60:訣別
「…ぶっ、くくく…マ、マリアンヌ、シリルを連れて席を外してくれ。少し、リュシーと二人で話がしたい」
「ぷぷぷ…か、畏まりました」
何かと騒がしい坊ちゃんを床に組み伏せていると、背中を向けて震えていたお義父様が振り返ってそう答え、マリアンヌ様が近づいて来て坊ちゃんの腕を取った。私が拘束を解くと、坊ちゃんはマリアンヌ様の手を借りて身を起こしながら、お義父様を問い質す。
「お、親父っ!今度はリュシーに何を吹き込むつもりだ!?」
「…お前が危惧するような事は、言うつもりはないよ。お前にも少し話したい事があるから、マリアンヌと一緒に待っていなさい」
「ほら、行くわよ、ヘタレ」
「おい、お袋!?」
坊ちゃんの追及に、お義父様は造作もなく答える。マリアンヌ様が坊ちゃんの手を引いて部屋を出て行き、部屋にはお義父様と私の二人だけが残された。私に向かいの席を指し示すと、お義父様も腰を下ろす。
「いやぁ、リュシー、よく伝えてくれた。危うくエルランジェ公に義理を欠くところだった。助かったよ、ありがとう」
「いえ、とんでもございません。私こそ、坊ちゃんの意を酌まず、差し出がましい事をいたしまして」
お義父様にしては珍しく、息子の不始末を謝る父親の表情で頭を下げ、私は席に腰を下ろしたまま一礼した。あの口ぶりからすると、坊ちゃんはこの場ではなく別の時に伝えるつもりだったが、私が先に言ってしまったもんだから怒っちゃったようだ。主人に対する配慮の欠けた行為に、些かの反省を籠めて陳謝すると、お義父様が苦笑する。
「いや、どうやらアイツは、この件を私達に伝えるつもりがなかったようだ。まったく、こういうところは未だに子供で、困ったものだ」
「そうなんですか?」
お義父様の口から出た感想に、私は内心で驚いた。坊ちゃんはラシュレー家の次期当主としての周囲からの期待に十二分に応えており、文武双方を修め、領民の尊敬も集めている。若干19歳にして聖鳳凰勲章を授与されるあたり、同世代の指導者層の中でも頭一つ抜きん出ていると思っていたのだが、お義父様から見ればまだまだ至らない点があるようだ。お義父様の指摘を受け、私はエルランジェ公の伝言を隠そうとする浅はかな考えに、5年前の坊ちゃんが見せた我が儘な態度を思い出し、思わず顔を綻ばせた。ソファに腰を下ろし、背筋を伸ばしたまま浮ついた気分で昔を懐かしんでいる私に、お義父様が柔らかな言葉を投げかける。
「…1年経って、考えは纏まったかね?」
「…あ…」
「…」
お義父様の柔らかな眼差しを受け、私は表情を改めた。お義父様のダークブルーの瞳の奥に、あの時の言葉が浮かび上がる。
『 ――― リュシー、私の家族になるつもりはないかい?』
「…あれから1年が経過したが、私の考えは変わっていない。君も1年間、リアンジュでシリルと一緒に過ごして、大分考えが固まったのではないかと思う。…よければ、答えを聞かせてくれないか?」
お義父様の問いに私は俯き、唇を噛んだ。お義父様が静かに見つめる中、心の中で相反する二つの想いがせめぎ合い、私は翻弄され、揺れ動いた。
「…あの、旦那様…」
やがて、片方の想いを捻じ伏せる覚悟を決めた私は顔を上げ、お義父様と向かい合った。お義父様の眼差しが捻じ伏せたはず想いを呼び起こし、私は未練と必死に戦いながら訣別の言葉を告げる。
「…身に余る光栄なお申し出ではございますが………お受けするわけには参りません…」
「…何故、そういう結論になったのだね?」
私の訣別の言葉を聞いても、お義父様のお顔は穏やかなままだった。落胆するわけでも怒り出すわけでもなく、一家人でしかないはずの私の気持ちを理解し、受け止めようとする姿だった。その、何もかも見通すダークブルーの視線を前に私は気恥ずかしさを覚え、再び下を向くとボソボソと呟くように答えた。
「…旦那様のお言葉は、私を天上にも昇る気持ちにさせました。私が旦那様に命を救われ、ラシュレー家に仕えるようになってから11年。その私が有り難くも旦那様の養女となってラシュレー家の人柱として身を捧げるという、またとない報恩の機会を旦那様より直々にいただき、この上ない歓びを感じております」
「…ん?」
私は意を決して顔を上げ、首を捻るお義父様に、リアンジュで新たに湧き上がった想いを打ち明ける。
「ですが私は、5年前、あの戦いで坊ちゃんと約束してしまったのです。生きて帰ったら、私は坊ちゃんのものになると!坊ちゃんの傍らから決して離れないと!…あの時は生死の境を彷徨っていたため、ずっと忘れていたのですが、リアンジュでの生活の中で思い出しました。
