90:オオルリとの対面
オオルリが入荷しました。
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「リュシー様、初めてお目に掛かります。カジミール・ド・エルランジェの娘、エヴリーヌにございます。本日、リュシー様とお会いする事ができ、大変光栄に存じます」
いつものお仕着せのワンピースに身を包み、坊ちゃんの後ろに控えていた私は、わざわざ私の前まで進み出て優雅なカーテシーを披露する美少女を目にして、思わず硬直してしまった。
クリーム色の髪をストレートに伸ばし、水色のドレスに身を包んだ容姿はまるで温室に咲く花のように可憐で、愛らしい。その眉目の整った純真無垢の瞳には私に対する異常なまでの感謝と崇拝の光が見え、心当たりのない私は大いに困惑した。
「…あ、あの、エヴリーヌ様、どうか頭をお上げ下さい。私は只の侍女でございますから、公爵家のご息女たるエヴリーヌ様からその様なご挨拶をいただいては、困惑してしまいます」
「いえ、そういうわけには参りません」
周囲の同僚達から注がれる奇異の視線に耐え切れず、私がおろおろしながらエヴリーヌ様を留めるも、カーテシーを解いたエヴリーヌ様は私の顔を真っすぐに見上げ、キラキラとした表情で訴える。
「私がシリル様との良縁に恵まれましたのも、全てはリュシー様のお口添えに因るものと伺っております。父カジミールからも、リュシー様にはくれぐれも粗相のないよう言い含められておりますので、至らぬ点がございましたら何なりとお申し付け下さい」
え、ちょっと待って。何で公爵令嬢が一介の侍女に粗相をしてはならないと、厳命されているの?
全く思い当たる事がない私は、エルランジェ公との挨拶を終えて此方に振り返った坊ちゃんに顔を寄せ、小声で尋ねる。
「ぼ、坊ちゃん。い、一体コレ、どうなっているんですか?」
「どうもこうも、全てお前がやらかした事だろうが」
「えっ!?」
理由を尋ねただけなのに、何故か坊ちゃんが渋面を作って私を非難する。私は慌てて手を振り、身の潔白を訴えた。
「いやいやいや!坊ちゃん、言いがかりですよっ!幾らうっかり者の私とは言え、皇弟でもある公爵閣下に対してそんな迂闊な事するわけが…っ!」
「オオルリ」
「…え?」
「オオルリ、欲しいって言っただろ?」
「え、ええ…」
え、いや、確かにエルランジェ公がオオルリを売りたがっているって旦那様に報告した時、欲しいって言ったけどさ。それと今回の事にどういう関係が?
思考が結び付かない私の目の前で、坊ちゃんが右手を上げ、掌でエヴリーヌ様を指し示す。
「…え?」
「…」
私は坊ちゃんの右腕を伝って忙しなく左右に視線を動かし、エヴリーヌ様と坊ちゃんの顔を交互に見比べた。やがて、ようやくの事で結論に行き着いた私は、あまりの衝撃に思わず口に手を当て、エヴリーヌ様の姿を見ながら震えるように言葉を絞り出した。
「…オオルリって、こんなに大きいんですか?」
***
「エヴリーヌ様、申し訳ございません!まさか、『オオルリ』がエヴリール様の異名だとは露とも知らず!」
玄関で坊ちゃんにしこたま怒られ、苦笑するエルランジェ公の取り成しを得てやっとの事で解放された私は、ラシュレー邸の敷地に広がる庭園で改めてエヴリーヌ様に謝った。平身低頭を繰り返す私に対し、エヴリーヌ様が年齢にそぐわない柔らかな笑顔で私を慰めてくれる。
「リュシー様、その辺りでもうお止め下さい。リュシー様の謝罪の気持ちは十分に伝わりましたし、私は周囲から『オオルリ』と呼ばれて嬉しく思っておりますので」
「お、恐れ入ります…」
私がおずおずと頭を上げると、エヴリーヌ様が無垢な顔に微笑みを浮かべ、下から私を見上げる。そして身を翻して私に背を向けると、庭園に広がる池で泳ぐ水鳥を眺めながら、澄み渡った声で歌うように答えた。
「…それに、リュシー様の勘違いがあったからこそ、私はオーギュスト様の支持を得て、シリル様との婚約の運びとなったのですから。リュシー様には感謝の言葉しかございません」
「…」
喜びに溢れるエヴリーヌ様の言葉を聞き、背後に佇む私の心がずずずーんと沈む。自分のあまりの浅はかさに、嫌気が差す。
私、自分で最大級の恋敵を作っちゃったよ!
