63:宣戦布告
…何か、1年間サン=スクレーヌを留守にしているうちに、自分の部屋が無くなってた。
「…あ、あの、マリアンヌ様。これは一体、どういう…」
マリアンヌ様に連れられて新たな部屋を訪れた私は、扉を開けた途端、その場に立ち尽くした。
マリアンヌ様に案内された部屋は、これまで自分が暮らしていた部屋の数倍の広さがあった。私のお給金では到底手が届かない、木目の美しい高価な家具が計算し尽くされた間合いで綺麗に配置され、部屋全体がまるで風景画のような、美しくも落ち着きのある空間を作り出している。その見事な調和の中に、明らかに場違いとしか思えない質素な私の私物が点在し、周囲の雰囲気から爪弾きされたかのように悪目立ちしていた。
部屋の入り口で呆然と立ち尽くしている私の許に背後からマリアンヌ様が近づき、顔を寄せて耳元で囁く。
「あら。だって、子爵夫人ともあろう御方を、あの様な粗末な部屋にお泊めするわけには、いかないじゃない。リュシー、あなたの部屋は今日から此処よ?」
「あ、あの、マリアンヌ様、これは幾ら何でも…」
「そんな事言ってないで、ほら、入った入った」
「えっと、あの、その」
マリアンヌ様に背中から押しやられる形で部屋へと入った私は、都会に出て来たおのぼりさんのように、キョロキョロと辺りを見渡した。以前、右肩の傷が疼いて寝込んだ時に使用していた部屋は子爵男爵向けの客室だと記憶しているが、この部屋はそれよりも明らかに格式が上で、おそらく伯爵向け、もしかしたら侯爵向けかも知れない。どう見ても自分のお給金では賄えないレベルの部屋をあてがわれ、私は恐る恐る背後へと振り返った。
「…あの、これほどのお部屋のお代をお支払いする事は…」
「何言ってるの、リュシー。そんなの、全てラシュレー家が負担するに決まっているじゃない。掃除も家人にやらせるから、あなたもノエミも気にしなくて好いわ。…ね、それよりも、どう?あなたに合うんじゃないかなと思って調度品を色々揃えたんだけど、気に入ってくれたかしら?」
「え、ええ、それはもう、こんな質の良い物をご用意いただけるだなんて…」
キラキラと目を輝かせるマリアンヌ様に促され、私はベッドに置かれていた枕を手に取った。枕には羽毛がたっぷりと詰め込まれて弾力があり、圧し当てた掌を柔らかく包み込む。布団やマットレスにも羽毛や羊毛がふんだんに使われ、とても寝心地が良さそうだ。私は枕の手触りを確かめてラシュレー家の心遣いに深い感謝を覚えながら、湧き上がった疑問を口にする。
「…でも、少し気になる事が…」
「あら、何か気に入らない所でもあった?」
「…何で、枕が二つ並んでいるんですか?」
「あら。だって、どうせじきに使うでしょ?」
「いや、使う予定なんてないですからっ!大体、何に使うんですか!?」
「頭乗せるために決まっているじゃない」
「いや、枕の用途じゃなくってっ!」
私はマリアンヌ様へと振り返り、ベッドを指差しながら問い質した。ベッドは一人で眠るには大き過ぎるクイーンサイズだし、上部に備え付けられた豪奢な天蓋からレースのカーテンが艶めかしい弧を描いて開かれ、寝所へと誘っている。その、明らかに眠る時以外の用途を連想させる装飾を指差し、真っ赤な顔でがなり立てる私に、マリアンヌ様が扇子で口を隠し、目を細めた。
「そんなの、あなただって聞かなくてもわかるでしょう?泊まりの時とか」
「泊まりって、自宅ですけどっ!?」
「盛り上がっちゃった時とか」
「盛り上がっちゃうって、何にっ!?」
「女子会かしら」
「…」
しれっとのたまったマリアンヌ様の言葉に私は硬直し、顔から火を噴き上げる。え?確かに貴族社会における婦人同士の交流は重要だけどさ、それって女子会って言うの?私、知らないんだけどっ!?
