64:軍神の下で(1)
私はお仕着せのワンピースに身を包み、腰に白のエプロンを結わえたいつもの姿で、闘技場に佇んでいた。
橙と銀の二色で流線形に彩られた無骨な籠手を両腕に嵌めて体の前に掲げ、如何なる攻撃にも対処できるよう身を固める。拳の向こうに見える旦那様は、打撃に対応した小ぶりの籠手を両手に嵌め、レイピアを構えたまま、のんびりと私を待ち受けていた。斜め上に向けられたレイピアの切っ先がリズミカルに小さな円を描き、私を挑発する。
「…来ないのか?なら、此方から行くぞ?」
「っ!?」
旦那様の声が私の体に硬直を与え、その一瞬を突いて旦那様が突入して来た。日頃穏やかなダークブルーの瞳が絶命の輝きを放つ。後を追って襲い掛かる銀色の流星から逃れようと、私は左足で地面を蹴り、右に飛んだ。
だが、先ほどまで私が居た空間に流星は一筋も見えず、横に跳んだ私に向かって、三筋の流星が襲い掛かる。
また、ブラフ。
「くっ!」
私は身を捩って右腕を振りかぶり、襲い掛かる流星を薙ぎ払おうと掌底を放った。私の掌底が三筋の流星を捕らえたかに見えたが、掌を擦る金属の音は一つ。しかも柳の枝を押したように掌からするりと逃れ、掌底が空を切る。勢いを殺し切れず、体が回転して旦那様に背中を見せる形になった私は強引に体を丸め、右足ですぐさま地面を蹴ると前方へと身を投げ出し、無我夢中で旦那様の剣域から逃れる。
「…まだまだだな、リュシー。虚実の区別ができていない」
「はぁ、はぁ、はぁ…」
地面の上を転がり、埃だらけで荒い息をつく私とは対照的に、旦那様はレイピアを悠然と構えたまま、切っ先でゆっくりと円を描いている。その仕草の至る所に隙が生まれるが、私にはどれが本当の隙か、区別がつかない。
…強い!これが、「軍神」オーギュスト・ド・ラシュレー!
流星の如き刺突もさることながら、虚実を織り交ぜて相手を翻弄し、自ら動かずして相手を疲弊させ、一瞬の隙を突いて討ち取る。その真髄を目の当たりにした私は、必死に呼吸を整え、乱れた精神に喝を入れて立ち上がる。
「…いいかね、リュシー。獣人族が扱う気功術は、非常に厄介な技だ。アレを身に纏うと、例え素手であっても剣は弾かれ、魔法もなかなか通じない」
――― キン。
「くぅぅっ!?」
話のさなかに放たれた、予兆のない一閃が私の眉間に襲い掛かり、硬質の音と共に弾き返された。私は手遅れと知っていながら体の反射に抗えず、仰け反りながら首元を飾るチョーカーを手に取って、護身群の発動を止める。何気ない一撃一撃が神経を削り、体に余計な緊張を加え、呼吸を乱れさせる。
「…だが、気功も万能ではない。アレは、非常に精神の集中を必要とする。彼らも気功を全身に張り巡らせたまま戦い続ける事はできない。攻撃の要となる箇所、防御すべき箇所、その都度要所要所に気功を張って強化しているのだ」
「くっ!」
再び眉間に襲い掛かって来た流星を、私は首を捻って避ける。しかし頭のあった場所に流星は流れず、首の傾いた私目掛けて三筋の流星が押し寄せる。私は急いで左腕を掲げ、籠手でその攻撃を弾いた。一度後退して距離を取り、左方向に駆け出す私を、旦那様は目で追いながら語り続けた。
「だから我々は、その戦術を打ち崩して攻略する事になる。不要な箇所に気功を張らせ、その隙に無防備な箇所を突く。不用意に気功を使わせて集中力を削り、迷いと誤断を生み出す。そうして少しずつ少しずつ殻を剥がし、一気に仕留めるのだ」
旦那様を中心に左回りで円を描いていた私は、一瞬右に転じて旦那様の目をやり過ごすと、一気に懐へと飛び込んだ。戻って来た旦那様の視線を見てすぐさま左へと跳び、右拳を引き絞ったところで、顔面に三筋の輝きが叩き込まれる。
――― キンキンキン。
「っあぁぁ!?」
「駄目だよ、リュシー。撃たれるか分からないからって、勘で逃げるようでは。ちゃんと相手に撃たせてから逃れないと」
「はぁ、はぁ、はぁ…」
眼球を抉られたような錯覚を覚え、私は両腕を交差し必死に顔を守りながら後退した。チョーカーに手を回して護身群の発動を止めると、そのまま両膝に手を置いて崩れ落ちそうになる体を支え、肩で息を繰り返す。身を起こして両腕を構えようとしても、先ほどの死の恐怖に囚われ、手の震えが止まらない。私が震える両手を見て自分の不甲斐なさに唇を噛んでいると、旦那様がレイピアを鞘に納めながら宣言した。
「…十六回。初日は、まぁ、こんな所だろう。これ以上続けたら、心が折れてしまう。明日までゆっくりと休んで、明後日もう一度やろう」
「はぁ、はぁ、はぁ…。は、はい。旦那様、ありがとうございました…」
