65:軍神の下で(2)
コンコン。
「はぁい、どちら様ですか?」
ガチャリ。
「来ちゃった」
「…いや、『来ちゃった』じゃないでしょ、フランシーヌ様っ!何でリアンジュで別れたはずの貴方が、此処に居るんですかっ!?」
ノックに応じて部屋の扉を開けた私は、白を基調としたローブに身を包んだ美しい女性の姿を目の当たりにして、思わず声を張り上げた。フランシーヌ様は手を後ろに回し、上目遣いで茶目っ気たっぷりに舌を出す。
「リュシーさんの事が気になっちゃって、つい」
「つい、じゃなくてっ!国内を巡業すると言う話は、何処に行ったんですか!?」
「あら、ちゃんと巡業するわよ?だから前回、訪問途中で中断したサン=スクレーヌから再開しようと、わざわざ此処まで出向いたんじゃない」
「だったら、私と一緒にオストリア経由で行けばいいじゃないですかっ!そもそも、今日フランシーヌ様がお越しになられるだなんて、私聞いてないですよっ!?」
フランシーヌ様は帝国に僅か二人しかいない聖女なのだから、その訪問は大々的に報じられ、訪問先の有力者が仰々しく出迎えるのが通例だ。去年フランシーヌ様がサン=スクレーヌを訪れた時はその情報が私にも伝わり、旦那様や坊ちゃんと共に館の前に並び、出迎えている。なのに今回は私、一言も聞いていないんだけど。私の追及にフランシーヌ様は胸元で両手を合わせ、眩しい笑顔であっけらかんと答えた。
「リュシーさんをビックリさせたくて、オーギュスト様に伏せておいてってお願いしたら、快く応じて下さったわ。それに帝都って、メンドクサイじゃない?陛下とか」
この人、本当ぉぉぉぉぉにっ、猫だなっ!
側妃のくせにメンドクサイの一言で陛下を放置し、途中にあるオストリアを無視してサン=スクレーヌに直行とか、自由奔放にもほどがある。
そしてフランシーヌ様のお願いに快く応じ、結果家人の誰にも伝えていないであろう旦那様とマリアンヌ様の悪ノリも、大概に過ぎる。廊下の向こうから聞こえてくる、執事さん達の狼狽ぶりが惨い。
「聖女様がお屋敷の何処かにいらっしゃるそうだっ!お探ししろっ!」
「わぁ、凄く綺麗じゃない、リュシーさんの部屋!どうしたの、コレ?」
周囲の混乱を余所に、フランシーヌ様が私の肩越しに部屋を覗き込み、驚きの声を上げた。開き直った私は部屋の奥を掌で指し示し、フランシーヌ様を招き入れる。
「どうぞお入り下さい、フランシーヌ様。リアンジュでの功績として、旦那様からいただきました」
「今や押しも押されもせぬ子爵夫人だもんね、リュシーさん。それにしても、流石ラシュレー公ね。こんな素敵なお部屋を、ポンとあげちゃうだなんて」
部屋の中に足を踏み入れたフランシーヌ様は手を後ろで組んだまま部屋を見回し、調度品の質の良さに感嘆している。私はテーブルに置かれた水差しを手に取り、グラスにハーブティを注ぎながら、ドレッサーの鏡を覗き込んでいるフランシーヌ様に尋ねた。
「今回はどのくらい、ラシュレーにいらっしゃるんですか?」
「うーん、1ヶ月は居るんじゃないかな。オーギュスト様から、三国会合にも同行してくれって頼まれたから」
「へ?」
***
「…だって、親善仕合で万が一死者が出たら、国際問題に発展しかねないだろう?回復に特化したフランシーヌ様が同行されるのであれば、その心配をしないで済むからね」
「あぁ、それもそうですね」
旦那様がレイピアを振って感触を確かめながら答え、私は籠手を腕に嵌めながら得心した。闘技場の枠外では、坊ちゃんとフランシーヌ様が仲良く並んで座り、私達を眺めている。旦那様と私は互いに準備を終えると、距離を置いて対峙する。
「…では、始めようか」
「はい。お願いします」
旦那様が右手で持ったレイピアを体の前で真上に向け、私は姿勢を正して一礼する。レイピアの切っ先が私の眉間を指し、私は体の前に両手を掲げ、二つの拳の向こうに居る旦那様の姿を捉えた。
「…フゥッ!」
私は地面を蹴り、旦那様目掛けて一直線に突進した。レイピアの切っ先が揺らぎ、私に向かって三筋の流星が襲い掛かる。顔面に二発、左肩に一発。私は右腕を上げて顔の正面で手首を振り、二筋の流星を弾きながら体を捻って左肩の一発を躱す。右甲への打撃で突進の鈍った私の右足目掛け、流星が二筋。私は右足を引いて躱すが流星は幻となって消え、代わりに軸足となった左足目掛けて一発。左手を下ろして弾き返そうとするも、またも幻。左手を下げ、前屈みでがら空きとなった顔面目掛けて、流星が襲い掛かる。
「くっ!」
右手の割り込みが辛うじて間に合い、籠手に三度の衝撃が走った。私は堪らず後退し、態勢を立て直そうとするも、すかさず旦那様が詰め寄り、続けざまに刺突を繰り出して来る。無数の流星を捌いているうちに上半身が仰け反り、置いてきぼりとなった両足に流星が襲い掛かる。
――― キンキン。
「足が止まっているよ?」
「はいっ!」
