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72:右往左往の末

「…ぅぐ…」


 見たくもない光景から顔を背け、目を瞑っていた私は、誰かの呻き声を耳にして恐る恐る顔を上げた。




 顔を上げた私の視線の先に、フランシーヌ様が立ち尽くしていた。その眉目の整った顔は恐怖のあまり蒼白となり、体はまるで彫像のように強張って先ほどから一歩も動いていなかったが、それでもその美しい姿態に惨たらしい傷や鮮血は一切見当たらず、自身の足でしっかりと大地を踏みしめ、その場に立ち尽くしていた。


 彼女の目の前には体長3メルドにも及ぶ巨大な鎧竜が居て、今まさにフランシーヌ様を貫こうと頭部から伸びる鋭い三本の角を突き出していたが、フランシーヌ様と鎧竜の間には厚さ1メルドもある巨大な氷の壁が立ちはだかり、三本の角に深々と貫かれながら、それ以上の突進を阻んでいる。


 そして、背丈が2メルドにも及ぶコンゴウの体は、氷壁との衝突によって鎧竜から投げ出されて宙を舞い、上下逆さまの体勢で氷壁に背中を打ち付け、磔になっていた。コンゴウが自重によって氷壁から滑り落ちながら、疑問の声を上げる。


「…な、何でこんな所に氷壁が…?」

「…あ、坊ちゃんの…」


 コンゴウの疑問の言葉に、私はリアンジュで誕生日プレゼントとして贈った魔法付与装身具(アーティファクト)の存在を思い出す。氷壁を滑り落ち、鎧竜の二本の角の間に頭を突っ込んだコンゴウは、身を捻って脱出を図りながら、悪態をついた。


「クソっ、これが人族の魔法付与装身具(アーティファクト)ってヤツかっ!…おわっ!?」


 脱出に成功し、鎧竜の頭に跨ったコンゴウが顔を上げると、氷壁の表面に浮かび上がった魔法陣から二本の氷槍が現れ、下方へと照準を合わせる。コンゴウが慌てて飛び退くと同時に氷槍が射出され、氷壁に囚われて身動きの取れない鎧竜の体を易々と貫いた。コンゴウが怒りで顔を歪め、氷壁の脇を回り込んで、立ち竦んだままのフランシーヌ様に手を伸ばす。


「畜生っ!こうなったら、お前を人質にしてでも…!」

「きゃあぁぁっ!」

「フランシーヌ様っ!」


 私は手に持っていたナイフを投げ捨て、フランシーヌ様の許に走り出した。ハヤテ様が先行しているが、二人共フランシーヌ様を救出するには、到底間に合わない。




 ――― キン。




 硬質の音と共に、フランシーヌ様を捕えようと伸ばしたコンゴウの手が、何もない空間によって遮られた。コンゴウの指先に水色の波紋が広がり、空中に幾重もの同心円を描く。同心円の合間に幾何学模様の魔法陣が顔を覗かせ、瞬く間に氷の(つた)となって、コンゴウの腕に絡みつく。


「ぐっ!?何だ、こりゃぁ!」


 驚いたコンゴウが腕を振り払って氷の侵食から逃れようとするが、魔法陣から放たれた雷撃が氷の蔦を伝い、コンゴウに襲い掛かる。雷撃は指先を伝って全身を駆け抜け、そのあまりの痛みにコンゴウが悲鳴を上げた。


「ぎゃああぁぁぁっ!」


 私は、雷撃の衝撃から逃れるように後退し、たたらを踏むコンゴウの左側へと躍り出た。すかさず右足を繰り出して、コンゴウの左膝裏を蹴り抜く。同じタイミングで反対側に飛び込んだハヤテ様がコンゴウの右足を刈り取り、両足を前後に蹴り飛ばされたコンゴウの身長が急激に縮む。真下に沈むコンゴウの頭部目掛け、私とハヤテ様が同時に右足を振り上げる。


 ゴゴッ!


