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89:逢引

 帝都のラシュレー邸へと戻った私達は、その後数日間、館の敷地から外に出る事はなかった。


 坊ちゃんは帰着した翌日こそ屋敷の中でゆっくりとした時間を過ごし、2ヶ月近い旅の疲れを癒していたが、翌々日には再び為政者の空気を纏い、大量に積み上がった報告書に目を通し、家令からの報告に耳を傾けた。


 ラシュレー家は帝国の公爵家ではあるが、その特殊な成り立ちから他の貴族とは異なり、帝都に足を運ぶ事がほとんどない。そのため帝都にあるラシュレー邸も、タウンハウスというより帝都における情報集積拠点と言った意味合いの方が強かった。それだけラシュレー邸を預かる家令には大きな権限が与えられており、家人はもとより、帝都常駐の騎士一個小隊の指揮権も彼にある。当然それに見合った能力と忠誠が要求されるわけで、現在の家令は旦那様の又従兄、ラシュレー家の分家筋に当たる子爵家の出身だった。


 前回坊ちゃんが帝都に立ち寄ったのは半年前、その前となると一昨年まで遡ってしまう。その間もラシュレー邸には絶え間なく情報や報告が蓄積されるわけで、重要なものはサン=スクレーヌに居る旦那様やリアンジュに居た坊ちゃんの許へ届けられるものの、家令の判断で処理できる些末事は留め置かれている。また坊ちゃんが凱旋した事で、恒例とも言うべき貴族からの山のようなお祝いの品が押し寄せており、坊ちゃんは留め置かれていた大量の報告を聞いたり、家令の手に余る高位貴族からの便りの対処に追われているというわけだ。


 坊ちゃんが大量の書類に忙殺されていた数日間、私は何をやっていたかというと、帝都常駐の騎士達と模擬戦を繰り広げた以外は、一介の侍女として坊ちゃんの後ろに控え、大人しくしていた。帰着早々、坊ちゃんは家人に対し、今後私を特別扱いする旨を堂々と宣言したわけだが、今はまだ坊ちゃんの個人的宣言に留まっており、ラシュレー家当主でもある旦那様の正式な沙汰が下りているわけではない。同じラシュレー家の家人とは言え、「田舎(本領)」から遠く離れた「都会(帝都)」に勤める同僚達と親しいわけでもなく、そんな中で私が坊ちゃんの好意に甘えて一介の家人の枠を逸脱した行動を取れば、帝都付きの家人の反発を招く事になるのは、火を見るよりも明らか。私の醜聞は私を選んだ坊ちゃんの評価にも繋がる以上、「寵愛を受けた者」のプライドに賭け、意地でも主人の不評の種を蒔くわけにはいかなかった。幸い、皆、ラシュレー家に仕えるに相応しい物事の分別がつく人達で、帝都を預かる家令の優れた統率力もあって一部の若い女性からやっかみの視線は感じたものの表立った軋轢は生じず、「侯爵夫人」「聖女」という肩書も抑止力として働き、私は「触らぬ神に祟りなし」の如き微妙な空気の中で静かな時を過ごした。


 こうして数日が過ぎ、ようやく書類から解放された坊ちゃんは気晴らしに私を連れて屋敷を発ち、繁華街へと繰り出した。




 ***


「…お前、せっかく二人で出掛けるというのに、いつものソレかよ…」


 私が坊ちゃんの部屋に顔を出すと、いつものお仕着せのワンピース姿を目にした坊ちゃんが口をへの字に歪め、下唇を突き出す。私は坊ちゃんの非難めいた視線に臆さず、堂々と反論した。


「仕方ないじゃないですか。坊ちゃんと違って、私は一介の侍女なんですから。三国会合に出席するだけのはずが、成り行きで此処まで来ちゃったんですから、私服なんて持ち合わせていませんって」

「下賜金で買えばいいじゃないか…」

「お金があるからって、不必要な物を無計画に買ってはいけません」


 ラシュレー公爵嫡男として、帝都にもそれなりに衣装を用意されている坊ちゃんと違い、ラシュレー領で仕える私の私服が帝都に置いてあるわけがない。確かに白金貨200枚にも及ぶ下賜金があれば服どころか家まで買えるが、不用意な散財は私の醜聞、ひいては坊ちゃんの不評に繋がってしまう。物欲にも目覚めていないので、お仕着せのワンピースで事足りていた私は忠実な侍女として坊ちゃんの傍らに控え、買い物に出る事はなかった。だが、私の反論に坊ちゃんの機嫌が悪くなる。


「お前…俺とのデートも不必要だと?」

「あ…すみません、坊ちゃん。そういう意味ではなくて…申し訳ありません」


 坊ちゃんの指摘に私は青くなり、急いで頭を下げた。周囲に隙を見せまいとするあまり、肝心の坊ちゃんの気持ちを考えていなかった。せっかくの坊ちゃんとのデートに、とんでもない水を差してしまった。申し訳なさのあまりしょげ返り、私が俯いたまま頭を上げられないでいると、坊ちゃんの盛大な溜息が聞こえて来る。