硬質の音と共に、水色の波紋が下半身に広がる。私は後退して首元のチョーカーに手を伸ばし、護身群の発動を止める。一つ大きく息を吐いて意識を切り替えると、地面を蹴り、再び旦那様目掛け突進した。
***
――― キン。
「…くっ!」
旦那様に側面を晒した私は左腕を上げて顔への攻撃を弾いたが、横っ腹への攻撃をまともに受け、護身群によって守られた。後退してチョーカーに手を伸ばす私に、旦那様がレイピアを指揮棒のように振りながら厳しい評価を下す。
「…四回目。一昨日よりもよく凌いでいる。だが、それだけだ。まだ一度も、私を崩せていないよ?」
「はぁ、はぁ…」
息が乱れ始めた私に対し、旦那様は涼しい顔を浮かべている。旦那様の仰られる通り、私は未だに「弾幕」を掻い潜れていない。それはつまり戦いの主導権が旦那様にある事を意味し、私が旦那様の裏をかけてない事になる。次第に焦りを募らせる私に、旦那様が決定的な一言を告げた。
「…リュシー、君の拳は『温い』。私を舐めているのかね?――― 私を殺すつもりで、掛かって来なさい」
「っ!?」
挑発とも言える旦那様の言葉に私は衝撃を受け、恥ずかしくなった。振り返れば、私は一昨日、旦那様に何度も「殺された」。顔面に何度もレイピアを叩き込まれ、眼球を抉られる恐怖を幾度も味わった。心臓をレイピアに貫かれるような錯覚に呼吸が止まり、胸が締め付けられた。だから私は旦那様に「殺され」たくなくて何度も身を捩り、レイピアから逃れ、そして追い詰められて討ち取られた。
なのに、私は旦那様を一度も殺そうとは思わなかった。如何に旦那様の攻撃を掻い潜るか、旦那様の隙を突くかに腐心し、一度も殺そうとは思わなかった。
そのぬるま湯のような甘い気持ちが拳を鈍らせ、私をナマクラにする。
「はぁ、はぁ、はぁ………フゥゥゥゥ…」
私は目を閉じて呼吸を整え、意識を切り替えた。丹田に力を籠め、気を練り上げる。体の中で闘気が渦巻き、ナニかが頭をもたげる。獣にも似た感情が呼び覚まされ、再び開いた目がレイピアを手にする男の姿を捉えた。
…アレが、私の前に立ち塞がる、敵。私の欲望を邪魔立てする者は、誰であろうと、―――
――― コロス。
「…ぬぅっ!?」
周囲の空気が一瞬にして凍り付き、男が眦を上げ、レイピアを構えた。凄まじい殺気が無数の槍と化して私に襲い掛かるが、私は口の端を吊り上げ、そよ風を顔に受けるように涼し気な表情で分け入る。
そうだよ。喰われたくないから、戦うよねぇ。近寄って欲しくないから、威嚇するよねぇ。心地良いよねぇ、この空気。
――― さぁ、殺ろうか。
「っ!?」
不敵な笑みを浮かべていた私が突如真顔で突進するのを見て、男が目を瞠る。次の瞬間、男は身を捩り、私の視線から逃れた。
――― 喰った。
私の顔目掛け、三筋の流星が押し寄せる。私は左腕を上げて籠手で二発弾き、指の間をすり抜けた三発目を、首を曲げて躱す。左手を捻って首筋の脇を横切る剣の腹に親指を引っ掛け、剣の戻りを邪魔しながら男へと詰め寄り、右拳を振りかぶる。喰らいつくのは、身を捩った事でがら空きとなった、男の脇腹。
――― キン、キン。
男と私の体が交差し、二人の間で硬質の音が二度奏でられる。
一つは、男の左脇腹に叩き込まれた、私の右拳。もう一つは、私の左脇腹に突き刺さった、男の右拳。互いに同じ場所に水色の波紋が広がり、相手の拳の侵入を堰き止める。
「…見事」
私の左手に残っていたレイピアが零れ落ち、地面に転がった。男は右手を伸ばして私の腰を抱き寄せると、己の襟元を飾るカメオと私の首元に絡みつく漆黒のチョーカーに左手を伸ばし、互いの護身群の発動を止める。旦那様はそのまま顔を寄せ、まるでダンスを終えて反り返った私にプロポーズするかのように、甘い笑顔で囁いた。
「『こじ開けた』な、リュシー。凄まじい気迫に、流石の私も抗えなかった。隙が無ければ、作れば好い。それを常に忘れるでは、ないぞ?」
「…あ、あの、旦那様…それよりも…」
私はダンスを終えて反り返った体勢のまま、上から覆い被さるようにして至近に迫る甘いマスクに見惚れ、顔を赤らめた。腰に回された旦那様の手の温もりが私の体の芯を溶かし、腰砕けにする。闘気が霧散し、骨抜きにされて崩れ落ちる私を旦那様が右腕一本で支え、細く引き締まったご自身の体で抱き留めた。
「おっと。…リュシー、大丈夫かい?頂が見えて、気が緩んだのかい?しっかりしなさい」
「え、えぇと、その、旦那様、あの…」
旦那様に抱き留められた私は、されるままに身を任せ、体の前面から伝わる旦那様の感触に酔いしれた。かつての想いが呼び覚まされて心臓が激しく脈打ち、密着する肌を通じて相手に鼓動を伝えようと、伸縮を繰り返す。私は旦那様から注ぎ込まれる父親の愛を存分に受け入れ、熱に浮かされながら心の中で弁解を繰り返した。
ぼ、坊ちゃん、落ち着いてっ!?不可抗力ですからっ!これ以上何も起きないから、大丈夫ですってっ!
私は目先の誘惑に囚われ、背後から押し寄せる冷気に謝罪しながら、旦那様に縋りついた。