9:侍女の覚悟
ラシュレー公爵家の領都、サン=スクレーヌから南東方向に馬で2時間。晴れやかな青空の下、見晴らしの良い高台を縫う幹道を、20騎ほどの騎馬に守られた1台の馬車が東へと進んでいた。2頭立ての馬車には見事な装飾が施されており、身分の高い者であれば馬車に掲げられた家紋がボードレール伯爵家のものだと、すぐに気づくであろう。馬車を守る20騎の騎士が抜かりなく周囲に目を光らせていたが、一行は全体として高台の散策を楽しむような、穏やかな雰囲気を漂わせていた。
周囲に立ち並んでいた樹々が次第に疎らになり、やがて色とりどりの花に彩られた広い草原へと躍り出ると、一行は足を止める。騎士達が馬から降りて周囲を警戒する中、橙色めいた明るい髪をなびかせた一人の美丈夫が馬車へと向かい、扉の開いた馬車に向かって手を差し伸べた。
「サビーナ殿、御手をどうぞ」
「シリル様、ありがとうございます」
男の掌にしなやかな手が添えられ、馬車から洗練された衣装に身を包んだ美しい女性が姿を現わす。女性は男のエスコートを受けて馬車から降りると、目の前に広がる色鮮やかな花々を眩しそうに見渡しながら、微笑んだ。
「…いつ来ても、美しい光景ですわ…。シリル様、今年も貴方様とこの風景を見る事ができ、私はとても幸せです」
「それは良かった、サビーナ殿」
サビーナは満開の花々を一望すると、うっとりとした表情で振り返って、シリルの顔を見上げる。その美しく整った目は潤み、白くきめ細やかな肌は溢れる期待で薄っすらと赤みがかり、瑞々しい艶やかな唇は侵入者を待ち望むように緩く開いている。そのサビーナの隙のある蠱惑的な眼差しに、シリルは儀礼めいた笑みを浮かべて一つ頷くと、あっさりと花畑に目を向けた。サビーナは一瞬目を見開き、秀麗な眉の端を少しだけ下げるが、気づかぬ風で花畑へと目を戻し、言葉を続けた。
「…私、この土地がとても好きです…それはもう、第二の故郷と思えるほどに。…私、常々思っておりますの。帝国に生きる者達は、もっとラシュレー家に恩義を感じるべきだと…この帝国がかつてないほどの繁栄を謳歌しているのは、ひとえにラシュレー家が帝国西方を盤石にしているからであると…私は勿論、父ベルナールもそう考え、常に御家のためを想い尽力して参りました…」
「…」
サビーナの独白にシリルは答えず、黙ったままサビーナの背中を見つめる。やがてサビーナが再び振り返り、しなやかな指を胸の前で組み合わせると、シリルに懇願した。
「シリル様、このサビーナ、たってのお願いです。どうかこの私に、貴方様のご奉仕をさせていただけませんでしょうか。確かに我がボードレール家はラシュレー家と比べ格が落ちますし、私はシリル様より1歳年上でもあります。ですが当家は帝都近郊に領地を構え、父ベルナールの精力的な活動によって中央への影響力も近年目覚ましいものがあります。シリル様が私を妻として受け入れていただければ、父ベルナールが帝都から遠く離れた御家に代わって、中央における御家の立場をゆるぎないものにいたすでしょう。私もシリル様の妻に相応しい働きを持って奥向きを支え、尽くさせていただきます。…ですからシリル様、どうかこのサビーナを、貴方様の妻にお選び下さい!」
「…」
懇願するサビーナの背後で風が吹き、花びらが色鮮やかに舞い上がった。花吹雪の舞う中、胸元で手を組み縋るような目を向けるサビーナの姿を、シリルは黙って見つめている。
やがてシリルは目を閉じ、瞼の裏に焼き付いた光景を味わうように答える。
「…帝国一の美姫とも噂されるサビーナ殿にそこまで言わしめ、このシリル・ド・ラシュレー、男冥利に尽きると言うもの」
「っ!?そ、それではシリル様っ!?」
シリルの一言を聞き、サビーナの顔に満開の笑みが浮かび上がる。しかし、その後に続いた言葉にサビーナの笑顔が凍り付いた。
「…ですがその笑顔は、この無骨な辺境の地にはあまりにも勿体ない。貴女の笑顔は、中央で花開いてこそ意味がある。どうか帝都にて、貴女に相応しい殿方と添い遂げて下さい」
「…そ、そんな…シリル…様…」
最後の訴えとばかりに目に涙を浮かべたサビーナには気にも留めず、シリルが平静に手を差し伸べる。