坊ちゃんがいずれ正妻を迎える事は、仕方がない。何と言っても坊ちゃんは帝室に次ぐ権勢を誇るラシュレー家の御曹司なのだから、幾ら坊ちゃんの情人になったとは言え、平民出の一介の侍女でしかない私を正妻に迎えるわけにはいかない。正妻はその家格に相応しい家から迎えるべきであり、私は妾として陰から坊ちゃんを支えるべきだ。
だけど、エヴリーヌ様はそう言った政略的な要素を抜きにしても、あまりにも魅力に溢れていた。未だ12歳という御年でありながら落ち着いた雰囲気と気品に溢れており、帝室の血を引きながら権勢を笠に懸ける事もなく、目下である私達にも優しい気遣いを見せてくれる。その容姿はこれから力強く花開こうとする蕾のように美しく生命力に満ち溢れ、純真で真っ直ぐな心の持ち主で、宮廷作法も万全。そんな、将来の完璧を約束されたエヴリーヌ様を相手に寵愛を争うだなんて、すでにダブルスコアというハンデを持つ私にはハードルが高すぎる。
…せめて、おっぱいだけはエヴリーヌ様に抜かれませんように。
「…リュシー様。北部戦線から魔王都に渡る戦いは、苛烈を極めたと伺っております。よろしければ、私にお聞かせ願えませんか?」
「えぇ、構いません、エヴリーヌ様。恐ろしくなったら仰って下さい。途中で止めますので」
水鳥を眺めていたエヴリーヌ様が振り返って私に尋ね、私は一言添えた後、一連の戦いを話し始めた。出来るだけ言葉を選んだつもりだったが、それでも温室で育てられた12歳の少女には強烈だったのだろう。エヴリーヌ様は両手で口を塞ぎ、顔色は蒼白となって目を見開き、驚愕の面持ちで私の話に聞き入る。だけど、エヴリーヌ様は最後まで私の言葉を遮ろうとせず、私が話し終えた後も暫くの間両手で口を押さえたまま硬直し、池畔の彫像と化した。
「…あ、ありがとうございました、リュシー様…」
「いえ。大丈夫ですか、エヴリーヌ様?お気分が優れないようでしたら、無理をなさらずに」
「大丈夫です…えぇ、大丈夫…」
やっとの事で私の話を飲み下したエヴリーヌ様は、両手を下ろし、沈んだ表情で俯いた。私の気遣いの言葉に、エヴリーヌ様は力なく頷きを繰り返し、やがてぽつりと呟く。
「…私は…恵まれているのですね…」
「はい、おそらくは」
「…」
宮中での熾烈な権力争いや息苦しい宮廷作法など、貴族社会にも厳しい側面はあるが、それでも死の恐怖に怯え、生き延びるために泥水を啜るような戦いと比べれば、楽園と言えよう。エヴリーヌ様の感想に私が躊躇いもなく首肯すると、彼女は唇を噛み、沈黙する。
やがてエヴリーヌ様は顔を上げ、身を翻して私に背を向けると、大きく息を吸い、池に向かって言葉を紡ぎ出した。
――― 只人よ。死に立ち向かい、斃れし只人よ。死は汝を阻むもその志は潰えず、我らに受け継がん。我らは語り継がん。死は汝を阻むも、汝もまた死を阻み、我らの生を救い給う事を。故に我らは約束しよう。汝を讃え、汝の志を受け継ぎ、汝の後に続いて死に立ち向かわん事を。そして、我らは願い給う。汝が再び生を授かり、惜しみない愛に抱かれ、次こそは幸せを掴み給う事を ―――
水面に、歌声が染み渡った。
混じり気のない、真水のように透き通った声が様々な感情に染まり、移ろい、流され、そして風に吹かれて消える。憂い、悲しみ、後悔、そして復仇の念と未来への希望。その一つひとつがその瞬間、強烈な色彩を放つも、悠久の時の前に留まることを赦されず、無情にも流され、拡散し、やがて無彩へと収束する。その、あまりにも儚い世界を体現した澄み切った音色を前に、私は心を揺さぶられ、ただ呆然と呟いた。
「…エヴリーヌ様…」
私の呟きに少女が振り返り、はにかむ。
「…オオルリは、唄う事しかできませんから…」
そう答えた彼女は再び前を向き、儚げな音色を奏でる。
