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8:百合と狼

 帝国有数の軍事力を有し、西方の安寧を一手に担うラシュレー公爵家の領都、サン=スクレーヌ。その中央に佇む壮麗な建物の一室で、一人の若い男が執務席に座り、黙々とペンを走らせていた。


 男は未だ18歳であるにも関わらず、その瞳に湛えた光は理知的で力強い。時折書類を宙に掲げ、空いた手で髪を掻き上げながら眉を顰める仕草は、その難しい表情には不釣り合いなほど艶めいており、中央の御令嬢達がその姿を見ようものなら黄色い声を上げて軒並み卒倒するだろう。だが、男にとって御令嬢達の歓声など、煩わしい以外の何ものでもなかった。


「ふぅ…」


 やがて全ての書類に目を通し終えた男は眉間の皴を指で揉みほぐしながら席を立ち、部屋の中央に置かれたソファへと向かう。ソファには一人の女が腰を下ろし、柔らかな背もたれに深く身を沈め、静かに寝息を立てていた。


「すぅ、すぅ…」


 男の洗練された装いとは異なり、女は地味なお仕着せのワンピースに身を包み、腰には白のエプロンを結わえている。どう贔屓目に見ても女は客人とは思えず、侍女にしか見えない身なりをしていたが、この部屋の主人でもある男に遠慮する事なく、ソファの上で無防備な寝顔を晒している。その顔は薄っすらと赤みを帯びて寝苦しそうで、時折彼女は目を閉じたまま眉を顰め、襟元を左手で掴んで広げ、体に溜まった熱を逃がそうとしていた。


「…」


 男は彼女の向かいのソファに腰を下ろすと、正面で寝そべっている女の様子を窺う。その視線の動きは、白く細い首に絡みつく漆黒のチョーカーを経て、大きくはだけた胸元から顔を覗かせる、瑞々しく高低差の激しい豊かな山谷へと収斂した。


「…はぁあぁぁぁぁぁぁぁ…」


 突然、男ががっくりと首を垂れた。暫く項垂れていた男は、少しすると右掌で己の顔を掴み、右手で持ち上げるようにして頭を上げる。男は左右の頬に親指と小指を添えて顔を鷲掴んだまま、指の隙間から高低差の激しい山谷を睨みつけ、苦々しく毒づいた。


「…クソが。人の気も知らないで、呑気に寝やがって。こっちがどれだけ我慢しているか、知っているのか?」

「…ん?…ぅ、うぅん…」


 男の問いに女が顔を歪め、左手を自分の胸元へと持っていくと、息苦しさから逃れるようにボタンを一つ外す。左手が力尽きたようにソファへと落ちた後には、山谷から伸びた深い切れ込みが美しい弧を描き、悩ましい陰影を浮かび上がらせながら衣装の内側へと潜り込んでいた。男は目を見開き、美しい曲線を目に焼き付けた後、右手を顔に貼り付かせたまま、再びがっくりと項垂れる。下を向いた男の顔は怒りとは異なる感情で真っ赤になっており、彼は体の中で荒れ狂いともすれば今にも噴き出しかねない劣情をひたすら歯を食いしばって耐え、絨毯を凝視し続けた。




 ***


 リュシー・オランドという存在は、当初、シリル・ド・ラシュレーにとって特別な意味を持っていなかった。12歳を迎え、これから少しずつ自立していく彼の供回りとして父オーギュストが就けてくれた、10人の騎士・騎士見習いのうちの一人。ベージュの髪をボーイッシュに切り揃え、ヘーゼルの瞳を持つ、4歳年上の女性。細身で背が高く、大きく張り出した胸とは不釣り合いなほど凛とした佇まいが特徴で、目鼻立ちは整っているものの華やかさに欠けており、麗人かと問われると首を傾げる者も居るだろう。10人の中で最も若く、多少小言が多い点を除けばシリルと年が近く話も合い、彼女とはまるで姉弟のようにやんややんや言いながらも、関係は悪くなかった。ラシュレー家に対する忠誠心も高く、将来自分が父の後を継いだ時、部隊の一つを安心して任せられるくらいは信頼できるのではないか。幼い頃の彼は、そう漠然と考えていた。


