85:変質(2)
「…う?…ぅぅん…」
天幕の隙間から射し込んだ光が瞼を照らし、私は微睡みから否応なく追い出された。横殴りの朝日を掌で遮りながら周囲を見渡すも、同じ天幕で寝ていたノエミの姿はすでに無い。高地にあるラシュレー領ほどではないにしろ夜の冷え込みは厳しく、毛布に包まっていても手足の先は冷たさを覚え、私は両手を擦り合わせて息を吐きかけながら、天幕の外へ出た。
周囲には似たような天幕が立ち並び、所々ぽっかりと空いた広場で焚火の炎が上がり、人々が周囲を取り囲んで体を温めていた。天幕を出た私は最寄りの小さな焚火へと足を向け、傍らで暖を取るフランシーヌ様とシズクさんに声を掛けた。
「おはようございます」
「あ、リュシーさん、おはよう」
「おはようございます、リュシー様」
「ハァッ!セイッ!…あ、リュシー、おはよう」
「おはようございます、ハヤテ様」
焚火の傍らに腰を下ろしていたフランシーヌ様とシズクさんが挨拶を返し、少し離れた所で演武を行っていたハヤテ様が振り返る。私がハヤテ様に挨拶を返すと、ハヤテ様は演武を中断し、タオルで汗を拭いながら私達の許へと歩み寄って来た。
「どうした、リュシー?今日は随分と遅いじゃないかい」
「えぇ、昨晩はなかなか寝付けなくって…」
遅いと言っても、ハヤテ様の組手に付き合う時間がないという意味だ。言葉を濁す私を見て、ハヤテ様が口の端を吊り上げる。
「何だ?悶々として眠れないのなら、遠慮せずシリル殿にねだれば好いのに」
「そ、そんなはしたない事、出来るわけがっ!?」
ハヤテ様に図星を指され、狼狽した私は誤魔化す事を忘れ、顔を真っ赤にして反論する。ハヤテ様はシズクさんの傍らに腰を下ろして肩を抱き寄せると、私に見せつけるようにいちゃつき始めた。
「女だからって我慢する必要なんてないぞ?相手が欲しければ、欲しいってはっきりと言いなよ」
「あ、ハヤテ様っ!?こんな所でお耳噛んじゃ、駄目ぇ!」
「ちょ、ちょっと、ハヤテ様っ!?」
ハヤテ様が肉食獣の笑みを浮かべながら、まるで鮭とばを味わうかのように、シズクさんの長い兎耳を甘噛みする。朝っぱらから繰り広げられる痴態を前に、目のやり場に困った私は、救いを求めてフランシーヌ様へと目を向けた。
「フランシーヌ様は、ず、随分と堂々とされていますね?」
「もう、いい加減慣れたわよ」
「え、慣れちゃって好いの!?」
すでに悟りの境地に至ってしまったフランシーヌ様の、二人を眺める視線が生暖かい。場の空気に当てられた私は忙しなく辺りを見渡し、フランシーヌ様に尋ねた。
「…フランシーヌ様、ノエミを見ませんでしたか?」
「ノエミさんなら、さっき調理場で見かけたわよ?」
「そうですか。…私、坊ちゃんの事、起こしてきますね」
「えぇ、行ってらっしゃい」
「…お、おはようございます」
「おはよう、リュシー。…あぁ、ありがとう」
私が恐る恐る坊ちゃんの天幕を覗き込むと、坊ちゃんは毛布の上で胡坐を掻き、身支度を整えているところだった。私が濡れたタオルを差し出すと、坊ちゃんはお礼を口にして受け取り、手や顔を拭って身を引き締める。
やがて坊ちゃんは胡坐を掻いたまま顔を上げ、私に向けて手を差し伸べた。意を酌んだ私は坊ちゃんの傍らに膝をつき、首を伸ばして唇を重ねる。「お仕置き」の伴わない坊ちゃんのキスは優しく、物足りなさを覚えた私は口を開き、舌を出して相手を求めた。
「…ん…」
「…リュシー、お前、随分と積極的だな…」
「っ!?し、失礼しましたっ!」
坊ちゃんの指摘で我に返った私は絶句し、急いで身を引いて口元を手で押さえた。恥ずかしさのあまり顔が真っ赤になり、膝立ちで硬直する私の姿を、坊ちゃんの碧氷の瞳が捉える。その視線に耐えられなくなった私は顔を背け、口元を手で隠したまま、モゴモゴと謝罪の言葉を口にした。
「…す、すみません、はしたない真似を…申し訳ありません…」
「リュシー…」
「そ、そろそろ参りましょうか、ぼっ…み、皆さん、お待ちかねですよ…」
「お、おい」
自分を抑える自信のない私は、喉から出掛かった言葉を押し戻すと身を翻し、逃げるように天幕を出て行った。
