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70:決着

 ――― 呑まれた。




 ハヤテは闘技場の真ん中で仁王立ちし右正拳を突き出したまま、驚愕の面持ちで硬直していた。先ほどまでの高揚感は一瞬で吹き飛び、代わりに体に霜が降りたような怖気が全身を覆い尽くす。突き出した拳を引き戻す事ができず、大地を踏みしめる両足も凍り付き、一歩も動かせない。


 強張った体に、自分が小さな蛙で、口を開けた大蛇の舌の上に乗っていると痛感させられるような、絶対的な恐怖が纏わりつく。


「リュシーっ!?大丈夫かっ!?」

「リュシーさんっ!?」


 硬直するハヤテの視界に、正面の観客席から若い二人の男女が駆け下りる姿が映し出された。男は、木製の壁がひしゃげ、濛々と上がる土煙の中に躊躇いなく飛び込み、水色に輝くドームの傍らに膝をつく。淡いドームの輝きが消え、男が侍女の両肩を掴んで揺さぶる姿を、ハヤテは震えの止まらない右手をゆっくりと引きながら、呆然と眺めていた。




 ***


「リュシーっ!おいっ、しっかりしろ!?」

「…ぅ…」


 護身群に守られダメージこそ負っていないものの、急激な場面の変化についていけない私の耳に、切迫した男の人の声が飛び込む。顔を上げると、私の両肩を掴んだまま気遣わし気な表情を浮かべる坊ちゃんの姿が浮かび上がった。


「坊ちゃん…」

「おい、お前、大丈夫か?何処も怪我していないか?」

「え…」


 坊ちゃんの言葉に私は我に返り、辺りを見渡した。私は闘技場の木製の壁に背中を打ち付け、地面に両足を投げ出して座り込んでいた。木製の壁はひしゃげてくの字に折れ、辺りは濛々と土煙を上げており、その衝撃のほどが窺える。フランシーヌ様が坊ちゃんの背後から中腰で私を心配そうに見守り、闘技場の中央に女が佇んでいるのを認めた私は、全てを悟った。


 …負けた。


「お、おい?お前、大丈夫か?」

「…だ、大丈夫です。大丈夫ですから…」


 私は坊ちゃんに両肩を掴まれたまま両手で顔を覆い、顔色を隠した。坊ちゃんが投げ掛ける気遣いの言葉に曖昧に答えながら、焦燥に駆られ暴れ回る心音を必死に抑える。無駄だと分かっていながら頭の中に幾つもの誘惑が浮かび、私は心の中で泣きながら押し寄せる誘惑を振り払った。


 今更あの女を殺すわけにもいかない。坊ちゃんをこのまま何処かに連れ去る事も出来ない。


「…すみません、坊ちゃん。ご心配をおかけしまして…」

「大丈夫か?本当に。無理をするな」


 やがて何とか心を落ち着けた私は頭を下げ、坊ちゃんの手を借りて立ち上がった。坊ちゃんの手を離す事ができず、私は左手で坊ちゃんの手を掴んだまま俯き、右手で口元を押さえる。


「…坊ちゃん、申し訳ありません。負けてしまいました…」

「気にするな。これは只の親善仕合だ。勝ち負けなんかより、お前が無事でよかった」

「…いいえ、いいえっ!違うんですっ!」

「何?」


 坊ちゃんの慰めの言葉を聞き、私は右手で口元を押さえたまま、激しく頭を振った。頭上から疑問の声が降り注ぎ、私はゆっくりと顔を上げる。


 私の視界に、怪訝な表情を浮かべる坊ちゃんの顔が映し出された。その、生気に溢れる形の整った唇が、私の手が届くところにある。私は涙の滲む瞳で、目の前の、もう二度と届かないであろう唇を見つめ、触れ合わせたくなる欲望を必死に抑えながら、坊ちゃんの幸せを願って声を震わせた。


「…坊ちゃん………どうか、お幸せに…」




「…え?」

「おいっ!アンタっ!」


 私の餞別の言葉に坊ちゃんが目を見開いた直後、坊ちゃんを掻き分ける勢いでハヤテ様が割り込んだ。ハヤテ様は坊ちゃんを振り払うと私の両肩を掴み、激しく揺さぶって追及して来る。


「アンタっ!何で、最後の最後で手を抜いた!?あのままアレを放てば、アンタの勝ちだったはずだ!」


 ハヤテ様の、手心を加えられた事に対する武人としての矜持に、私は頭を下げる。私があの殺人光線を放つ事自体は、親善仕合のルール上は何の問題もない。王太女の弑逆を免れ、獣王国と帝国の破局は回避できたが、結果的にハヤテ様を侮辱した事は確かだ。私は同じ武人として非礼を詫び、ハヤテ様に後顧を託した。