真っ赤な彫像と化した私を、マリアンヌ様は扇子を煽りながら心ゆくまで鑑賞した後、身を翻してソファに足を向け、腰を下ろす。
「まぁ、枕の一つくらい、その辺に置いておきなさい。邪魔にはならないし、いざという時に素っ裸で探し回るのは、情けないわよ?…それよりも、あなた、オーギュストから話は聞いた?三国会合の事」
「女子会って、裸でやるんですか?」
「その話はもう好いから」
私は小首を傾げながらソファへと向かい、マリアンヌ様の正面に腰を下ろすと、扇子を払って先ほどの話題を吹き飛ばしているマリアンヌ様に答える。
「えぇ、お伺いしました。何でも、獣王国の王太女が親善仕合に出場されるとか…」
「まったく。所変われば品変わると言うけれど、帝国では到底考えられないわね」
私の応えにマリアンヌ様が上を向き、扇子で顔を扇ぎながら呆れ声を上げる。やがてマリアンヌ様は扇子を畳み、唇に添えながら溜息をついた。
「そこまで聞いているなら、話は早いわ。リュシー、悪いけどお願いね?」
「はい、お任せ下さい。マリアンヌ様」
「頼んだわよ、どうしても負けるわけにはいかないんだから」
「…え?それはどういう意味ですか?」
「え?あの人から聞いてないの?」
マリアンヌ様の言葉に引っ掛かりを覚え、私が問い掛けると、マリアンヌ様も驚いたように目を瞬かせた。暫くの間互いに見つめ合った後、マリアンヌ様が顔を寄せ、声を低める。
「…良くない噂があるのよ。王太女がシリルの事をお気に召したようで、仕合に勝ったら獣王国への婿入りを要求して来るのではないかって」
ドクン。
「…え?」
マリアンヌ様が齎した不吉な言葉が、私の心を揺さぶった。私は次第に早まる鼓動を必死に整えながら、前のめりになって話を聞く。
「あの国の人達は本当に乱暴で、気に入った相手を手に入れるために決闘するのは当たり前、略奪婚も珍しくないみたい。それを国内でやるのは一向に構わないけど、その流儀を此方にまで押し付けないで欲しいわ」
「あ、あの…それは流石にお断りすべきでは…」
「そういうわけにも行かないのよ」
私が恐る恐る提言するも、マリアンヌ様は頭を振り、目を閉じて諦めたように溜息をつく。
「形の上では王配となるわけだから帝国も歓迎だろうし、その要求を断ったら獣王国と再び全面戦争へと突入しかねないわ。最前線に立つラシュレーとしても、戦争だけは何としても避けなければならないしね」
「し、しかし、坊ちゃんが獣王国に行かれたら、御家はどなたが…」
「その時は仕方ないけど、コルネイユ家から養子を貰い受け、跡継ぎに立てるしかないわね。あそこは4人も男子が居るから」
「…」
既に最悪の事態を想定し、淡々と対策を講じるマリアンヌ様の言葉に、心の中の不安が一気に膨れ上がる。
ドクン、ドクン、ドクン。
仕合に負けたら、坊ちゃんがラシュレー家から居なくなる。
勝負に敗れたら、坊ちゃんが獣王国へと連れ去られてしまう。
王太女との戦いに敗れたら、坊ちゃんは王太女のものとなり、私と離れ離れになってしまう。
『――― リュシー・オランド!お前は俺のものだ!お前は絶対に、俺から離れるな!』
「…マリアンヌ様、お任せ下さい」
「…リュシー?」
