68:女の意地
ノエミが淹れてくれたお茶を飲みながら私とフランシーヌ様が待っていると、旦那様達が会場から戻って来た。フランシーヌ様が立ち上がり、一行を出迎える。
「お帰りなさいませ、オーギュスト様。獣王国の皆様は、お変わりなく?」
「ええ、フランシーヌ様。最後まで気を許すわけにはいきませんが、今年も獣王国と事を構えずに済んで、まずは一安心です」
三国停戦協定はアンデッドに対する共同戦線の側面があり、そのため「孔」と国境を接している帝国と魔王国は利害が一致している一方、「孔」から遠く離れ直接戦う事のない獣王国は相対的にメリットが少ない。種族的にも武断的な傾向が強いので、獣王国の動向が三国停戦協定の最大の不安要素だった。
ただ、旦那様が仰るには、オウガ様は歴代の獣王の中では「弱者」に当たり、その分獅子族にしては珍しく、力一辺倒ではない狸のような強かさをお持ちの方なのだそうだ。帝国からすれば力を誇示する事なく利をもって話ができる相手であり、隣国の王としては有難い人物との評だった。旦那様が、決して本人の前では口にしないであろう言葉で、オウガ様を賞賛している。
「彼は夢に惑わされず現実を見据える事のできる、貴重な男です。前回の会合の時には随行員の7割が獅子族でしたが、今回は4割ほどに抑え、その分虎族を増やしていました。虎族の立太子に伴って、入れ替えを図っているのでしょう。身内の突き上げも激しいでしょうに、情に流されず初志を貫こうとする姿勢は、流石は獣王と言うべきでしょうね」
「それでは、この後は魔王国が到着するまで一旦待機でしょうか?」
フランシーヌ様の質問に、旦那様が苦笑する。
「いえ、其処は流石獣人族と言うべきか、暇だから我々だけでやれる事は先にやっちまえ、との事でした。獣王国との親善仕合は、明日行われます」
「そ、そうですか」
国王と言うより大工の親方みたいな発言に、流石のフランシーヌ様も思わず言い淀んでしまう。私は二人の会話を聞きながらマリアンヌ様の許へと近づき、浮かない表情の彼女に小声で尋ねた。
「…それで、マリアンヌ様。相手の要求が誰か、分かりましたか?」
「それが、キキョウ殿も言を左右にして教えてくれなかったのよ。でも、あの口ぶりからすると、どう見てもそうとしか思えない。先に名を明かすと、勝敗に関わらず国同士で話が進んでしまうから、黙っているだけだと思うわ…」
「そんな…」
言い募るうちに次第に表情を険しくするマリアンヌ様の姿に、私は思わず口元を手で押さえ、絶句してしまう。声の出なくなった私の目の前で、マリアンヌ様が厳しい表情を浮かべたまま顔を寄せ、呻くような低い声で囁いた。
「…リュシー、頼んだわよ?もう、あなただけが頼りなんだから」
「はい。お任せ下さい、マリアンヌ様」
「…お前、お袋と何ひそひそ話しているんだ?」
私がマリアンヌ様と顔を寄せ合って頷きを交わしていると、背後から坊ちゃんの呼ぶ声が聞こえた。私は弾かれるように振り返ると、背中で手を組みながら背筋を伸ばし、殊更明るい声で坊ちゃんに答える。
「いえ。明日の仕合について、マリアンヌ様から激励されていただけですよ?」
「そうか。悪いな、王太女なんて難しい人が相手で。怪我させるわけにもいかんから、無理してまで勝ちを拾いに行かなくても構わないからな」
「いえっ!そんな訳には参りませんからっ!」
「何でよ?…まさか、お前、また何か隠し事をしているのか?」
「そ、そういうわけじゃないですけど…」
坊ちゃんの勝敗に拘らない発言を聞き、私は反射的に強く否定してしまう。片眉を上げて疑念の声を上げた坊ちゃんの姿に、私は顔を向ける事ができず、思わず俯いた。
「賭け事」を知ったら、きっと坊ちゃんの事だ、自力で回避しようとして余計に話がややこしくなるだけだろう。そうマリアンヌ様に諭され、坊ちゃんにはこの件を伝えていなかった。そのもどかしさと後ろめたさが心に尾を引き、私は俯いたまま右手を伸ばし、思わず坊ちゃんの服を掴んでしまう。私は自分の仕出かした子供のような行為に驚き、羞恥で瞬く間に顔が赤くなる。下を向いたまま動けなくなった私に、坊ちゃんの戸惑いの声が降り注いだ。
「お、おい。お前、一体どうした?」
坊ちゃんの戸惑いの声が、私の心を揺り動かす。私は右手に力を籠め、服越しに自分の想いを伝えようと、俯いたまま言葉を絞り出した。
「…だ、大丈夫ですから…私、必ず勝ちますから…だから、坊ちゃん…安心して下さい…」
「…そうか。なら、任せた」
ぽん。
俯いたままの私の頭の上に掌が乗せられ、左右に揺れ動いた。私の右手に籠めた想いに坊ちゃんの信頼が加わり、頭の上に置かれた掌を通じて私へと戻される。その、頭上から伝わる温もりの前に、私の脳が次第に蕩けていく。私は頭の中に湧き上がった新たな熱源に酔いしれ、熱の籠もった声で坊ちゃんの信頼に小さく答えた。
「…はい」
***
翌日。陣中で軽い朝食を済ませた私達は再び会場へと赴き、親善仕合へと臨んだ。
