃん?」

「…ぐっ…息を止めろ、リュシー…おそらくこれは、――― ≪石化≫だ」




「…えっ!?」


 坊ちゃんの呻き声を聞いて、私はテーブルから跳ね起き、息を止めて周囲を見渡した。部屋の中は、丁度胸の高さに薄い膜が張ったかのような白い靄が斑模様に広がり、微風に吹かれてゆらゆらと漂っている。私はその光景を目の当たりにして衝撃を受け、青ざめた。


 しまった!コカトリスかっ!


 コカトリス。体高2メルド(メートル)を超える、雄鶏の身体と蛇の尾を持つ魔物。≪石化≫の息吹(ブレス)を吐き、獲物を石の彫像へと変えてしまう。


 迂闊だった!この村は、コカトリスが棲み着いたから放棄されたんだ!


 この廃村はラシュレー領の外に在り、私達は周辺の地理に疎かった。焦燥に駆られ、鼓動が早まるにつれ、息苦しさが増していく。私は必死に呼吸を止めながら手足に異常がないか繰り返し確認した後、覚悟を決めて大きく息を吐いた。


「…ふぅぅぅぅぅ…」

「…リュ…シ…」


 …いける。


 呼吸を整えながら掌を開閉し、異常が見当たらない事を確認する。魂喰らい(ソウル・イーター)の状態異常と同じで、レジストできている。私は顔を上げ、息苦しさに顔を歪める坊ちゃんに目を向けると、決意の光を湛え、言い放った。


「迎撃します。坊ちゃんは可能な限り呼吸を抑え、進行を遅らせて下さい」

「…」


 呼吸を止めたまま頷きを返す坊ちゃんに背を向けると、私は籠手(ガンドレット)を嵌める時間も惜しみ、素手のまま部屋を飛び出した。




 家を飛び出すと、周囲は霧がかかったように白い靄が空中に漂い、微風に煽られゆらゆらと揺らいでいる。私がコカトリスの姿を探して家屋の周囲を駆け抜け、裏手へと回り込むと、2軒向こうの陰から巨大な鶏が顔を出した。白い羽毛に覆われた頭部に黄色の嘴、そして真っ赤な鶏冠(とさか)。前半身だけ見れば姿は鶏そのものだが、その嘴の隙間から呼吸と共に絶えず白い靄が溢れて周囲に拡散し、体高は私の身長を遥かに超え、お尻からは蛇のような鱗を持つ太い尾が生えている。コカトリスは、鶏と同じ、表情の読めない目で私の姿を捉えると体ごと向き直り、飛ぶのに用をなさない翼を羽ばたかせ、私を威嚇しようとする。だが、そんな暇には付き合っていられない私は、右の腰の後ろに手を回して逆手で投げナイフを引き抜き、順手に持ち替えると、即座に刺突を繰り出した。


「フゥゥゥゥゥゥッ!」

「コォッ!?クァッ!コケッ!?…コッ…コォォ…」


 無数の白光がコカトリスに襲い掛かり、その巨体に小指の爪ほどの小さな穴が次々と開き、周囲の肉を炭化させる。瞬く間に穴だらけになったコカトリスは、羽ばたきのまま痙攣し、やがて泡を吹いてその場に崩れ落ちた。トドメとばかりにコカトリスの頭部に白光を叩き込んだ私は、近くに落ちていた木板にナイフを投げつけて突き立てる。そして木板を拾うと、坊ちゃんの許へと駆け戻った。


「コカトリスは倒しました!坊ちゃん、大丈夫ですか!?」


 坊ちゃんは、私が部屋を飛び出した時と同じ後姿で、私を出迎えた。入口に背を向け、テーブルに左手をついて前のめりになり、右手で口元を押さえている。その頭部が僅かに左右に振れた事で坊ちゃんの生存は確認できたが、部屋の中に未だ白い靄が漂っているのを見て、私は焦燥を募らせた。


 風が弱すぎる!