***
「…へぇ。それでは野営の時は、フランシーヌ様自ら包丁を手にされるのですか?」
「えぇ。フランシーヌ隊の面々は、もはや家族みたいなものですから。皆と一緒に作る料理は楽しいですし、より一層美味しく感じられますしね」
「…」
その日、私は一緒の馬車に乗っていただけるようフランシーヌ様に泣きつき、私達の馬車にフランシーヌ様とノエミの二人が乗り込んだ。坊ちゃんとフランシーヌ様は並んで座ってフランシーヌ隊の話題に花を咲かせ、私の隣に座るノエミも興味津々の態で頷きを繰り返す。私は向かいに座る坊ちゃんと視線を合わせないよう俯きながら、二人の会話に耳を傾けた。
やがて正午を過ぎた辺りで一行は街道脇に広がる荒れ地を見つけて行軍を止め、昼食の準備に取り掛かった。一部の兵士が交代で歩哨に立って周囲に目を光らせる中、残りの者達が思い思いに腰を下ろし、腰に吊るしていた携帯食を口にする。私達も馬車を降り、円形に並べられた木箱の上に腰を下ろして携帯食を取り出していると、ノエミが馬車の荷台からバスケットを取り出し、私達の許へと運んで来た。
「…あの、シリル様。こんな所で何ですけど…お誕生日、おめでとうございます」
「「「…えっ!?」」」
思いも寄らぬ言葉に坊ちゃんを含め全員が驚きの声を上げる中、ノエミが気恥ずかしそうにバスケットを開く。中には些か形の崩れたスイートポテトが幾つも並び、所々焦げ目が付きながらも飴色に輝いていた。皆の注目を一身に浴びたノエミが恐縮し、申し訳なさそうに答える。
「…す、すみません…野営が続いたものですから、こんな物しかご用意できなくて…」
「…いや、とんでもない。まさか此処で祝ってもらえるとは思っていなかったから、とても嬉しいよ。有難くいただこう」
坊ちゃんが日頃目にした事のない柔らかな笑みを浮かべ、ノエミに手を伸ばした。まるでノエミをエスコートするように差し出された掌にスイートポテトが置かれ、坊ちゃんが躊躇いなく口に運んで、頬を綻ばせる。
「…うん、美味い。野営地では最高の御馳走だ。ありがとう、ノエミ」
「と、とんでもございません、シリル様…」
坊ちゃんの掛け値なしの賞賛に、ノエミが顔を真っ赤にして俯き、ボソボソと答える。そんな微笑ましい二人のやり取りを呆然と眺めていた私は、我に返ると慌てて周囲に視線を漂わせた。
「…あ…」
「「「…」」」
フランシーヌ様、ハヤテ様、シズクさん。三者の視線が私へと注がれ、私は青くなる。三人の視線は決して非難めいたものではなく、むしろ気遣わし気な様子を見せていたが、坊ちゃんの誕生日をすっかり失念していた私はその空気に気づかず、三人から非難されているような錯覚を覚え、息を呑んだ。場の空気が変わった事に気づいた坊ちゃんが視線を転じ、私と交差する。
「っ!?」
碧氷の光が私の心臓を貫き、胸を切り開いて心の内を暴き立てた。何もかも見透かすような冷たい氷の輝きに中てられ、耐え切れなくなった私の口から謝罪の言葉が漏れる。
「も、申し訳ありません、坊ちゃん…っ!?」
「…リュシー?」
「リュシーさん?」
「…」
謝罪の言葉と共に「禁句」を口にしてしまった私は、慌てて口元を押さえて顔を背け、身を固くした。主の誕生日を忘れてしまった失態と、主の言い付けを破った失態。立て続けの失態に青ざめる心とは裏腹に、「お仕置き」を期待して身体がゾクゾクと震え、鼓動が早くなる。動揺を隠せなくなった私は口元を押さえ、昂った気持ちを必死に鎮めながら立ち上がった。
「…申し訳ありません、少し、一人にさせて下さい」
「あ、あぁ…」
身を翻した私は足早に馬車へと乗り込み、車内の隅にへばりつくように身体を寄せ、蹲った。期待のあまり心臓が激しく脈打ち、緩く開いた口から舌が顔を覗かせ、「お仕置き」を求めて宙を漂う。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
…あぁ、私はもう駄目だ…。