「…サビーナ殿、そろそろ戻りましょう。あまり遅くなると、御父君がご心配なさる」
「…はい…シリル様…」
悄然と項垂れたサビーナは、俯いたまま差し伸べられた手を取ると、重い足取りで馬車へと戻って行った。
馬車に乗り込んだサビーナは座席に腰を下ろすと、俯いたまま唇を噛む。ボードレール家の侍女が馬車の窓のカーテンを閉め、馬車はシリルが率いるラシュレー家の騎士達に守られ、花畑を後にした。
馬車が動き出すと、カーテンで閉ざされた車中で、サビーナが俯いたまま人差し指を口に運び、歯を立てる。秀麗なサビーナの顔が歪み、指を噛みながら憎々し気に呟いた。
「何てこと…この私があれほど訴えても、なびかないだなんて…。報告にあったシリル様に関する噂は、どうやら本当のようね…」
「えぇ、お嬢様」
向かいに座る侍女がサビーナに顔を寄せ、声を低める。二人は閉ざされた馬車の中で顔を寄せ、不穏な言葉を交わした。
「…報告によると、シリル様は平民出の侍女にいたくご執心だそうです。その女は病弱で、侍女の務めを全く果たしていないに関わらず、シリル様はその女を咎める事もなく自室に招き入れ、表には滅多に出させないとの事…。シリル様は、その女が居る時は他の者をほとんど部屋に入らせないそうで、ラシュレー家の中にも、一部には情事に耽っているのではないかとの噂が立っているようです」
「何て淫らな…!分を弁えぬ下賤の者が、娼婦にも劣る所業でシリル様のお心を惑わすとは…一刻も早く元凶を取り除き、シリル様のお目を覚まさせて差し上げないと…!」
「はい、お嬢様」
サビーナは扇子を開いて頬に添え、前のめりになって声を潜める。
「…で、手筈は?」
「サン=スクレーヌ出立の際、使いを走らせました。そろそろカタが付く頃かと…」
「そう…」
侍女の報告を聞いたサビーナは顔を上げ、背筋を伸ばして大きく息を吐く。
「サン=スクレーヌに戻ったら、シリル様を慰めて差し上げないと…いくら下賤の者とは言え、突然いなくなっては、お嘆きになられるでしょうし…」
「はい。それは、お嬢様にしかできない事です」
侍女の言葉に、サビーナは頬を染め、嬉しそうに頷いた。
「…ええ。シリル様が求めるのであれば、私はいつでもこの身を捧げるつもりよ」
***
坊ちゃんが出立した後、私はいつも通り、坊ちゃんの執務室に閉じ籠ってぼんやりしていた。昨日からボードレール伯爵家の御当主がご息女を伴ってお見えになられており、今日は当主同士の会談の間、坊ちゃんがご息女をエスコートする事になっていた。坊ちゃんからお留守番を仰せつかった私は、執務室の扉に鍵をかけ、暇潰しに書棚から適当な本を取り出してソファへと寝そべった。
私は坊ちゃんの侍女として召し抱えられているが、坊ちゃんの外出に付き添う事は、実はあまり多くない。特に舞踏会をはじめとする貴族同士の社交の場に赴く際は、ほぼ確実に置いてきぼりにされていた。まあ、この役立たずの体では、傍に居ても何もできないし。その時は、いつも私は坊ちゃんから、この部屋で大人しくしていろと口酸っぱく言われている。私が一人でお留守番している時はこの部屋を好きに使っていいと坊ちゃんから言われており、体調が優れない時など扉に鍵をかけ、一日中ソファに横になっている事もザラだった。
扉をノックする音が聞こえ、私はソファから身を起こして入口へと目を向ける。珍しいな、この部屋に私しか居ない時には、みんな近寄らないはずなんだけど。私が入口の鍵を外し扉を開けると、ジョエルが私を睨みつけるように見上げていた。彼女は私より年下で、ラシュレー家に勤めるようになってまだ2年も経っていないけど、その間ずっと何もしていない私を毛嫌いしている。まぁ、坊ちゃんの部屋で四六時中寝込んでいる役立たずの侍女というのは反論しようのない事実なので、仕方ないけど。
「どうしたの、ジョエル?何かあった?」
私が尋ねると、ジョエルは吐き捨てるような勢いで用件を口にする。
「…シリル様からの伝言。至急、頼みたい事がある。馬車を回すから、来て欲しいって」
「仕事の中身は?」
「聞いてない」
「…そう。わかったわ」