 他の魔物と異なり、コカトリスの息吹(ブレス)は指向性がない代わりに持続性に富み、滞留しやすい。風が吹けば揮散して無害化するが、今日のように無風に近いとその場に留まり、疫病のように害を齎す。私は泣き喚きたくなるのを必死に抑えながら、転がるように坊ちゃんの許に駆け込んだ。


「坊ちゃん、失礼しますっ!」


 坊ちゃんの足元にしゃがみ込むと、一言声を掛け、慎重にズボンの裾を捲り上げる。靴下をゆっくりと下ろすと、中からは瑞々しい男の人の肌ではなく、まるで石灰石のような無機質で脆い石材が姿を現わした。私は悲鳴を上げたくなるのを必死に堪えながら、自分を宥めすかすように声を上げた。


「浄化します。坊ちゃん、お辛いでしょうが、どうか堪えて下さい」

「…」


 私は坊ちゃんの足首から目を離さないまま、手探りで先ほどの木板に手を伸ばし、投げナイフを引き抜いた。刃先が進行方向を向かないように慎重に動かし、ナイフの腹を坊ちゃんの足にゆっくりと圧し当てる。


 ――― でも、何も起きない。


「…っ!?な、何でっ!?」


 私は狼狽し、坊ちゃんの足に何度もナイフの腹を圧し当てた。しかし、いつもの肉を焼くような不吉な音は上がらず、石とナイフが擦り合うような濁った音だけが繰り返される。私は半泣きのまま繰り返しナイフの腹を圧し当てた後、ナイフを取り落とし、その場にへたり込んで呆然と呟いた。


「…浄化じゃ、駄目なんだ…」


 浄化魔法は対アンデットに特化した魔法で、本来、対人や魔物には効果がない。≪石化≫の治癒は、浄化魔法ではなく、回復魔法の範疇だった。私は親とはぐれた子供のような頼りなさで立ち上がり、何よりも自分を落ち着かせるために、坊ちゃんを宥めた。


「…ぼ、坊ちゃん、大丈夫ですからね?い、今、私が石化の及ばない場所に運んであげますから…」

「…」


 坊ちゃんが私に背中を向けたまま、小さく頷く。私は取る物も取り敢えず坊ちゃんの背中と膝裏に手を回し、慎重に横抱きに抱え上げた。幸い坊ちゃんの≪石化≫の進行は遅く、影響は未だ左手と両膝の下までに留まっている。私は激しい振動で坊ちゃんの手足が砕けないよう、横抱きに抱え上げたままゆっくりと部屋を後にした。フランシーヌ様の時と違い、大きく成長した坊ちゃんの体重が、私の体力を少しずつ削っていく。


「…はぁ、はぁ、はぁ…」


 家の脇に繋いでおいた二頭の馬は、四肢が石化して膝から砕け、横倒しとなって泡を吹いていた。私は坊ちゃんを横抱きに抱えたまま忙しなく左右を見渡し、白い靄が掛かっていない所を探した。南側の山の斜面が、比較的近い。そう判断した私は、焦燥と慎重の板挟みの中、ゆっくりと歩いて行く。


 そうして3軒目の家の脇を通り過ぎたところで、――― 2軒先の家の陰からのっそりと顔を出した巨大な鶏と、目が合った。




「…あ…」


 思いも寄らぬ再会に、私は坊ちゃんを横抱きに抱えたまま、その場に立ち尽くした。


 コカトリスは、一頭ではなかった。


 不用意に坊ちゃんを下ろしたら、坊ちゃんの手足が砕けてしまう。


 為す術もなく、呆然と立ち尽くす他にない私の前で、コカトリスが体ごと向き直る。飛ぶのに用をなさない巨大な翼を羽ばたかせ、矮小な私達に向かって、勝利の鬨の声を鳴り響かせた。


 ――― クルァァァァァァァァァァァァァッ…。

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