***
その後、私は俯き口を噤んだまま馬車に揺られ、やがて一行は小規模な街に辿り着いた。街には幾つかの宿屋が点在し、王命と共にばら撒かれた金貨が民家の門戸を開き、一行は全員とまではいかないものの、多くの騎士達が久しぶりに屋内での夜を迎える事ができた。私達は街で一番立派な宿屋へと通され、私はフランシーヌ様やハヤテ様と別れた後、坊ちゃんの部屋に足を踏み入れた。
「リュシー」
「…はい」
私が部屋に入ると、坊ちゃんがベッドに腰を下ろしたまま、自分の隣を叩いた。私が隣に腰を下ろすと、坊ちゃんは少しの間逡巡した後、ベッドに腰掛けたまま自分の膝に両手をつき、頭を下げる。
「…悪かった」
「…え?」
突然の謝罪に、私は目を瞬かせた。坊ちゃんが頭を上げ、並んで腰掛ける私に顔を向け、言葉を続ける。
「お前が何を思い悩んでいるのか全く見当がつかないが、苦しんでいる事に違いはない。俺の安易な命令がお前を苦しめている以上、全ての非は俺にある。すまなかった。あの命令は撤回する。これからは、好きなだけ『坊ちゃん』と呼んで構わない」
「…違うんです…貴方のせいじゃないんです…私の勇気が足りなかったから…」
謝罪の言葉を聞いた私は目を伏せ、膝の上に置かれた自分の手に向かってポツポツと語り出した。消え入りそうな声で話す私の横顔を、坊ちゃんが心配そうな顔で見つめる。
「坊ちゃん」と呼べず、「シリル様」とも呼ばない。「貴方」という中途半端な言葉が、揺れ動く私の心を存分に表す。
――― 「ラシュレーの女」で居続けるためには、覚悟が足りなかった。
――― 「主人のオンナ」になるためには、勇気が足りなかった。
どっちつかずとなった私の心を、坊ちゃんの命令が揺さぶり、「お仕置き」という名の淫靡な力で押し流した。私はどちらの立場も手放せないまま、次々と押し寄せる情事に溺れ、歓びに塗れる。
そうして私の心の中で二つの立場が歪に融合し、背徳的な形で姿を現わす。
「…でも、もう、好いんです。私は、もう、知ってしまったから…」
「…リュシー?」
私は目を閉じ、歪んでしまった自分を受け入れた。名を呼ばれて振り返った私は、目の前で輝きを放つ碧氷の瞳に優しく微笑む。
私は、知ってしまった。背徳の歓びを、禁断の歓びを、知ってしまった。
だから私は、これからも侍女として彼に仕える。従順な侍女として彼の傍らに立ち、絶えず魔性の言葉で彼を嗾け、彼の獣性の矛先を従順な侍女へと仕向ける。
「――― 坊ちゃん」
今までと同じはずの言葉が、背徳的な韻を含んで二人の間を漂った。忠節を尽くすべき相手に欲情し、その欲情を滲ませる、不貞の言葉。私は身を乗り出して彼に両手を伸ばし、首の後ろでしっかりと指を組み合わせながら、同じ言葉を繰り返す。
「――― 坊ちゃん」
年若い少年を誘惑し、年上の女性との淫らな関係へと引きずり込む、不純の言葉。私は腰を浮かして右足をベッドの上に乗せると、彼の腰に絡め、そのまま後ろ向きに倒れ込んだ。ベッドに仰向けになり、自分の上に彼を招き入れると、ベッドに両手をついて見下ろす彼に微笑み、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「――― 坊ちゃん」
己の主人を唆し、無抵抗の侍女に劣情を抱かせて主従の絆を踏みにじらせる、不義の言葉。私はお仕着せのワンピースと同じ地味な色の押し花をベッドの上に描き、己の主人の首に両手を回し、潤んだ目を向ける。
「…坊ちゃん…坊ちゃん…坊ちゃん…」
「…リュシー…」
背徳に塗れた私の一言々々が彼の劣情を掻き立て、才気に溢れる若き為政者を、目先の快楽しか考えない凡庸な少年へと退化させる。そして、彼に残っていた最後の理性を官能的な言葉で断ち切り、少年を花園へと誘った。
「…好きにして好いんですよ………私は、坊ちゃんだけの、ものだから」
「リュシー!」
「あぁっ!坊ちゃん!坊ちゃん!」
軛から解き放たれた少年は脇目も振らず花園へと分け入り、咲き乱れる花を欲望のままに踏み散らした。留まる所を知らない少年の情熱に、私は歓喜の声を上げ、彼を抱く手に力を籠めてその全てを受け入れる。
花園を荒らす少年の悪事はいつまでも終わりを見せず、従順な侍女は主人の無体に繰り返し悲鳴を上げ、抵抗する事もできず身を捩り続けた。