三国会合が行われる予定の天幕の脇には、簡素な闘技場が設営されていた。闘技場は木造で、周囲は私の背丈ほどの高さの柵で円形に囲われており、柵の外側には帝国、獣王国、魔王国の三国に分けられて観客席が設けられている。私は旦那様やフランシーヌ様と共に帝国側の観客席に座り、私の前の仕合を観戦した。闘技場の中央では、帝国代表の騎士が鎧に身を包んで剣と盾を構え、獅子族の男と対峙している。獅子族の男は上半身に革鎧を着こんだだけの軽装で、得物の槍斧を振り回して、騎士を圧倒していた。
「オラァっ!」
「ぐっ!?」
騎士が腰を落とし、盾を傾けて槍斧の勢いを受け流しているはずなのに、衝突の度に盾が押し込まれ、騎士の体勢が崩れる。それでも騎士は果敢に獅子族の男の懐に飛び込み、剣を打ち込むが、麻布に覆われただけの男の腕に弾かれ、ダメージが通らない。その事実を目の当たりにして、私は改めて気功術の脅威を思い知らされた。
「ドラァっ!」
「ぐおぉぉっ!?」
体勢を崩され、捌く余裕のなくなった騎士の頭上に、槍斧が振り下ろされる。騎士は辛うじて盾を掲げ直撃を防いだが、力負けして地面へと叩き伏せられた。槍斧の刃が頭蓋を襲う寸前で旦那様が貸与した魔法付与装身具が発動し、騎士の命を救う。
「勝者、獣王国っ!」
「ウオオオオオォォッ!」
地面に両膝をついて悔し気に顔を歪ませる騎士を余所に、獅子族の男は槍斧を軽々と掲げ、勝利の雄叫びを上げる。そして獣王国の観客席へと駆け寄ると、観戦していた一人の年嵩の男に向けて拳を掲げ、声を張り上げた。
「老公っ!お約束通り、勝ちましたぞっ!これでツバキは俺のものだ!」
「うぬぬぬ…致し方あるまい。孫娘はお主にやろう」
「はぁぁぁぁ…、オウガ様のみならず、みんな賭けているんですか。お国柄なんですかねぇ…」
私は反対側の観客席で沸き起こった歓声に感心しながら、腰を上げた。隣に腰を下ろしている坊ちゃんへ目を向け、一言口にする。
「…それでは、坊ちゃん。行って来ます」
「ああ。気をつけてな」
「はい」
坊ちゃんの応えに私は一つ微笑むと身を翻し、観客席の脇に拵えた階段を下りる。闘技場を取り囲む柵の扉を開けて、前仕合の騎士と入れ替わる形で闘技場の中央へと進み出た。闘技場へと進み出た私の姿を見て、獣王国側の観客席からどよめきが上がる。反対側から闘技場へと進み出てきたハヤテ様も、私の出で立ちに厳しい視線を向けていた。
「…おい、オーギュストっ!その女の出で立ちは一体何だっ!?ふざけているのかっ!?」
「…なぁ、アンタ。アタシは帝国の身なりには疎いんだが…確かそれは、使用人が着る衣装じゃないかい?」
「ええ、ご推察の通りです、殿下」
背後でかなり立てるオウガ様を余所に、ハヤテ様が私の衣服を指差しながら尋ねる。私はいつものお仕着せのワンピースに身を包み、腰に白のエプロンを結わえた姿で造作もなく答えた。私の答えを聞いて表情を険しくするハヤテ様に、私は微笑んだ。
「…ご安心下さい、殿下。決して殿下を侮っているわけでは、ございません。これが私の制服でありますから…それよりも殿下、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だい?」
挨拶代わりに押し寄せる殺気を悠然とやり過ごした私を見て、ハヤテ様が表情を改めた。正面に噴き上がっていた怒りの炎が鎮まり、次第に張り詰めていく空気を肌で感じながら、私は静かに質問する。
「…もし、シリル様を伴侶に迎えるのならば、殿下は生涯ただ一人、シリル様だけに愛を捧げられますか?」
「…はぁ?――― ンな事、するわけないじゃん」
「…え?」
心に一つの区切りをつけようと私が尋ねた言葉に、ハヤテ様が吐き捨てるように答えた。鎮めようとしていた心に新たな漣が立ち、目を見開いた私の視界の先で、ハヤテ様が手を振って不承不承の態で答える。
「これでもアタシは獣王国の次代を担う、王太女なんだよ?次の世代に強い王を残すためにも、必要とあらば色々な子種を試さなければならない。まぁ、王太女の責務としてシリル殿を婿に迎えなければならないのであれば、その時はちゃんとヤルよ?あの風貌なら、アタシも十分イケるからね。だけど、アタシが本当に愛でたい相手は自分でちゃんと捕まえるから、余計な口出しはしないでおくれ」
「…そうですか。よく、分かりました…」
心の中に湧き立った漣がうねりとなり、やがて大きな渦を描き出した。渦は回転する槍のように心の奥底へと突き立ち、燻っていたマグマを飲み込んで表層へと巻き上げる。渦の中で攪拌されたマグマが心臓を灼熱の塊へと変え、私は抑えきれない憤りを息吹に湛え、静かに宣言する。
「殿下。…貴方に坊ちゃんは、渡さない」
――― その瞬間、私を中心にして闘技場に同心円状の風が吹き、張り詰めた空気に観客席が静まり返った。
「っ!?」
風を浴びた女が即座に意識を切り替え、拳を構えた。女が拳を体の前に掲げ、油断なく様子を窺う中、私はゆっくりと拳を上げ、構えを取る。右足を引いて腰を落とし、左腕を体の前に掲げて右拳を引き絞る。橙と銀の二色の流線形に彩られた無骨な籠手が、陽の光を浴びて輝きを放つ。
そうして私は、自分と同じく両腕に籠手を嵌めた女の姿を視界に捕えながら、傲然と言い放った。
「シリル・ド・ラシュレーが欲しければ、――― この私から奪ってみなさい」