…旦那様。ラシュレー家の養女になると言う旦那様のご提案は、私の理想とも言えるお話であり、その機会を下さった事に私は感涙しております。ですが、此処で私が提案を受けたら、いずれ私は坊ちゃんの許を離れなければなりません。私は、坊ちゃんの許を離れるわけには参りません。…ですから、旦那様。誠に畏れ多い申し出ではございますが、このまま坊ちゃんの傍らに居る事を、お許し下さい!」
言葉を絞り出した私は目を瞑って勢い良く頭を下げ、心の中でお義父様に最後の別れを告げた。
…心の中でお義父様とお呼びするのも、これが最後です。さようなら、お義父様…。
「…リュシー、顔を上げてくれないか?」
「は、はい…」
旦那様に促され、私は恐る恐る顔を上げた。瞼の力を緩め目を開くと、向かいに座る旦那様が指で顎を擦りながら目をぐるぐると回し、思考に耽る様子が映し出される。
「…君は、その…私の養女になった後、どういう将来が待ち受けていると考えたのかね?」
「…あ、はい…おそらくは何処かの高位貴族の許に嫁がされるか、あるいは高貴な儀式の生贄に饗されるものと…」
私が推測を述べた途端、目まぐるしく動いていた旦那様の目と指が急停止した。彫像のように動かなくなった旦那様の姿に、私は恐る恐る尋ねる。
「…あ、あの、旦那様?」
「…そうか、そう来たか…」
私が声を掛けると、旦那様の指が再び動き始めた。横に目を向けたまま顎を擦る旦那様の口が次第に綻ぶ。やがて旦那様は指で顎を擦りながらニマニマと笑みを浮かべ、私に目を向けた。
「…分かった。私も言葉足らずだったようで、色々悩ませてすまなかったな。君の養女の話は、撤回しよう。これまで通りシリルの側付きとして傍らを離れず、アイツを支えてくれ」
「ありがとうございます」
旦那様の言葉に、私は一抹の寂しさと安堵を覚えながら、静かに頭を下げた。下を向いた私の頭頂部に旦那様の質問が突き刺さる。
「その代わり、君に一つ尋ねたい。――― 君は将来、シリルとどういう関係になりたいのだね?」
「…え?」
「…」
思わぬ質問に私が顔を上げると、旦那様と目が合った。ダークブルーの視線が、私の心を見透かすように射込まれる。
「…アイツの傍らに居続けるにしても、色々な関係が考えられる。君はその中で何を望んでいるんだい?」
「そ、それは私が決める事ではなく、坊ちゃんが決めるべき事ですから…」
私は旦那様の視線から逃れるように、赤くなった顔を背ける。
物事を決めるのは、ものではない。持ち主だ。ものは、願いを口にしてはいけない。
トクン、トクン、トクン…。
私の戒めを嘲笑うかのように、心臓に巣食うマグマが蠢く。私は心に蓋をし、喉を通ってマグマが外に溢れ出そうとするのを、口を噤んで防いだ。押し黙った私を、旦那様の言葉が揺さぶる。
「それはシリルの都合であって、君の望みではない。…1年前のお茶会で、私が言った言葉を忘れたのかい?」
「…え?」
顔を上げた私の前で、旦那様が口を開いた。テーブルを挟んで向かいに座る旦那様が、1年前と同じ言葉を繰り返す。
「――― 生きなさい、リュシー・オランド。誰よりも、自分のために生きなさい」
「…誰よりも自分のために…」
旦那様が発した言葉を、私はうわ言のように呟いた。1年前のあの時は、私を叱り付けるように。今は、私を優しく諭すように。旦那様の温かな言葉が私の心に染み渡り、鼓動を高める。
トクン、トクン、トクン…。
「…リュシー。私は君に、幸せになって欲しいのだよ。ラシュレー家のではなく、自分の幸せを求めて欲しいのだよ。君は自分を抑え過ぎる。己を偽り過ぎる。だから、君がシリルの傍らに居たいのであれば、どういう形で居たいのか、本当の想いを聞かせてくれ。…多分私は、それを叶えてあげられるよ?」
――― ドクン。
旦那様の言葉が私の心臓を掻き立て、決して私如きが望んではいけない厚かましい欲求が、頭をもたげた。私は胸を押さえ、喘ぐように深呼吸を繰り返しながら、旦那様に答える。
ドクン、ドクン、ドクン…。
「…わ、私は、坊ちゃんの傍に居られれば、それだけで…」
「…やれやれ、君も随分と意固地なものだ。誰の得にもならないのに」
「…」
溜息の混じった感想に私は後ろめたさを覚え、力なく俯いた。顔色を窺うように恐る恐る視線を戻すと、旦那様が腕を組んで目を閉じ、ウンウンと頷きを繰り返している。
「…まあ、今、無理に口にする必要もない。時間はまだあるから、ゆっくり考えなさい」
「…はい」
追及を逃れ、内心で一息ついた私に、旦那様が新たな話題を持ちかける。
「その件は、また今度にしよう。…リュシー、三国会合の場で、君に頼みたい事があるんだ」




