80:男の意地
「…えっ!?」
ヒルベルト様の言葉の意味を理解した私は、硬直してその場に立ち尽くした。突然のプロポーズの言葉に脳が熱を帯び、ぐつぐつと茹だっていく。褐色の肌と銀髪の二色に彩られた秀麗眉目の顔が呆然とする私を見上げ、宝石にも似た輝きを放つ銀の眼差しが、私の目を捉えたまま放そうとしない。握り締められた右手指を通してヒルベルト様の体温が腕を伝って押し寄せ、手と目と脳を同時に占領された私の鼓動が次第に激しさを増す。三方から奇襲を受けた私は陥落寸前の城の主のように狼狽えながら、攻め手の真意を質した。
「…あ、あの、殿下、それはどういう…」
「言葉の通りです、リュシー殿。私は、あなたの事を愛している。どうか私の妻となってこの地に留まり、残りの人生を私と共に歩んで欲しい。そして私が即位した暁には王妃として私の傍らに立ち、私の治世を支えて欲しいのだ」
「そ、そんな…わ、私は平民出のしがない侍女で、ましてや魔族ですらありません。殿下がそのような事を申されても、魔族の皆さんが到底納得されるはずが…」
「私が説得する。…いや、すでに現国王は納得している」
「え?」
ヒルベルト様の言葉に私は驚き、傍らに立つリカルド陛下へと目を向けた。陛下の眼差しは慈しみに溢れており、ご子息の突然の発言に異議を挟む事もなく、穏やかな表情で頷きを返す。
「魔王国は一度、滅びかけた。そして、その国を滅亡の淵から救い出し、新たな未来を切り開いたのは、他の誰でもない、其方だ。そんな其方を、同族ではないの一言で爪弾きにするほど、魔族は狭量ではないのだよ。それに我が国は此度の厄災を踏まえ、今後帝国、獣王国両国とより密接な協力関係を推し進める方針を打ち出した。人族の其方を王太子妃に迎え入れる事は、その国是から見ても歓迎すべき事だ。だからどうか、種族の違いを気にせず、我が息子の願いを真剣に考えて欲しい」
「父の言う、国の思惑など、一切忘れて下さい。私は王太子ヒルベルトではなく、一人の男として、只々あなたが欲しい!あなたさえ居てくれれば、他には何も望まない!あなたが望むのであれば、この剣を捧げても構わない!リュシー殿、どうかこの私の愛を受け入れ…」
「――― それは認めない」
期待と興奮を抱きつつある会場に突然冷や水が浴びせられ、ヒルベルト様の言葉が遮られた。人々の心に芽生えた淡い期待を無残にも刈り取る冷たい言葉に、リカルド陛下とヒルベルト様が笑みを消し、私の背後へと目を向ける。私は、敵味方構わらず撒き散らされる冷え切った無形の槍を背中に感じ、期待と救いを求めて背後へと振り返った。
背後に佇む坊ちゃんが、私の許に向かって歩き出していた。全てを凍り付かせるほどの冷たい空気を周囲に漂わせ、視界に映る者全てが敵であるかのように厳しい目を向け、私の許へと真っ直ぐに進み出て来る。そのあまりの気迫に誰もが動きを止める中、坊ちゃんが私の左斜め後ろに立つ。
そして、未だ私の前で片膝をついているヒルベルト様を不遜にも見下ろすと、右手を私の右肩へと回して私を引き寄せ、己の身体できつく抱き止めながら、周囲に知らしめるように傲然と言い放った。
「この女は、俺のものだ。――― 殿下、あなたには絶対に渡さない」
「…シリル殿、突然の事に其方が驚かれるのも無理はない。だが帝国にとっては、自国の者が魔王国の王太子妃に抜擢されるという、これ以上ない慶事ではないか?三国停戦協定の相手国との関係がより強固となり、今後、彼女を通じ我々の意思決定に影響を及ぼす事さえもできるやも知れぬ。しかも、帝国から叙爵を受けているとは言え、其方は彼女を一介の侍女としか見ていない。その侍女でしかない彼女が三大国の王太子妃として迎え入れられると言う慶事とあらば、彼女の栄達を喜んで送り出すべきであり、それを阻む事は国にとっても彼女にとっても何の益にもならぬくらい、其方にも分かっているはずだ」
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
…ぼ、坊ちゃん!