――― 西の狩人は、一羽の鷹と共に吹雪の中に立つ。鷹は自由なれど決して狩人の肩を離れず、狩人は鷹の他に肩を譲らず、一人と一羽は対を為して吹き荒ぶ冬の嵐に立ち向かい、春の訪れを待ち続ける。
大瑠璃は狩人の肩に留まる事を赦されず、ただ対の周りを舞い、囀りを繰り返す。その翼はあまりにも脆く、容易に凍り付き、鷹と狩人と共に吹雪に立ち向かうには、あまりにも儚すぎる。
それでも大瑠璃は唄い続ける。鷹と狩人が春を迎えられる事を願って。それでも大瑠璃は唄い続ける。鷹と共に狩人に留まれる日を夢見て。春の訪れを、鷹と共に唄える日を夢見て ―――
「…リュシー様、どうか私にお聞かせ下さい」
「…」
澄み切った音色に籠められた想いに胸を打たれ、硬直する私に、少女が振り返った。緑玉石にも似た瞳で私を見上げ、歌い上げるように尋ねる。
「リュシー様は、シリル様を、愛していらっしゃるのですか…?」
「…はい」
純真なまでの少女の問い掛けに、私は幾ばくかの躊躇いを経て、口を割った。いずれ恋敵になるであろう少女を相手に、宣戦布告にも似た決意を乗せて。私の答えを受け、少女が視線を外す。
「…私は、正直に申し上げると、分かりません。今までお会いした殿方の中でシリル様は最も素敵な御方ですし、憧れてもおります。もしかしたら、これが『慕う』という気持ちではないかと感じる、漠然とした想いも心の中にあります。ですが、愛しているかと問われると、今はまだ、リュシー様のようにはっきりと申し上げる事ができません…」
「エヴリーヌ様…」
僅か12歳で、父親に言われるままに、見知らぬ男を生涯の伴侶として、受け入れなければならない。
例えその相手が帝国の中で最良とも言うべき坊ちゃんであろうとも、心の葛藤とは無縁ではいられない。
幸いにしてその葛藤と無縁でいられた私は、直面した12歳下の少女に、同じ女として同情の想いを寄せる。やがて少女が顔を上げ、緑玉石の輝きを再び私へと向けた。
「…ですが、いずれ誰かを愛さなければならないのであれば、私はシリル様を愛したいと思っております。叶う事なら、シリル様と幸せを分かち合いたいと願っております。
そして、シリル様と幸せを分かち合うために、――― 私は、リュシー様とも幸せを分かち合いたいと願っております」
「…え?」
「リュシー様、お願いがあります」
少女が、突然の宣言に呆然とする私の右手を取り、両手で包み込んだ。穢れも曇りもない、緑玉石の瞳に想いを乗せ、私に訴える。
「どうか、―――『お義姉様』と呼ばせていただけませんか?」
「っ!?お義姉…っ!?」
「リュシー様?」
抗いがたい魅惑の言葉が可憐な少女の唇から放たれ、感極まった私は思わず左手で鼻を押さえ、上を向いて仰け反った。少女が疑問の声を上げるも、鼻血を堪えるのに必死な私は、上を向いたまま頷きを繰り返す。
お義姉ちゃんっ!?かつて坊ちゃんにそう呼んでくれるようしつこくねだり、無情にも断られた憧れの言葉が、突然目の前にっ!やっとの事で血圧を鎮めた私はそれでも鼻を押さえたまま下を向き、麗しい「義妹」に快諾する。
「…えぇ、えぇ、もう喜んで、エヴリーヌ様。これからは、私の事は遠慮なく『お義姉ちゃん』とお呼び下さい」
「嬉しいっ!お義姉様、これからは三人で幸せになりましょう!」
「えぇ、エヴリーヌ様。此方こそ、よろしくお願いします」
満面の笑みを浮かべた義妹が両手を伸ばして私の首にぶら下がるように抱き付き、私は左手で鼻を押さえながら右手を義妹の背中へと回し、しっかりと抱き留める。
こうして純真無垢な少女の甘い誘惑に乗せられた私が、自ら坊ちゃんの半分を少女に明け渡してしまった事に気づいたのは、麗しい義妹を乗せた馬車を笑顔で送り出した後だった。
