84:変質(1)
「坊ちゃん、そんなに怒らないで下さいよ」
「別に怒ってなんかねぇよ」
壮行会が終わり、フランシーヌ様やハヤテ様と別れた私は、坊ちゃんと共に自室へと戻った。女官達にワインや果実水、おつまみを用意してもらった後退室を促し、部屋には坊ちゃんと二人だけが残される。私は深紅のスレンダーラインのドレスに身を包み、ワインをグラスに注ぎながら坊ちゃんを宥めた。
坊ちゃんはベッドに腰掛けた状態でそっぽを向き、口を尖らせたままブツブツと答える。その不貞腐れた表情は明らかに拗ねているとしか思えないものだったが、そのまま「拗ねている」と表現したら一層不機嫌になってしまう。私はワイングラスを片手に坊ちゃんの前に歩み寄ると体を屈め、ワイングラスを差し出しながら微笑んだ。
「坊ちゃん、安心して下さい。私は絶対に、坊ちゃんの傍を離れませんから」
「…」
坊ちゃんはそっぽを向いたまま私に横目を向け、グラスを受け取って口をつける。不機嫌そうな表情で横を向き、グラスを傾ける坊ちゃんの姿はむずがる子供と大差なく、私は思わず笑いを噛み殺す。すると、坊ちゃんが横を向いてグラスに口をつけたまま、私を横目でじろりと睨みつけた。
「シリル」
「…え?」
「いい加減、『坊ちゃん』はよせ。お前、俺とこういう関係になっても、『坊ちゃん』と呼び続けるつもりか?」
「…え、えっと、あの…」
ベッドに腰掛けたまま下から坊ちゃんに見つめられ、「こういう関係」を思い浮かべた私の顔が瞬く間に赤くなる。
5年間も溜め込んだ想いを一度に決壊させた坊ちゃんの行為はあまりにも激しく、全てが初めての私は毎日のように押し寄せる荒波に翻弄され、押し流されていた。その荒波を前に私はオンナとしての歓びを覚えつつも、突然の変化に戸惑いを覚え、これまでの関係に縋りつくかのように、坊ちゃんを「坊ちゃん」と呼び続けていた。私は豊かな胸の前で両手を組んで俯き、体の内側から繰り返し打ち鳴らされる鼓動を感じながら、真っ赤な顔でぼそぼそと呟く。
「…別に好いではないですか…坊ちゃんとの関係がどうであろうと、私にとっては『坊ちゃん』に変わりはないのですから…」
「リュシー」
「っ!?」
そう私が言葉を濁していると、突然坊ちゃんが私の名を呼んだ。碧氷の瞳で私の姿を捉え、決して逃すまいと離さぬまま、溜め込んできた思いの丈を綴る。
「…俺はもう、5年も我慢して来たんだ。これ以上、一秒たりとも我慢するつもりはない。リュシー、俺もお前の事をずっと『お前』呼ばわりしてきたが、もう意地を張るのは止める。だから、お前も意地を張るのは、よせ」
「あ、あの、坊ちゃん、そうではなくて…」
坊ちゃんが私の名を呼ぶ度に心臓が飛び跳ね、私は自身の体温が上がるのを感じながらしどろもどろで答えた。次第に険しさを増す坊ちゃんの視線が、私の鼓動を早める。
私は「ラシュレーの女」であり、ラシュレー家の役に立つ事に何よりも歓びを覚える女だ。その、臣下の鑑とも言える「ラシュレーの女」が、「坊ちゃんのオンナ」となった私に、繰り返し警告する。
――― その欲望は、臣下にあるまじき想いだ。「ラシュレーの女」は、主人に対しそんな望みを抱いてはならない。
公式の場などでの紹介を除けば、私は坊ちゃんを「シリル様」と呼んだ事がない。坊ちゃんはあくまで忠誠を捧げる対象であり、本来、対等に並び立つお人ではないのだから。
なのに、その坊ちゃんが繰り返し私を求め、オンナの歓びを覚えるにつれ、次第に私の臣下としての心が揺らいできた。これまで忠誠を尽くすべく仰ぎ見ていた相手が同じ目線まで下がり、飽くなき欲望が頭をもたげ、臣下としての一線を超えようとしている。
その、臣下としての最後の一線が、「坊ちゃん」だった。私が「坊ちゃん」と呼ぶのを止め、名前で呼んでしまったら、私はもう臣下には戻れない。只の一人のオンナとして、坊ちゃんを一人のオトコとしか見なくなってしまう。
…一介の家人が、主人と体を重ねただけで「主人のオンナ」を気取るなど、おこがましい。
「…リュシー」
眉間に深い縦皴を刻んで私を見つめていた坊ちゃんが、ベッドに腰掛けたままワイングラスを掲げ、己の腿を叩いた。その仕草を見た私は、顔を赤くしながら眉を顰める。