 その考えが大きく変わったのは、あの敗戦がきっかけだった。




 4年前のあの日、彼は敗北と挫折を味わった。状態異常に掛かった彼は恐怖に心を蝕まれ、使命も部下もプライドも捨て、その場から逃げ出した。雨の降りしきる森の中を、何処に向かっているのかも分からないまま、ただひたすら泣いて走り続けた。そうして彼は、リュシー・オランドを除く全てを、森の中で失った。


 ただ一人、彼の許に残った彼女は、忠実な騎士として彼の生還のために心を砕いた。自身も深い傷を負いながら己を顧みることなく、何度も挫けそうになる彼を励まし、希望の火を灯し続けた。彼女の容態は深刻でもはや戦力にならず、足手纏いでしかなかったが、そんな彼女の存在がむしろ彼の生存本能を駆り立てた。彼一人だったら、その場で全てを諦め、力尽きていたかも知れない。自分の死が彼女の死に直結する以上、彼は死ぬわけにはいかなかった。


 そうして彼がリュシーと二人で初めて迎えた夜、人生を変える瞬間が訪れた。




 ***


 その瞬間、彼は身を蝕む寒さを忘れ、大樹の下に咲く()()()()に魅入っていた。


 彼の視線の先で、()は、ベージュの髪を大樹に預け、仰向けのまま身を横たえていた。その上半身に纏っていたシャツはボタンが全て外れ、まるで白い花びらのように鮮やかに左右へと広がる。黒のレギンスに覆われた両脚は優美にしなり、花を支える花柄のように長く伸びる。そして遮るものがなくなり、剥き出しとなった上半身は、その細身に不釣り合いなほど大きく張りのある二つの膨らみが月光を浴びて白く輝き、蜂蝶(ほうちょう)を誘惑し引き寄せる雌しべのように、彼の視線を掴んだまま放そうとしなかった。


 月明かりの下で手折られ、大樹に手向けられた()()()()()()花びら(左手)を広げ、熱を帯びて頬を染めながら、彼に微笑む。


『…さ、坊ちゃん、来て下さい…暖かいですよ…』


 その誘惑に、彼は抗えなかった。抗おうともしなかった。


 彼は、白百合に誘われるまま雌しべに縋りついた。その二つの膨らみの合間に顔を埋め、赤子のように母の体温を求める。雌しべは燃えるように熱く、彼の凍え切った体を瞬く前に溶かし、彼の心に二つの火を灯す。生への執着と…性への執着に。


 彼は、白百合に魅了された。だが、その白百合はすでに手折られ、傷つき、間もなく枯れようとしていた。




 二日目の夜、彼は雌しべに縋りついて泣き叫んだ。自分を置いて行くなと。死んではならないと。だが白百合は、彼の心をこれほどまで奮い立たせ、駆り立てながら、無情にも突き放した。


『…私の命を踏みにじって…一人で無様に生き延びて下さい…それが、ラシュレー家の跡取りに課せられた…責務です…』


 ふざけるな!彼は怒り狂った。


 この俺を、帝国の屋台骨を支える公爵家の嫡男たるこの俺をここまで(たぎ)らせ掻き乱しておきながら、高貴な(ノブレス・)る義務(オブリージュ)で拘束し、一人で勝手に冥府へと旅立とうとしている。生と性に餓える俺を檻に閉じ込め、目の前で鮮やかに咲き乱れて散々挑発しておきながら、一滴の蜜も与えることなく、その花を冥王へと献上しようとしている。


 …渡さない。この花は、誰にも渡さない。この花を手折ろうとする者は、例え皇帝だろうと冥王だろうと、赦さない。




 ――― この花の蜜を吸えるのは、俺だけだ。




『リュシー・オランド!お前の名を賭け、宣誓しろ!一つ!俺と共に、必ず生きて帰れ!二つ!生きて帰ったら、()()()()()()()()!お前は絶対に、俺から離れるな!』