「申し訳ありません、殿下。両国の関係悪化を避けるためにも、殿下にあの技を放つわけにはいきませんでした。

 いずれにせよ、この勝負、殿下の勝ちに変わりはありません。…どうか、我が主君、シリル様の事を、よろしくお願いします」




「…はぁ?――― だからアタシは、そんなつもりないって」




「…え?」


 思いも寄らない言葉に私が顔を上げると、ハヤテ様が背後へと振り返った。競技場の反対に並ぶ獣王国側の観客席に向かって勢い良く手を振りながら、目を爛々と輝かせて声を張り上げる。


「シズクっ!」

「ひっ!?ハヤテ様っ!?」


 ハヤテ様の雄叫びの如き大声に、観客席の隅にちょこんと座っていた兎耳の小間使いの()()が、慄くように背筋を伸ばした。ハヤテ様はビクビクしている少年に構う事なく、あけすけな言葉を次々と言い放つ。


「仕合に勝ったから、もう父上に憚る必要もない!シズク、お前はもう、アタシのオトコだ!今すぐ湯浴みをして、体の隅々まで綺麗にしておきなっ!今夜は寝かさないからなっ!」

「ひぃっ!?は、はいっ!」

「あ、あの、殿下…シリル様は…?」


 ブンブンと手を振って小間使いの少年を急かすハヤテ様に、私は恐る恐る尋ねる。私の質問にハヤテ様は手を止めて振り返ると、胡乱気な表情で言い返した。


「ぁん?――― それは、()()()()()()()()だよ」




「…は?」


 ハヤテ様の言葉に、私は目を瞬かせた。ハヤテ様は眉間に皴を寄せ、私の背後に連なる帝国側の観客席に目を向けながら答える。


「アタシが勝ったら、シズクを王配として認める。アタシが負けたら、父上が指名した男を王配として迎える。そう賭けていたんだ。父上が誰を指名したかったのかは、聞いていないけどさ」

「…え?」


 ハヤテ様の言葉が頭の中に染み込むにつれ、私の顔から血の気が引く。


 …え?じゃ、じゃぁ、もし私が勝っていたら、まさか…。


 青い顔で恐る恐る背後へと振り返ると、闘技場の反対側から押し掛けて来たオウガ様が旦那様の襟を掴み、詰め寄る声が聞こえて来る。


「オーギュストっ!貴様、一体何度我の邪魔をすれば、気が済むのだっ!?お前んトコのが勝てば、ハヤテに獅子族の男をあてがって守旧派を宥めるつもりだったのに、全部お釈迦じゃねぇかっ!」

「だからオウガ殿、勝手に貴国の未来を私に託さないでくれ」

「えっ?えっ?」


 …え?私が勝っても、坊ちゃんじゃないの?


 恐れていたのと異なる事実を突き付けられ、私は大いに混乱した。救いを求めて視線を彷徨わせると、扇子で口元を隠し、目を細めているマリアンヌ様と合う。


「…ゴメンねぇ、リュシー。シリルの事は、どうも根も葉もない噂だったみたい。噂を信じてあんなに必死に戦ってくれたあなたには、ホント申し訳ないわぁ」

「…」


 笑いを堪えるマリアンヌ様の告白に、私は硬直した。へっぴり腰で、マリアンヌ様に向けたままの顔が瞬く間に赤くなる。水揚げされた魚のように口をパクパクさせる私に、背後から坊ちゃんの声が投げ掛けられた。


「おい、お前、これは一体…?」

「ま、ままま待って、坊ちゃん!」


 背後へと振り返られなくなった私は、坊ちゃんに背を向けたまま闘技場の壁に頭を打ち付けた。沸騰する顔を両手で覆い、決して坊ちゃんに見せまいと身を縮めながら、情けない声で懇願する。


「…お、お願い…坊ちゃん、見ないで…」

「お、おい…」


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。


 両腕に挟まれ、押し出されるように張り出た大きな膨らみの中で、心臓が激しい音を奏でる。坊ちゃんと離れ離れにならずに済んだ安堵と、呼び覚まされた熱い想いと、痴態を曝け出した恥ずかしさが、頭の中をぐちゃぐちゃにする。闘技場の内外から上がる騒音が、私の醜態を嘲笑っているように聞こえ、羞恥のあまり顔を上げられない。


「…な、何だ、この騒ぎは?」

「何事だ?」


 観客席からどよめきが上がった直後、けたたましい音と共に木製の扉が破られ、得物を手にして騎乗した複数の男達が、闘技場へと乱入して来た。

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