「っごぉ!?…ぉぉぉ…」


 後頭部に私の右ハイ。鼻の下、人体の急所でもある人中に、ハヤテ様の右ハイ。前後から同時に叩き込まれた二発の蹴りに挟まれ、コンゴウの体が一瞬宙吊りになる。私達が同時に蹴り足を引くと、コンゴウは白目を剥いて泡を噴きながら、前のめりに崩れ落ちた。ハヤテ様が、蹲るように倒れているコンゴウを見下ろし、侮蔑の言葉を吐く。


「ちっ、己の力量も弁えない、恥知らずが。…悪いな、アンタ。ウチのが迷惑かけて」

「いえ。ご助力感謝いたします、殿下。フランシーヌ様、お怪我は…っ!?殿下っ!避けてっ!」

「え?…うわっ!?」


 私はハヤテ様の陳謝に頭を下げ、フランシーヌ様へと目を向けようとしたが、氷壁の魔法陣から現れた氷槍が此方を向いている事に気づいて、急いで退避する。慌てて飛び退いたハヤテ様の元居た場所にも氷槍が突き刺さり、私達二人は次々に射出される氷槍から逃げ回りながら、大声でフランシーヌ様に頼み込んだ。


「フランシーヌ様、止めて!魔法付与装身具(アーティファクト)を止めてっ!」

「え?…あ、はいっ!」


 目の前で走り回る私達を呆然と眺めていたフランシーヌ様が我に返り、慌てて後頭部に手を回す。フランシーヌ様が自身の頭部を煌びやかに彩るヘアチェーンの大玉に触れると、氷壁の二つの魔法陣が消失した。やっとの事で命懸けの鬼ごっこを終えた私達は、息を整えながら周囲を見渡す。


 闘技場は全壊と言って差し支えないほど崩壊していたが、反乱軍は無事に鎮圧され、全員討ち取られるか捕縛されていた。闘技場の向こう側の喧騒も一段落しており、すでに戦いが終結している様子が窺える。観客席では、レイピアを鞘に納めている旦那様の許にオウガ様が近づき、頭を下げていた。


「いやぁ、オーギュスト、スマン!まさか此処まで頭数を揃えていたとは、思わんかったわ。国許(くにもと)に戻ってからの後始末が、大変だわい」

「大丈夫なのかい、本国は?」

「信頼できる腹心に軍を託してあるから、大丈夫だろう。ま、それでも早急に帰国して、事態の収拾を図らないとな」


 私が観客席にいる旦那様達の様子を眺めていると、背後から土を踏む音が聞こえて来た。私はさり気なく時計回りに闘技場を見渡し、靴音に背中を向け続ける。靴音は私が南西に目を向けたところで止み、背後から聞こえる男の人の声が、私の鼓動を早めた。


「フランシーヌ様、恐ろしい目に遭わせてしまって、申し訳ありません。お怪我はありませんか?」

「えぇ、大丈夫です、シリル様。いただいた魔法付与装身具(アーティファクト)のおかげで、助かりました。ありがとうございました」

「使わずに済むに越した事はありませんが、役に立って良かったです。…ハヤテ殿、我が国の聖女の窮地を救っていただき、感謝の言葉もありません。当主オーギュストに代わり、御礼申し上げます」

「とんでもない、シリル殿。我が国の不届き者がこのような愚行を仕出かし、お詫びのしようもない。この件については、獣王オウガからも改めて謝罪させていただこう」


 背中から漂う男の声が、一言々々耳に届くたびに、私の心に薪をくべていく。大量の薪をくべられた私の心は激しく燃え上がり、私の顔が瞬く間に熱くなった。秋も深まった秤の月にも関わらず、南西の方角を見つめたまま一人のぼせている私に、男の人の声が投げ掛けられる。


「…リュシー」




「っ!?はいぃぃぃぃっ!」


 背後から投げ掛けられた言葉に私は飛び上がり、南西の方角を向いたまま背筋を伸ばした。胸元で両手を組み、左右の腕に挟まれて押し出された張りのある二つの膨らみの中で、溶鉱炉と化した心臓が激しく脈打ち、灼熱の液体を全身に送り込む。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。


「ああああ、あのですね、坊ちゃん」


 両腕を組んだまま南西の方角に向かって高らかに歌い上げるように言い淀んでいると、背後から両肩を掴まれ、私は硬直した。抵抗する間もなく私の体が180度回転し、眉間に皴を寄せ、仏頂面で見下ろす坊ちゃんの顔が、目の前に現れる。