「はぁ…お前、昔からそういうトコ、融通が利かないからな…。気にするな、リュシー」

「すみません、坊ちゃん…」


 坊ちゃんは公爵家の嫡男に相応しい、上質な生地で仕立てられた煌びやかな衣装に身を包んでいた。白のブラウスにサンドベージュのベストを羽織り、同色のスーツ、パンツを身に着けている。サンドベージュの衣装の縁には黄金色の糸で鮮やかな刺繍が施され、前留めやカフスボタンが陽光を浴びてキラキラと輝いていた。私は、その眩いばかりの輝きと、自分が身に着けている地味なワンピースのあまりの落差に恥ずかしくなり、もう一度消え入りそうな声で謝った。


「…すみません、坊ちゃん」

「…リュシー」


 俯いていた私の肩に手が回され、坊ちゃんに抱き寄せられる。顔を上げられない私の耳元に坊ちゃんが顔を寄せ、小さな声で囁いた。


「…お前のプレゼントは決まった。服を買いに行こう」




 ***


 坊ちゃんと私を乗せた馬車は複数の騎馬に守られ、帝都で一番大きな商会へと乗り入れた。私達が馬車を降りると、先触れがあったのだろう、入口に大勢の職員が立ち並んで私達を出迎える。商会長と思しき洗練された装いの年配の男性が進み出て、坊ちゃんに挨拶した。


「シリル様、当商会にようこそお越し下さいました。お申し付けいただければ、お屋敷まで出向きましたものを」

「ここしばらく屋敷に閉じ籠っていてな、外の空気を吸いたかったのだよ。帝都の賑わいも目にしたかったしな」


 旦那様と同年代と思しき商会長を相手に、坊ちゃんは公爵家嫡男の威厳を纏い、堂々と応じる。そして右手を広げると、傍らに佇む私を掌で指し示した。


「彼女に衣装を贈りたい。ラシュレーに相応しい衣装を身繕ってくれ」

「この御方に?…畏まりました。お任せ下さい!」


 お仕着せのワンピースに身を包んだ一介の侍女としか思えない私を見て、商会長は目を瞠った後、恭しく一礼する。流石に貴族との取引に慣れているだけあって、対応にそつがない。侍女の身なりに惑わされる事なく、貴族令嬢と同じように私を遇した。


「どうぞ、此方にお越し下さい。当商会が取り揃えた数々の逸品を、ご紹介させていただきます」




 私達は商会の最上階へと通され、其処で各種様々な高級な生地やドレスを紹介された。坊ちゃんと私、二人だけの貸し切りとなったフロアに大勢の女性店員が並び、入れ替わり立ち替わり手にしたドレスを私へと提示する。


「こちらは獣王国産の最上級の絹を使ったドレスになります。上品な光沢と滑らかな肌触りが特徴でデザインも洗練されており、背の高いリュシー様にきっとお似合いでございますよ」

「あ、あの、坊ちゃん…まだ買うんですか…?」

「まだって、まだ3着目だろうが。お前の立場を考えたら、こんな程度じゃ到底足らんぞ?」


 坊ちゃんに勧められるまま、すでに2着購入を決めた私は、3着目を前にして当惑の面持ちで坊ちゃんへと目を向ける。私がまだ子爵夫人にもなっていない、本当に一介の侍女だった時のお給金であれば年単位のお金がバンバンと蒸発し、流石に怖くなってきた私が助けを求めようとするも、坊ちゃんは何がおかしいのか?という体で首を傾げている。当初、フロアに足を踏み入れて早々、坊ちゃんが「じゃぁ、此処から此処まで…」と言い出したのを私が慌てて止め、以後延々と着せ替え人形を演じている次第だった。坊ちゃん、買ってから選ぶんじゃなくて、選んでから買いましょうよ。サンタピエの月市場の宝石店では一石選ぶのにあんなに時間掛けたのに、何で私の衣装選びになるとそんなに丼勘定なんですか。


「…ど、どうですか、坊ちゃん?」

「…うん、お前によく似合っている。春の催しの装いに良さそうだ。…コレも貰おうか」

「は、はい…」


 ドレスを身に纏った私がおずおずと尋ねると、坊ちゃんは私の傍らに立ってドレスに手を伸ばし、絹の心地良い感触に笑みを浮かべる。その日頃あまり見せない柔らかな微笑みを目の当たりにして、私の頬が赤くなった。


 こうして私は、坊ちゃんの推しに負けて都合5着のドレスの購入を決めたところでついに音を上げ、また今度坊ちゃんの好きな時にお付き合いする事を約束して、ようやく無限ループから解放された。




 ドレスの仕立てを商会長に依頼し、階段を伝って2階まで下りたところで、私は足を止めた。1階に足を向けていた坊ちゃんが立ち止まり、振り返る。


「どうした、リュシー?」

「…あ、この階も見て好いですか?ほら、次回もこの格好だと、流石に…」

「あぁ…」


 私が両手でお仕着せのワンピースの裾を摘まんで苦笑すると、得心した坊ちゃんが踵を返し、私の許に戻って来る。


 2階には、幾分裕福な家庭や商家の子女を対象にした、比較的良質な衣装が数多く並んでいた。貴族令嬢が身に着けるような高価な衣装ではないものの、一般市民を対象としているだけあって身軽な装いで、それなりに鮮やかさもある。私は近くに掛けてあったスカートを手に取り、その肌触りを確認しながら坊ちゃんに答えた。