伝言を聞いた私はソファに投げ出してあった本を棚に片付けた後、自室へと戻る。形見の短剣を腰に括り付け、急いで身支度を整えると、廊下で貧乏ゆすりを繰り返しているジョエルに声を掛けた。
「待たせたわね、ジョエル。行きましょうか」
屋敷を出たジョエルと私だったが、玄関の前には馬車が居なかった。
「ジョエル、馬車は何処?裏手の使用人口かしら?」
私が小首を傾げながらジョエルに尋ねると、彼女は不機嫌そうに答える。
「…今回、事情があって、家紋が入っているとマズいんだって。外に待たせてる」
「そうなの。珍しいわね…」
あまり例を見ない指示に私は首を捻りながらもジョエルの先導に従い、敷地の外へと出る。ラシュレー家の敷地を出て一区画ほど歩くと、建物の陰に隠れるように2頭立ての飾り気のない馬車が停車していた。御者台に乗っていた男が降りて来て、馬車の扉を開ける。
「どうぞ、シリル様の許にお連れします」
「お願いします。…あら?ジョエル、貴方は行かないの?」
私が馬車に乗り込むと、男がジョエルを残したまま、馬車の扉を閉めた。私が馬車の中からジョエルに尋ねると、彼女にしては珍しく、私に向かって笑みを浮かべた。
「…私は来るなって言われているの。シリル様をよろしくね?」
「ええ、分かったわ」
私は頷き、背もたれに身を預ける。御者台に男が座り、馬車はジョエルに見送られながら屋敷を後にした。
馬車はサン=スクレーヌを出て、1時間ほど走り続けた。辺りは田園地帯から次第に樹々が増えていき、反対に人家が疎らになる。やがて馬車は、鬱蒼とした森の中にぽっかりと開いた広い荒れ地に停車した。
「お嬢さん、着いたぜ。さっさと降りな」
扉が開き、御者の男が私に声を掛けた。その言葉は先ほどとは打って変わって横柄で、男はニヤニヤと笑みを浮かべている。御者の男の背後には更に3人の男が佇んでおり、その全員が卑下た笑みを浮かべ、お仕着せのワンピースに身を包んだ私の体を舐め回すように見ていた。
「…坊ちゃんは、何処に居ます?」
私はいやらしい笑みを浮かべる男に尋ねながら、素早く反対側の窓へと目を向ける。…2人。前後にも居るとして、10人ってトコか…キツい。
「坊ちゃんなんて、居ねぇよ。それより、俺達を楽しませてくれよ?」
「…誰がっ!」
「逃がさねぇって!」
男の言葉に私は吐き捨てるように答えると、反対側の扉に手を掛けた。すかさず男が私を捕まえようと手を伸ばし、馬車の中に身を乗り出して来る。私は座席に腰を落として扉に手をつき体を傾けると、右足を引き絞り、伸びてきた男の指を正面から潰すように蹴りつけた。
「ってぇ!」
突き指の痛みに男が怯んだ隙に私は反対側の扉を開け、外へと飛び出す。反対側からは2人の男が間隔を空けて馬車へと近づいていたが、突然の私の突進に驚き、動きが止まる。私はすかさず左側の男の懐に飛び込むと、左拳を引き絞って男のみぞおちへと叩き込んだ。
「がぁっ!?」
男の顔が苦し気に歪み、前のめりになったところへ、右足を突き込む。私の踵が男の喉を捉え、男は仰向けに倒れて動かなくなった。
「なっ!?」
右側の男がようやく我に返ったところに、私が襲い掛かる。右足の膝裏を横蹴りし、態勢を崩したところで男の頭を左手で掴み、地面へと引き倒す。横倒しとなった男の首に踵を落として踏み抜き、首の骨を折った。
「ふぅぅぅぅ…」
瞬く間に2人が斃され、呆然とする男達の前で、私は呼吸を整え丹田に力を籠める。右足を引き、動かせない右腕を庇いながら、左腕を体の前に掲げる。その左腕は、手の甲から肘にかけて武骨な籠手に覆われ、鈍い輝きを放っている。
…死ねない。死ぬわけには、いかない。
――― この体は、私のものではない。旦那様のものだ。
私はまだ、旦那様のご恩に報いていない。命を救われ、役立たずとなった後も4年もの間生かし続けてくれた旦那様のご恩に、何一つ報いていない。
私は、何としてでも生き残る。旦那様が、私に死ねと命じるその日のために、お預かりしたこの体に傷一つ残す事なく、生き残ってみせる。
…残り、8。
私は心を奮い立たせ、対峙する男達に向かって、傲然と宣言する。
「…ラシュレー公爵嫡男、シリル・ド・ラシュレーが侍女、リュシー・オランド。――― 推して参る」