背後からリカルド陛下の言葉が聞こえて来たが、私にはその意味を理解するだけの余裕がなかった。背中に回された右手によって私の身体は身動きが取れないほどがっちりと抱き込まれ、体の前半部が全て触れ合うほど、坊ちゃんと密着している。張りのある二つの大きな膨らみが坊ちゃんの引き締まった体によって押し潰され、接近した心臓が複数の生地を隔てた男性の肌に向かって、思いの丈を激しく奏でる。私は坊ちゃんに抱き止められたまま縋り付くように身を寄せ、坊ちゃんにこの想いが伝わるよう、坊ちゃんが私の願いを叶えてくれるよう、自分の胸を押し付けて己の心音を晒し、肌越しにメッセージを送り続けた。
「…陛下…」
ドクン、ドクン、ドクン…。
感情の籠らない、周囲を凍てつかせるほどの冷たい声に、私の心臓が艶めかしく脈打つ。
熱を帯びた臓器が、この冷たい掌に鷲掴まれる時を夢見て。鼓動が止まるほど荒々しい力で握り締められる日を、待ち侘びて。
私の心臓の想いに応えるかのように、冷え切った男の言葉が、張り詰めた会場に無遠慮に放たれる。
「…あなたは、国益に適うからと言って、二つ返事で自分の妻を相手に差し出すのですか?」
「無礼なっ!」
「貴様、陛下を愚弄するつもりかっ!?」
坊ちゃんっ!
周囲から次々と非難の声が上がる中、私は歓びと事態の悪化に身を震わせ、より一層坊ちゃんに擦り寄った。心臓を曝け出し、例え鼓動の一つさえも漏らさず送り届けるために、豊かな胸を坊ちゃんに強く押し付ける。
この敵意に満たされた空間の中で、私だけは坊ちゃんの言葉を信じ、坊ちゃんの味方であると、声なき音で訴えるために。
「…妻と申したが、其方とリュシー殿は、結婚はおろか、未だ只の主従関係ではないか。其方の指摘は、お門違いだと思うが?」
「婚姻の有無や、主従関係など、そんな形式的な表現などどうでもよろしい」
周囲が憤慨と敵意に満たされつつある中、リカルド陛下はそれでも冷静さを保ったまま、坊ちゃんの言葉に疑義を呈する。だが、坊ちゃんはリカルド陛下の未だ外交的儀礼を保った指摘を、一刀の下に切り捨てた。内心を押し隠し、為政者の仮面を被ったリカルド陛下と、内心を押し隠せず、明らかな憤りを見せるヒルベルト様に向かって、臆面もなく言い放つ。
「形式など、後から付いてくる対外的な手続きであって、当人達にとってはどうでも好い。当事者にとっては、相手がどう思っているかだけの問題だ。
…コイツは、俺のものだ。誰が何と言おうとも、もう5年も前から俺だけのものだ。コイツをどうこうできる権利は、あなた方はもとより、親父にもお袋にも存在しない。ただ一人、俺だけが持つ権利だと、5年も前にコイツと約束したんだ」
「坊ちゃん…」
それは、ただの暴論だった。理も根拠も配慮もない、ただの暴論だった。
だけど、その、理も力も体面も無視し、ただひたすら私だけを求める純粋で暴力的な欲求が、私の身体に火をくべた。ずっと待ち焦がれていた、5年前から何ら衰えを見せる事のない純真なまでの欲望が私の心臓を鷲掴み、煮え滾ったマグマが血流に乗って私の身体を支配する。
『――― リュシー・オランド!お前の名を賭け、宣誓しろ!一つ!俺と共に、必ず生きて帰れ!二つ!生きて帰ったら、お前は俺のものだ!お前は絶対に、俺から離れるな!』
「そんな一方的な宣言など、赦されるものではない!」
私が、凍てついた怒りを湛える坊ちゃんを少しでも暖めようと、燃え上がった身体を圧し当てていると、男の人の声が凍り付いた空気を引き裂いた。ヒルベルト様は銀色の瞳に怒りを湛え、坊ちゃんの碧氷の瞳を睨みつけて、糾弾の声を上げる。
「あなたは、リュシー殿を『もの』扱いするのかっ!?一人の女性としての幸せを願うのではなく、まるで己の欲望の捌け口のように、『もの』扱いするのかっ!?」
「ああ、そうだ。ヒルベルト殿、この女は全て俺のものだ。この身体も、心も、未来も、全て俺のものだ。他の誰にも、絶対に渡さない」
「認めないっ!そんな事は、断じて認められないっ!」
坊ちゃんの一方的な宣言に、ヒルベルト様が声を荒げた。胸ポケットに納められていた白い手袋を取り出すと、坊ちゃんへと勢い良く投げつける。白い手袋は緩い放物線を描いて宙を舞い、坊ちゃんの左肩に当たって左腕を伝って床へと落ちる。
「シリル殿!私はあなたに、決闘を申し込むっ!」