「…これなら、街中を気ままに歩く分には、丁度いいじゃないですか。変に手足に纏わりつかないし、有事の時も十分に戦えますから」

「お前、そんな事まで考えなくていいから…」


 私の感想を聞いて坊ちゃんが苦笑するが、私は至って真剣だ。私は坊ちゃんの情人(ミストレス)になったわけだけど、「ラシュレーの女」である事に変わりはない。いざという時には坊ちゃんの身を庇い、己を賭して守り抜く覚悟だ。人知れず気持ちを新たにする私を余所に、坊ちゃんが呑気に答えた。


「じゃぁ、此処から此処まで」

「坊ちゃん、それはもう好いからっ!」




「…何か良い服があったか?」


 大人買いしようとする坊ちゃんを宥めすかし、3着目を決めたところで、私は部屋の奥に展示されている衣装に目を奪われた。足を止めた私に気づいて坊ちゃんが振り返り、私の視線を追って目を向ける。


 そこには真っ白なプリンセスラインのドレスが木の棒に袖を通して掲げられ、まるで釣鐘草のように下方へ鮮やかな花を咲かせていた。私が思わずドレスの許に歩み寄ると、商会長が近づき、説明する。


「最近は帝都の市民の生活も豊かになりまして。資産に余裕のある家は、結婚式にこういったウェディングドレスを身に着ける事が増えて参りました」

「そうなんですね…」


 貴族階級の結婚式でしか目にする事のない純白のドレスが、帝都の市民の間にも広がっている。田舎(ラシュレー領)では到底想像できない光景に私が半ば呆然としていると、後ろから近づいて来た坊ちゃんが背後から顔を寄せ、耳元で囁いた。


「…そいつは駄目だ、リュシー」




「…え?」

「…」


 思わず声のした方に振り返ると、坊ちゃんが背後から肩越しに私へと目を向けていた。その冷たい碧氷(アイス・ブルー)の輝きに私は胸が締め付けられるような不安を覚え、恐る恐る尋ねる。


「…あ、あの…それはどういう意味で…」




「――― そんな質の悪い物で満足するな。サン=スクレーヌに戻ったら、俺がもっと良い物を用意してやる」




「ーーーーーーーーーーーーーーーっ!?あ、あ、あ、あり、あり、ありがとぅ…ございます…」

「フン」


 坊ちゃんの言葉を理解した途端、私の脳みそが沸騰した。私は顔を真っ赤にしながら俯き、ボソボソとお礼の言葉を口にする。坊ちゃんも流石に照れたのだろう、横柄な鼻息を荒げてそっぽを向き、私は坊ちゃんと自分の未来像を思い浮かべて鼓動を早めた。




 ***


「すみません、坊ちゃん。こんなに沢山買っていただきながら、私からのプレゼントがこれだけで…」


 買い物を終え、建物の外に出た私は、坊ちゃんに振り返って頭を下げた。すると、頭を上げる前に坊ちゃんの手が私の肩に回され、私は坊ちゃんの傍らに引き寄せられる。俯いたままの私の視界に、坊ちゃんの襟元を飾る、銀の鎖があしらわれたオレンジサファイアのブローチが浮かび上がる。気恥ずかしさで顔を上げられなくなった私の頭上へ、坊ちゃんの穏やかな声が降り注いだ。


「いや、素敵なブローチを選んでくれてありがとうな、リュシー。オレンジサファイアを選んでくれたのは…」

「ええ。一目見て、坊ちゃんの髪の色と瓜二つだと思ったもので…」


 坊ちゃんが左手でブローチを摘まみ上げ、銀の鎖が二筋の滝となって流れ落ちる。私はブローチを弄ぶしなやかな指を目で追いながら、ブローチを選んだ理由を告げた。


「…それに、ブローチなら魔法付与装身具(アーティファクト)への転用もできるじゃないですか。だから」

「馬鹿を言うな、リュシー」


 私の言葉は途中で遮られ、坊ちゃんが頭を下げて私の視界を覗き込んだ。碧氷(アイス・ブルー)の瞳に心外そうな光を湛え、私の体をきつく抱き寄せる。


「お前からのプレゼントを無下にするわけがないだろう。魔法付与装身具(アーティファクト)の素材は、また別に用意すればいい。…また今度、一緒に行こうな?」

「…はい。喜んでお付き合いしますね」


 私が頷くと坊ちゃんの口角が嬉しそうに上向き、熱を覚えた私は顔を真っ赤にして俯く。


 そうして私は坊ちゃんに抱き寄せられながら、商会を後にした。




 …ちなみに後から購入した衣装については、何故か全て坊ちゃんの寝所で着るハメになった。

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