62:オオルリの価値
リュシーを従えて私室へと戻って来たオーギュストは、部屋で待機していたマリアンヌへと声を掛けた。
「マリアンヌ、此方の話は終わった。リュシーを連れて、案内してくれ」
「畏まりました。リュシー、こっちよ。ついて来て」
「はい。旦那様、それでは失礼します」
「ああ、後はゆっくり休むんだよ」
オーギュストと入れ違いに部屋を出て行くマリアンヌに従いながら、リュシーがにこやかに頭を下げる。オーギュストは手を挙げながら笑顔でリュシーを送り出し、部屋にはオーギュストとシリルの二人だけが残された。
「やれやれ…、彼女もなかなか独創的な思考の持ち主で、話の展開が読めないな…」
「…」
半ば感心気味にボヤキを入れながら腰を下ろすオーギュストの姿を、シリルは不貞腐れた表情で睨みつける。オーギュストが腰を落ち着け、お互いの視線が合うと、シリルは早々に口火を切った。
「…親父、さっきのはどういうつもりだ?俺はエルランジェ公の娘と結婚するつもりなど…」
「シリル、いつまで意地を張るつもりだ?」
シリルの言葉を、オーギュストが遮った。彼はソファに腰を下ろしたまま、睥睨するように自分の息子を見つめる。その、ダークブルーの瞳に秘められた見えない圧力の前に、シリルの舌が止まる。息子の舌を止めたオーギュストは、穏やかな抑揚に確固たる決意を籠め、ゆっくりと噛み砕くように話し始めた。
「手紙にも記した通り、お前の時間とリュシーの時間は違う。お前の一日一日は成長の糧となるが、彼女の一日一日は女性としての幸福な時間の浪費だ。お前の変な意地に彼女が拘束され、行く末も見つけられぬまま無為な時を過ごしている事が、私には耐えられないのだよ。お前は、彼女をこのまま朽ち果てさせるつもりなのか?」
「お、俺はそんなつもりじゃっ!?」
オーギュストの挑発にシリルは反論しようと腰を浮かすが、オーギュストが手を挙げて制する。シリルが渋々腰を下ろしたのを見届けると、オーギュストは再び口を開いた。
「…さっき、彼女に聞いたよ。私の娘にならないか、と。そうしたら、あの娘に断られた」
「っ!?アイツ、何で…!?」
オーギュストの言葉に、シリルは愕然とした。リュシーがラシュレー家の養女となりシリルと義姉弟になるという彼女の思い違いは、シリルにとって到底受け入れられない関係だが、それをリュシー自身が断ったとなると、事情が異なる。リュシーがラシュレー家とのこれ以上の関係を望まず、袂を分かつ覚悟があると読み取れるからだ。瞬く間に不安を露わにするシリルに、オーギュストが尋ねた。
「…何故彼女が断ってきたか、お前には理由が分かるかい?」
「…アイツ、何て言ってた?」
「――― お前の傍から片時も離れたくないからだと」
「…え?」
呆然とするシリルを余所に、オーギュストはテーブルの上に置かれていたペンを手に取った。ペンを両手で持ち、指で弄びながら、いじけるように不平を漏らす。
「…私の娘になったら、政略結婚の駒として何処かの家に嫁がされるか、生贄に差し出されると思っていたんだと。自分がそんな冷酷な主人だと思われていたなんて、ショックだよ…」
「…」
オーギュストの愚痴を聞いていたシリルの顔が、次第に赤くなる。ひとしきり愚痴を吐いたオーギュストはテーブルにペンを戻すと、正面に座る茹蛸に向かって話を続けた。
「まぁ、そんな事を言われては、私も大人しく引き下がるしかない。彼女を養女にするのは、諦めたよ」
「…親父」
リュシーの言葉尻を捕えてあっさりと身を引いたオーギュストに、シリルが顔を赤くしたまま恨めし気な目を向ける。拗ねたような表情を見せるシリルに、オーギュストが意地の悪い笑みを浮かべた。
「私があそこでタネ明かしをしたら、面白くないじゃないか。此処まで酷いすれ違いは過去に見た事がないが、双方低レベルで見事に釣り合いが取れている。当事者はさぞ楽しかろう。此処までお膳立てしてやったのだから、最後くらい自分で纏め上げろ。でないと、マリアンヌに一生ヘタレと言われるぞ?」
「チッ」
オーギュストの言い草に、シリルは視線を逸らして苦々しく舌打ちをする。負けを認めようとしない息子の態度をオーギュストは鼻で嗤った後、表情を改めた。
「それはそうと、エルランジェ公が齎した縁談。アレは、お前に対する私からの最後通牒だ」
オーギュストの言葉に、子供じみた表情でそっぽを向いていたシリルの視線が元に戻り、眉間に皴を寄せて父親を睨みつけた。オーギュストは、息子の鋭い眼光を真っ向から受け止めながら、造作もなく答える。
「リュシーのあの勘違いには流石の私も笑いを堪えるのに精一杯だったが、あのタイミングで話を持ち出してくれた事には感謝しかない。エルランジェ公の長女エヴリーヌとの縁談は、今当家が取り得る最善の選択だ。エルランジェ公が皇帝陛下の実弟だと言うのは、お前も知っているだろう?」