 こうして白百合に二つの誓いを立てさせた彼は、二つの執着を食らい、変貌を遂げた。


 将来を嘱望される貴公子から、花壇に咲く一輪の白百合に何人たりとも近づかせまいと牙を剥く、猛々しい雄狼へと。


 ――― だがその狼は、4年経った今も、未だ白百合の蜜にありつけていない。




 ***


 部屋の扉が控えめにノックされ、シリルは顔を上げた。彼はソファから腰を上げると入口へと向かい、取っ手を掴んで扉を少しだけ開ける。シリルが己の体で扉の隙間を塞ぐように立ちはだかると、其処には一人の年若いメイドが佇んでいた。メイドは眉間に皴を寄せ威圧的に立ちはだかるシリルを見て顔を強張らせていたが、シリルは構う事なく彼女に尋ねた。


「…ジョエル、何の用だ?」


 ジョエルと呼ばれたメイドは、シリルの顔色を窺いながら手紙を取り出し、恐る恐る手渡す。


「…旦那様よりお預かりしました。シリル様に、と」

「…」


 シリルはジョエルから手紙を受け取ると、その場で封を開いて中身に目を通す。手紙はベルナール・ド・ボードレール伯爵からのもので、3日後に息女サビーナを伴いご挨拶に伺いたいという内容だった。ボードレール家とは先代から一部の軍事物資の取引があり、ベルナールはたびたびサビーナを伴い、ラシュレー家を訪れている。訪問の理由は様々だが、シリルの伴侶としてサビーナを売り込みに来ている事は明らかだった。


「…わかった。ジョエル、下がれ」


 やがて読み終えたシリルは手紙を折り畳むと、不機嫌そうにジョエルへと返す。部屋にも入れて貰えず、門前払いに近い形で手紙を受け取ったジョエルは、両手で手紙を握りしめたまま、意を決して口を開いた。


「…シリル様、一つ、よろしいでしょうか」

「何だ?」


 ジョエルに背を向け扉を閉めようとしていたシリルは、背後から投げ掛けられた言葉に動きを止め、振り返る。ジョエルはシリルの眉間に刻まれた深い皴から目を離すと、室内に居るであろう人物を扉越しに睨みつけながら断言した。


「シリル様、僭越ながら申し上げます。あのような者をお傍に置いては、シリル様の名声に傷がつきます。彼女はシリル様のご厚意をいい事に、侍女の責務を全うできない事を恥じようともせず、ラシュレー家のために働こうともしません。旦那様やシリル様の、彼女の身上に対する並々ならぬご配慮にはこのジョエルも感激するばかりでございますが、物事には限度と言うものがございます。これ以上のご配慮は彼女のためになるどころか、きっとラシュレー家の災いとなるでしょう。シリル様、此処はどうか心を鬼にして、ご決断いただきますよう、このジョエルからのたってのお願いでございます」

「…」


 諫言を終えたジョエルが深々と頭を下げる姿を前に、シリルは扉の隙間に立ち塞がったまま、傲然と見下ろしている。やがてジョエルが頭を上げると、シリルは彼女に背を向け、扉を閉めながら言い放った。


「…話はわかった。だが、この件はお前には関係のない事だ。下がれ」

「…っ…失礼します」


 ジョエルが悔しそうに顔を顰め、もう一度深く頭を下げる姿を無視し、シリルが扉を閉める。ジョエルが再び頭を上げると、其処には硬い樫の木で作られた重厚な扉が、全てを拒絶するように立ちはだかっていた。




 ***


 ジョエルを追い返したシリルは部屋に戻ると再びソファに腰を下ろし、向かいで寝息を立てるリュシーの、大きくはだけた襟の間に描かれた悩ましい陰影へと目を向ける。あの日から4年が経過したが、その間、シリルはあの膨らみを手にする事ができていない。