***
池畔で母子ほどにも身長の違う二人の女性が抱き合う様子を、離れた場所から二人の男が眺めていた。艶のある若い男が不貞腐れた表情を浮かべ、反対に年嵩の男は面白そうに口の端を吊り上げる。
やがて、若い男が不機嫌そうな声でボヤキを入れる。
「…あの馬鹿、好いように絆されやがって…エルランジェ公、何故私ではなく、彼女を狙ったのですか?」
「昔から言うではないか。『将を射んと欲すれば、まず馬を射よ』と。一度断られたお主よりも、彼女を口説く方が遥かに現実的だろう?」
「全くもって、その通りなんですがね…」
負けを認めたかのように溜息をつく将来の義理の息子の姿に、カジミールが顔を綻ばせる。やがて彼は正面を向き、笑顔を振り撒く自分の娘を見ながら言葉を続けた。
「それに、どうせ関わるのであれば、仲良く関わりたいではないか。陛下に相談したら、こう仰られたよ。『アレは、ラシュレーの忠臣だ。ラシュレーの益になる限り、きっとアレは娘の味方になるだろう』とな。オオルリに鷹の真似はできないが、鷹もまた、オオルリの真似はできない。意外とあの二人、仲良しになると思うぞ?」
「…」
カジミールの指摘に反論できず、シリルは口をへの字に曲げて押し黙る。日頃の社交の場では決して見せないシリルの表情豊かな顔にカジミールは笑い、一言付け加えた。
「…ま、人様の家庭に口を突っ込むつもりはないが、これでも一人の父親だ。娘をよろしく頼むよ、婿殿」
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「…はっ!?可愛さに負けて、うっかり坊ちゃんを明け渡しちゃったよっ!?」
「…」
カジミールとエヴリーヌを乗せた馬車がラシュレー邸を発ち、その後姿を笑顔で見送っていたリュシーが、馬車が見えなくなった途端その場にしゃがみ込んだ。青い顔で頭を抱えるリュシーの姿をシリルは呆れ顔で見下ろしていたが、蹄鉄の音を耳にして顔を上げる。
「…何だ、早馬か?」
エルランジェ公の馬車の消えた正門から、入れ違うように一騎の騎馬が駆け込んで来た。騎馬は二人の居る館玄関の前に横付けし、騎士が棹立ちになった馬を宥めながら、シリルに尋ねる。
「皇帝陛下からの急使ですっ!至急、シリル様、リュシー殿のお二人にお取次ぎ願いたいっ!」
「我々がその二人だ。使者殿、話を聞こう」
「っ!?失礼しました!」
シリルの言葉に使者は慌てて非礼を詫び、馬を降りて頭を下げる。
「陛下からの御言葉を申し上げます!シリル・ド・ラシュレー、リュシー・オランド。以上両名、可及的速やかに参内せよとのご命令です!」
「使者殿、承った。すぐに準備いたそう。リュシー、急いで着替えを済ませろ。お前達は、使者殿を控えの間に。馬車の用意も頼む」
「はい」
「「「はっ」」」
使者の言葉にシリルは即座に応じ、傍らに立つリュシーと背後に並ぶ家人達に向かって次々と命令する。
やがてシリルとリュシーを乗せた馬車は複数の騎馬に守られながら慌ただしくラシュレー邸を発ち、宮殿へと向かった。
「…陛下、シリル・ド・ラシュレー、リュシー・オランド、遅参いたしました」
宮殿に到着したシリルとリュシーはすぐさま中に通され、皇帝レオポルドの執務室へと足を踏み入れた。部屋の中にはすでにレオポルドと宰相のレイモンが居り、入室して来た二人に厳しい表情を向ける。その重苦しい雰囲気にシリルは表情を険しくし、傍らに座るレイモンに尋ねた。
「…叔父上、一体何がありましたか?」
「…まぁ、其処に座りなさい」
日頃、どちらかと言うと軽薄な態度を見せるレイモンには似つかわしくない表情に、シリルの眉が上がる。指し示されたソファに二人が腰を下ろすと、向かいに座るレオポルドが腕を組んだまま、重々しく口を開いた。
「…非常事態だ。――― 不死王が動き出した」