「…」
オーギュストの指摘に、シリルは父親を睨みつけたまま、沈黙で応じる。
カジミール・ド・エルランジェは、皇帝レオポルドの弟だ。兄レオポルドが即位した事で臣籍へと降下し、皇帝家の直轄領のうちエルランジェ領を賜って公爵となった。口を開こうとしないシリルに噛んで含めるように、オーギュストの説明が続く。
「帝国では、傍系の皇族が爵位を賜れるのは孫の代まで。それ以降は騎士階級となり、領地を子孫に引き継ぐ事ができず、皇帝家に返還される。それが分かっているから、エルランジェ公も娘の血筋を良家に残そうと躍起になっているのだ」
帝国は、皇族の血の氾濫と爵位の乱発を防ぐため、傍系の皇族の爵位の継承を認めていなかった。新たな皇帝が即位するとその兄弟は臣籍へと降下し、直轄領の一部を分封されて公爵となる。ただしその領地は世襲ではなく、公爵位も一代限り。子の代は侯爵へと位が下がり、爵位に伴って新たな領地へと転封されるのだ。孫の代は更に爵位が下がって伯爵となり、もう一度転封が繰り返される。そして孫の代までに目覚ましい功績を残して新たな爵位を賜る事ができなければ、曾孫の代は騎士階級となって領地も与えられず、事実上傍系の血筋が絶える事になるのだ。そのため傍系の皇族達は、息子を婿養子として他家に送り出すか、娘を良家に嫁がせる事で己の血を残そうと画策していた。
そしてオーギュストは、エルランジェ公からの縁談に、ラシュレー家ならではのメリットを見い出している。
「いいか、シリル。ラシュレーは、帝国で唯一の世襲の公爵家だ。他家から見れば何としてでも自陣に引き込みたい相手であり、それだけ勧誘や干渉の標的となりやすい。それが次期当主の配偶者ともなれば、どの家も目の色を変えて押し寄せて来る。その事は、お前もこれまでの他家との交流の中で、身に染みたはずだ。
だが、エルランジェ公は違う。彼の直系はいずれ爵位を手放し、市井に埋もれるだろう。だから彼は、自分の直系の強化よりも娘の嫁ぎ先を優先する。当家から見ればそれは岳家(嫁の実家)の干渉を免れて独立性を保てる事を意味し、しかも彼自身は未だ皇位継承権を持つ帝国有数の有力者だ。彼の血を受け入れる事で、当家が得られる恩恵は計り知れない」
ラシュレー家が帝国で別格とされる、もう一つの理由。それが、帝国唯一の世襲の公爵家である事。ラシュレー以外の公爵家は全て傍系の皇族であり、一代限りだ。100年前、当時のラシュレー国王が形式的な帝国への編入に同意した際、国法に明記させた効果が、此処にも表れていた。
更にはエルランジェ公だけでなく、長女エヴリーヌ自身にも無視できないメリットがある。
「それにエヴリーヌ嬢は12歳だが、生まれてからずっと南方のエルランジェ領で生活していたそうだ。つまり彼女は未だ帝都の『極彩色』に染まっていない、当家と同じ『田舎者』だ。彼女は噂に違わず美しく健康に恵まれ、その年齢に相応しい素直さと純心さを兼ね備えている。余計な『虫』が付かぬよう、お前と顔合わせした後、即座に自領へと戻した公の姿勢にも好感が持てる。我々『田舎者』にとって、帝都の過度な装飾や浪費と無縁である事は、非常に重要だ。
…そして、未だ12歳である事。これも、お前とリュシーにとって意味がある」
「…え?」
それまでシリルの眉間にずっと刻まれていた深い縦皴が、オーギュストの指摘を聞いて緩む。
「現在12歳。お前との結婚が18歳として、あと6年。つまり、お前の猶予はあと6年となるわけだ。6年後となれば、リュシーは29だ。幾らどんくさいお前でも、流石にそこまで答えを引き延ばすつもりは、ないだろう?」
「あ、当たり前だろうがっ!」
売り言葉に買い言葉。オーギュストの挑発に、流石のシリルも眦を上げて断言する。息子が餌に食いついた事にオーギュストは内心でほくそ笑み、穏やかに微笑んだ。
「だったらこの縁談を呑んで、6年以内に決着をつけろ。言っておくがこの縁談を蹴ったら、より極彩色の女付きで、締め切りが近くなるぞ?」
「わ、わかったよ、親父っ!…クソっ!」
地団駄を踏む勢いで了承する息子の姿に、オーギュストは内心でガッツポーズを決める。
一度婚約したら、その後リュシーと結婚したからと言って破棄できるわけではない。頭に血が上っているシリルはどうやらその事に気づいていないようだが、それを教えるのは婚約を済ませてからにしよう。長年頭を悩ませてきた嫁取り問題が第1夫人まで一気に解決し、オーギュストは上機嫌で功労者を褒め称えた。
「…まったく。これだけの良縁を絶妙なタイミングで提示するとは…、見当違いも一周回れば、智者と変わりがないな」