 それは全て、帝国有数の公爵家の嫡男である彼が持つ、頑なまでのプライドが邪魔をしたせいだった。




 シリルは、帝国の西方の安寧を一手に担う、ラシュレー家の跡継ぎだ。帝室に次ぐ権勢を誇り、中央でも一二を争う美丈夫へと成長した彼が望めば、上は公爵令嬢から下は宮中の小間使いまで、根こそぎ連れ帰って来る事ができよう。


 その彼が4年前、全てのプライドをかなぐり捨て、一世一代の告白をしたのにも関わらず、


『――― あぁあ、あのですね、あの時耳鳴りが酷くって…特に後半が、聞き取れなかったんですよ…』


 よりにもよって、聞いていなかった!しかもその上、


『――― だから、教えて下さい。坊ちゃんはあの時、私に何を求めたんですか?』


 もう一度、この俺に言えと?ラシュレー家の嫡男たるこの俺が、平民出の女に、もう一度言えと?


「…言えるわけ、ねぇだろうが。クソ」


 彼はテーブル越しにそびえる二つの膨らみを睨みつけたまま、苦々し気に呟く。


 結局、彼は自らのプライドに阻まれ、目の前に好物をぶら下げたまま、4年もの間お預けを食らっていたのだった。




「…ぅ…ん…」


 彼の呟きが大きかったせいか、向かいで眠るリュシーが眉を顰め、身じろぎをした。彼女は目を閉じたまま、苦しそうに悶える。


「…ん…坊ちゃん…駄目…」

「…え?」


 寝言で自分を呼ばれ、目を見開いたシリルの視線の先で、リュシーは左手で襟を引き千切る勢いで胸元をはだけさせ、喘ぐように熱の籠もった息を吐く。


「…やだ…坊ちゃん、いきなり生でだなんて、そんな…」

「…なっ!?なっ!?」


 尋常ではない言葉の羅列に、シリルの顔が瞬く間に真っ赤になる。慌ててソファから身を浮かし手を伸ばそうとするシリルを尻目に、リュシーが自分の首を左手で押さえて仰け反り、喉に詰まった物を吐き出そうと空中に向かって声を張り上げた。


「…お願い、坊ちゃん!これ以上は、もう止めて!」

「おい!?お前、一体何の夢を見ているんだっ!?」




「――― だから私は、昔からピーマンだけは駄目だって、言ってるじゃないですかぁっ!」




 ***


「…はっ!?」


 私は襲い掛かる恐怖から必死に逃れようと、勢いよく身を起こした。見開いた私の目に飛び込んできたのは、この4年間、毎日のように目にする、マホガニー材のソファテーブル。私はソファに腰を下ろしたまま前のめりになり、艶やかな橙色のテーブルを見つめながら、荒れた呼吸を必死に整えた。


「…はぁ、はぁ、はぁ…夢…か…」


 やがて私は額に左手を当て、項垂れるように呟く。まったく、何て酷い夢だ。坊ちゃんが、私の苦手なピーマンを、生のまま幾つも口の中に押し込んで来るだなんて。私は大きな溜息をつくと、額に幾つも浮かび上がった汗を拭い、顔を上げた。


「…坊ちゃん?」

「…」


 坊ちゃんがテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろし、私を見つめていた。その眼光は厳しく、抑え切れない感情が噴き出ているかのように威圧的で、私の体を捉えて離さない。私が坊ちゃんの視線を辿るように下を向くと、大きくはだけた胸元と膝上まで捲れ上がったスカートが現れた。私は慌ててスカートを整え、胸元を手で隠して身を縮めると、噴火直前の火山のように黙り込む坊ちゃんに恐る恐る尋ねた。


「…まさか、坊ちゃんともあろう御方がそのような事をなさるはずはないと固く信じておりますが…




 …よもやこの私に、ピーマン食べさせるおつもりじゃ、ありません?」

「おうよ。リュシー・オランド、命令だ。夕食で出されたピーマン、一つ残らず綺麗に喰えよ?」

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