「坊ちゃん、またですか?まったく、もう。変なコトばっかり覚えちゃって…」
私は諦めにも似た溜息をつき、坊ちゃんのワイングラスを受け取ると、サイドテーブルの上に置いた。そして、己の身を彩る深紅のドレスの裾を手で摘まんで引き上げると、そのままベッドに乗り込む。ベッドに腰掛けている坊ちゃんの両足を跨いで膝立ちになり、指で摘まんでいたドレスを離すと、坊ちゃんの手が私の腰に回され、私達は向かい合わせで互いに見つめ合った。真下から見上げる坊ちゃんの鋭い碧氷の瞳が、まるで鷹の雛のような鋭さと甘えを併せ持った輝きを放つ。
私との初めての体験があまりにも強烈だったためか、坊ちゃんは毎回私に服を着せたまま、寝所に招くようになっていた。壮行会を華やかに彩っていた深紅のドレスが寝所の燭台の光を浴びて妖しい照り返しを放ち、坊ちゃんの整った指先が妖しい光を追ってドレスの上をなぞり、私の身体の線を確かめていく。私は坊ちゃんの肩に手を乗せて目を閉じ、膝立ちのまま、サテンの生地越しに感じられる指の感触に酔い痴れる。
「…んん、ん…」
「リュシー」
暗闇の中に居た私の名を呼ぶ声が聞こえ、私は薄っすらと目を開いた。狭く薄暗い視界の中に坊ちゃんの碧氷の力強い光が飛び込み、棘のある声が耳朶を揺らす。
「これ以上『坊ちゃん』呼ばわりするのなら、俺にも考えがある」
「…え?…考えって何ですか、坊ちゃん?」
雰囲気を乱す強い言葉に私は目を瞬かせ、坊ちゃんに尋ねる。
すると、いきなり坊ちゃんの右手が私の後頭部へと回り、そのまま勢い良く引き寄せられた私は、坊ちゃんに荒々しく唇を塞がれた。
「っ!?…坊、ちゃ…」
突然の激しい動きに私は目を見開き、前のめりになった体勢を戻そうとした。しかし、がっしりと後頭部を押さえ付けられた私は身動きが取れず、密着した唇を通じて坊ちゃんの侵入を許してしまう。坊ちゃんは唇を重ねたまま何度も頭を振り、その荒々しい欲求の前に私はあえなく屈し、すぐに坊ちゃんの求めに応えて舌を動かした。
「…あ…ぅん…んぁ…」
「…いいか、リュシー。今度『坊ちゃん』と呼んだら、その都度口を塞ぐ。無理矢理キスをされたくなければ、早いトコ俺の名を呼べ」
「…そ、んな…」
密着する唇の隙間から漏れ出る坊ちゃんの宣言に、私は口答えする間もなく、絶え間なく雪崩れ込む欲望の前に次第に息を乱し、身を任せる。
私は膝立ちで坊ちゃんと抱き合ったまま何度も頭を振り、やがてベッドの上に鮮やかな深紅の花を咲かせる事になった。
***
山羊の月の6日、リカルド陛下やヒルベルト様と最後の挨拶を済ませた私達は、予定通りメル・ベル・ヘスを発ち、帝国への帰途に就いた。この季節、雪に覆われ、天然の要害と化したラシュレー領への道は閉ざされており、私達は東西に伸びる魔王国を東進してラシュレー領の北を抜け、北部戦線を掠めるように帝国へと入り、帝都オストリアで冬を越す事になっていた。
メル・ベル・ヘスを出立してから1週間ほど経過した、山羊の月の14日。先導する魔王国軍に続いて街道を東へと進む、帝国軍の中央付近。
私は2頭立ての馬車に乗り、複数の騎馬に守られながら、じっと時が過ぎるのを待ち続けていた。
4人乗りの車内には坊ちゃんと私の二人しか乗っておらず、私達は一言も喋らないまま、並んで座っていた。私はお仕着せの地味なワンピースに身を包み、その上から防寒用の外套を羽織った姿で俯き、膝の上に手を置いてひたすら身を縮める。坊ちゃんは窓枠に肘をついて外の風景を眺め、車内には馬の蹄鉄の音と馬車の軋む音だけが繰り返される。私は下を向いて口を噤み、体の中で打ち鳴らされる激しい鼓動に耐え続けた。
ドクン、ドクン、ドクン…。
やがて、坊ちゃんが窓の外の風景を眺めながらポツリと呟く。
「…しりとりでもするか…」
「…えっ!?な、何ですか、藪から棒に!?」
突然の坊ちゃんの宣言に、私は真っ赤になった顔を勢い良く上げて問い質す。しかし、坊ちゃんは相変わらず目線を車外に向けたまま、一人で勝手にしりとりを始めた。
「ラシュレー」
「…あ、あの…?」
「ラシュレー」
「…レ…レ!?…レ、レ、レ、レオポルドっ!」
「お前、いきなり陛下を呼び捨てかよ…」
だって、あと「レ」って言ったら、レモンとレイモン様しか思い浮かばなかったんだもんっ!