私は、心の中に湧き上がった炎の勢いに身を任せ、マリアンヌ様に宣言した。ラシュレー家に捧げた忠誠心が別の熱い想いと嫉妬の渦に呑み込まれ、不安と共に焼き尽くされる。私は爪が掌に食い込むほど拳を強く握り締め、不退転の決意を目に湛えながら、目の前に居ない敵に向けて傲然と言い放った。
「…坊ちゃんは、誰にも渡しません」
***
「…あ、坊ちゃん」
「…」
マリアンヌ様との話を終え、お見送りするために部屋の扉を開けたところで、坊ちゃんと鉢合わせした。私の姿を見た途端硬直し、みるみる顔を赤くする坊ちゃんに小首を傾げていると、背後からマリアンヌ様が顔を出す。
「あ、シリル、丁度良かったわ!見て行きなさいよ、新しいリュシーの部屋!」
「お、おい、お袋…」
「あ、あの、マリアンヌ様?」
マリアンヌ様が目を爛々と輝かせて坊ちゃんの手を取り、私の部屋へと引き入れる。マリアンヌ様は渋々と従う坊ちゃんの手を引いて部屋の中へと進むと、空いた手を翻し、堂々と宣言した。
「どう、シリル!?素敵な部屋でしょ!?」
「…」
いや、マリアンヌ様、何故坊ちゃんを真っ先にベッドへと誘導するんですか。そして坊ちゃんも、何で枕から目を離さないんですか。
仲良く並ぶ二つの枕を、真っ赤な顔でガン見する坊ちゃんの姿に、私までみるみる赤くなる。部屋の中に直立する二体の赤い彫像に向けて、マリアンヌ様がにこやかに手を振った。
「それじゃぁ、後は若い二人だけでごゆっくりぃ」
「え、ちょ」
バタン。
我に返った私が入口へと振り返ると、廊下へと消えたマリアンヌ様の掌だけが、入口の外でひらひらと揺れ動く。直後に扉が大きな音を立てて閉ざされ、やがて訪れた静寂の中に坊ちゃんと私の二人が取り残された。
「…あ、あの、坊ちゃん…」
「…悪いな、色々苦労をかけて」
サンタピエから帰る途中で起きたシチュエーションの再来に、私は顔を真っ赤にしてしどろもどろで口を開いたが、坊ちゃんの言葉が重なった。坊ちゃんは私に背を向け、ベッドを見つめたまま、子供が仲直りを求めるような突き放し方で呟く。
「…けど、もう少しだけ、俺に時間をくれないか?そうしたら、ちゃんとケリをつけるから…」
「え?」
トクン。
坊ちゃんの一言が、私の心を波立たせた。坊ちゃんの言葉が私の心に波紋を広げ、互いに反響し合っていつまでも心を揺らす。
トクン、トクン、トクン…。
「…あ、はい。大丈夫ですよ、坊ちゃん。私は、いつでも傍に居ますから」
「そうか。悪いな」
私が坊ちゃんの背中に向かって想いを告げると、坊ちゃんは私に背を向けたまま一つ頷き、そのまま扉を開けて部屋を出た。自分の部屋に向かって歩を進め、暫くして足を止めると、肩越しに背後へと振り返って眉を顰める。
「…今日はもう好いぞ?長旅で疲れただろうから、ゆっくり休め」
「え、いや、大丈夫ですよ。どうせ坊ちゃんの部屋でゴロゴロするだけだし」
「お前、俺の部屋を何だと思っているんだ…」
背後に立つ私の言い草に、坊ちゃんは呆れたように溜息をつくと、正面を向いて歩き始める。私は二三歩走って坊ちゃんに追いつくと、並んで歩きながら人差し指を立てて、提案した。
「坊ちゃん、喉、乾きません?ノエミに紅茶でも淹れて貰いましょうか」
「あぁ、頼む」
「はい。あと、何か美味しいお菓子も用意して貰いますね?」
私はつっけんどんな坊ちゃんの答えに愛想を返しながら、心の中で宣言する。
…この関係は、私だけのものだ。――― 王太女、貴方には絶対に渡さない。