「あ、あの、坊ちゃん…」

「…」


 私は目の前で不機嫌そうな表情の浮かべる坊ちゃんに見惚れたまま、真っ赤な顔で舌を動かし、すぐにもつれた。都合の良い言い訳は思い浮かばず、さり気ない話題転換も見つからない。こうして黙って見つめられている間にも次々と自分の心の内が暴かれているように思え、心臓の勢いがなおも激しさを増し、羞恥のあまり顔から湯気が立ち昇る。それでも坊ちゃんの顔に釘付けとなったまま私が硬直していると、坊ちゃんが両手を掲げ、私に向かってゆっくりと手を伸ばした。握り拳を形作ると、私の左右のこめかみに圧し当てられる。


 …ぐりぐりぐり。


「…あ痛たたたたたたっ!?」

「…おぉまぁえぇぇぇぇぇ。まぁた一人で勘違いして、突っ走っただろぉぉぉぉ。この、ポンコツがっ!」

「痛い痛い痛い!すみません、坊ちゃん、勘弁して下さい!」


 両のこめかみから発せられる激痛の前に体の火照りが吹き飛び、私は涙目で坊ちゃんに懇願する。途端こめかみを圧迫していた拳の感触が消え、今度は背中から新たな圧力を受けて私の体が否応なく前へと押し出された。私は背後の力に流されて前へと進み出て、すぐに引き締まった男の人の体にぶつかって停止する。背後からの圧力はなおも加わり、私は目の前の男の人に体を圧し当てたまま、身動きが取れなくなった。


「…え?」


 こめかみの痛みで急低下した心音が、突然の状況の変化についていけず、停止する。やがて、前面に圧し当てられた男性の肌から伝わる鼓動が私の心臓を動かし、男性の鼓動に応えようと、次第に大きな音を奏で始めた。


「…悪かったな、心配させて。ありがとうな、心配してくれて」

「…坊ちゃん…」


 …トクン、トクン、トクン…。


 私の心臓が、想いを奏でる。密着した体を通して、相手の心臓に訴えようと、声高に拍動を繰り返す。私は坊ちゃんに抱き締められたまま心臓を通して自分の想いを伝えながら、言葉で臣下の体裁を繕った。


「…いえ、私は坊ちゃんの侍女ですから、お気になさらず」

「そうか」


 坊ちゃんの背中に手は回さない。私は坊ちゃんの「もの」だから。「もの」は、自ら望んではいけないから。代わりに私は張りのある大きな二つの膨らみを前方に圧し当て、背中からの圧力を後押しする。少しでも坊ちゃんの欲望が満たされるように。これが坊ちゃんの「もの」であると、知らしめるために。


 私は坊ちゃんの望むままに身を任せ、倒壊した闘技場の片隅で暫くの間佇んでいた。




 その後、私達は翌日まで、戦いの後処理に追われた。


 コンゴウをはじめとする反乱軍の生き残りは全員捕縛され、オウガ様に引き渡された。首謀者達はオウガ様の帰国と共に獣王国の都に護送された後、処刑される事になる。コトが帝国にも及んだため、帝都から派遣された特使の一部が獣王国へと同行し、その処刑を見届ける事になった。並行して、帝国と獣王国の兵士達は死者を埋葬し、焼損した闘技場の後片付けを行う。


 そうして2日が経過し、遅れていた魔王国の一行が三国会合の会場へと姿を現わした。




 ***


「陛下、閣下、初めてお目に掛かります。私は魔王国の第二王子、名はヒルベルトと申します。此度は三国会合の場に遅参し、誠に申し訳ございません」

「「…」」


 3日遅れで到着した魔王国の代表の姿を目にした旦那様とオウガ様は、暫くの間互いに顔を見合わせ、沈黙した。やがてオウガ様の暗黙の了解を経て、旦那様が口を開く。


「殿下、初めまして。帝国の代表であります、オーギュスト・ド・ラシュレーです。失礼ながら、例年、この会合には国王のリカルド陛下がお越しになられておりましたが、何か変事がございましたか?」

「はい」


 旦那様の問いにヒルベルト様は頷き、悔しそうに唇を噛む。やがてヒルベルト様は顔を上げ、悲痛な表情を浮かべ、旦那様とオウガ様に訴えた。




「――― 百鬼夜行(ハロウィン)の攻勢の前に我が国の聖女が全滅し、王太子が討たれました。我が国は三国停戦協定に基づき、帝国と獣王国の両国に救援を要請します」

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