「ドーナツ」
「つ、つ、つ、爪切りっ!」
「リュシー」
「はいっ!坊ちゃん、何でしょうっ!?」
しりとりの途中で名前を呼ばれ、私は反射的に答えた。その途端、坊ちゃんの右手が私の後頭部に回され、私は問答無用で唇を奪われる。酸素を求めて口を開いた私の中に、今日何度目かわからない生々しい劣情が容赦なく流れ込み、私の身体が待ち望んでいたかのように打ち震える。私は口から注ぎ込まれる劣情に意識を塗り潰され、更なる欲望を求めて舌を伸ばした。
「…っん、んぁ…はぁ…」
時間を忘れて貪っていた私の口から艶めかしい感触が失われ、私の舌が相手を求めて虚しく宙を漂う。否応なく掻き立てられた情欲が行き場を失い、私は喘ぐように呼吸を乱し、坊ちゃんに縋るような目を向けた。
「はっ、はっ、はっ、はっ…」
「…お前、ホント懲りないな。『リュシー』と来たら、『シリル』と返せばいいものを…。そんなに俺を名前で呼ぶのが嫌なのか?」
ち、違うのっ!今、貴方の名前を呼んだら、私、私…っ!
厳しい表情を浮かべる坊ちゃんの眉の先が少しだけ下がり、私は胸が締め付けられるような苦しさを覚え、外套の襟を握り締めた。連日注ぎ込まれる坊ちゃんの劣情が私の心を駆り立て、右手が坊ちゃんの温もりを求め、空中を彷徨う。
「…ん?何だ?」
私が苦しい胸の内を目で訴えていると、車窓を流れる風景が減速し、やがて馬車は何もない原野で完全に停止した。一人の騎士が馬車へと近づいて来る様子が見え、私は坊ちゃんから跳び退り、車内の反対側の壁にへばりつくようにして縮こまる。
「…何かあったのか?」
「いえ、バイソンの群れが街道を横切っていまして」
「あー、…こりゃ随分と大きな群れだな」
会話を聞き、私が反対側の車窓から顔を覗かせると、前方を南に横切るバイソンの群れが見えた。背後で坊ちゃんと騎士の会話が続く。
「どうします?蹴散らしましょうか?」
「いや、止めておこう。せっかく百鬼夜行との戦いから生還しておきながら、バイソンに蹴られて死んでは、ご家族に申し訳が立たない。やり過ごすまで休息を認める。全軍に伝えてくれ」
「はっ」
騎士の返事と共に、足音が一つ、馬車から遠ざかっていく。背後でタラップを踏む音が鳴り、車外に出た坊ちゃんの呼び声が聞こえて来た。
「リュシー、外に出ないか?少し体を伸ばした方が好いぞ?」
「だ、大丈夫ですっ!わ、私は中でお待ちしておりますのでっ!」
私は坊ちゃんに背中を向けたまま大声を上げ、再び身を縮めた。体の中で絶えず欲望が蠢き、吐く息が熱を帯びて、艶めかしい音を立てる。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
この地方は開拓が遅れており、住民が疎らで私達を収容できるような大きな街がない。今晩は野営が予定されている。
「…っ」
…今日の夜伽は、望めそうもない。