悄然とした面持ちで頭を下げ、そのまま地面に向かって歯を食いしばっていると、視界の正面に旦那様の爪先が見えた。肩に手が置かれ、顔を上げると、旦那様が父親の歓びを湛え微笑んでいる。肩に置かれた掌が顔に流れ、頬を愛おしそうに撫でる。
「…5年前と比べて、見違えるほど強くなった。あと、もう少しだ」
「…ぁ…ありがとうございます…」
11年前のあの日、初めて旦那様とお会いした時の面影と重なり、かつての憧憬が呼び覚まされる。あの時は憂いを含んだ寂しそうな顔で。今は父親の歓びに溢れた笑顔で。二種類の表情が11年前に抱いた想いを呼び起こし、私の鼓動を早めた。
「それでは、失礼します」
旦那様から離れ、もう一度立位で一礼した私は、振り返って旦那様に背を向ける。闘技場の枠外に出ると、質素な椅子に腰を下ろして見物している坊ちゃんの許に近づいた。椅子に腰掛けたまま革袋から水を出し、タオルを濡らしている坊ちゃんの前に佇むと、俯きがちに答える。
「…お待たせしました、坊ちゃん」
「…親父に手酷くやられたな」
「はい」
下を向く私の視界の中で、坊ちゃんが濡れたタオルを絞っている。やがて坊ちゃんは立ち上がり、手に持ったタオルを両手で持って広げると、私の頭に被せた。私の体のあちこちを叩いて土埃を落とし、濡れたタオルで拭っていく。
「…叩いたくらいでは落ちんな、これは。一度部屋に戻って、着替えて来い」
「…はい」
私は唇を噛んで己の不甲斐なさを反省しながら、不愛想な表情で甲斐甲斐しく私の土埃を落とす坊ちゃんに身を任せ、布越しに伝わる坊ちゃんの気遣いを心ゆくまで味わった。まるで主従が逆転したとしか思えない、私だけの特権。私が、坊ちゃんの「もの」である事の、証。
私は、転んで立ち上がった子供が泣くのを我慢するように仁王立ちし、目の前でしゃがんでスカートの埃を叩く坊ちゃんに答える。
「…やっぱり、旦那様はお強いですね…」
「ああ」
「…でも、必ず勝ちますから…」
「ああ」
でないと、坊ちゃんが居なくなっちゃうから。
私は埃に塗れ、仁王立ちで俯いたまま、スカートを叩くたびに目の前で揺れ動く橙の髪に向かって、静かに宣言した。
部屋に戻った私は、軽く水浴びをして体の汚れを落とした後、ベッドへと寝っ転がった。仰向けになり、背中全体を包む心地良い感触を堪能しながら空中に右掌を翳し、下から手の甲を眺める。手の震えは既に治まり、力と戦意が少しずつ籠められていくのが感じられる。私は、自分が挫折を覚えず、再び戦いに臨もうとする気概を持てる事に安堵しながら、先ほどの仕合を振り返った。
先ほどの仕合で、私は旦那様のブラフに翻弄された。視線、そして僅かな筋肉や重心の動き。旦那様はそれらの動きを組み合わせ、殺気を乗せる事で、あたかも次の攻撃が其処に放たれるという錯覚を私に与え、回避を強要した。一瞬の迷いが生死を分かつ戦いにおいて、躊躇は死を意味する。私達は五感を駆使して状況を肌で感じ、頭で考える事なく反射的に次の行動を取る。だから、その反射を揺さぶれば相手を翻弄でき、そして翻弄する事で相手の反射に対する信頼を揺さぶり、致命的なミスを誘う事ができる。旦那様の「軍神」たる所以は、突き詰めればその一点に集約される。
だが、それを覆すのは至難と言える。自分の反射に手を加える事は、これまで培ってきた自らの戦闘経験の放棄に繋がり、自殺行為でしかない。旦那様のブラフを見極める事も、無意味だ。旦那様のブラフの基点とも言える筋肉と重心の動きは、実際の攻撃の初動と同じだ。だから、相手がブラフと思って高を括るのであれば、そのまま攻撃を放って終わり。流石の旦那様も本攻撃とブラフの瞬時の切り替えは無理だが、相手の動きを見てすぐに修正して来る。旦那様はブラフが肩透かしに終わっても構わないが、此方は読みを外せないのだから、此処で張り合っても仕方ない。
そして、レイピアと言う刺突に特化した旦那様の得物が、この戦法に恐ろしく適している。
剣やハルバードなど、振り回しを前提とする得物は予備動作が大きく、攻撃方向の違いで大きく変わる。一方レイピアによる刺突は予備動作が小さく、射角以外はほぼ同じ。つまり、ブラフと本攻撃で動作を切り替える必要がない。だから、ブラフで相手を突き崩した直後にすかさず本命の攻撃が襲い掛かるというわけだ。
この戦法を打ち崩すには、「発射台」を破壊するしかない。
ハルバードや魔法など、射程がレイピアより長い得物であれば、射程外から攻撃を続け、旦那様に回避を強要する。一方、私の様な近接職であれば、旦那様の懐に飛び込み、自分のペースに持ち込む必要がある。
…いずれにせよ、虚実の入り混じった、あの「弾幕」を掻い潜らなければならない。
「…掻い潜ってみせる」
天井へと向けた手の甲が翻り、硬く握り締められた。




