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53:揺れ動く想い

 ―――


 シリルへ


 まずは聖鳳凰勲章授与、おめでとう。


 あぁ、この手紙を書いている時点ではまだだろうが、陛下からその内定を伺っている。些か先走り過ぎている感は否めないが、この手紙を渡すのは授与後にするようレイモンに伝えておくから、そこは勘弁してもらおう。私が聖鳳凰勲章を授与したのは28歳、三国停戦協定の時だから、お前は私より9年も早い事になる。流石は私の自慢の息子だ。


 さて、この一年でお前は多くの貴重な経験を得る事ができただろう。お前は決して妥協する性格ではないし、アンデッドとの戦いはラシュレー領で起きる諍いとは全く次元が異なるものだ。アンデッドは話が通じる相手ではなく、力を誇示して追い返す事も出来ない。損害を気にせず、戦いに必須であるはずの士気さえも不要な敵が如何に恐ろしい存在か、お前も身に染みたであろう。その経験を持ち帰り、ラシュレーの防衛に役立ててくれる事を、期待しているぞ。


 リュシーは元気でいるかい?サン=スクレーヌから遠く離れた北部戦線の地で、体を崩していないかい?彼女が黒衣の未亡人(ブラック・ウィドウ)の瘴気を克服し、健康な体を取り戻している事は重々承知しているのだが、それでも私もマリアンヌも気が気でならないのだ。ラシュレー夫妻をしてこのような気持ちにさせるとは、あの()も随分と罪深いものだ。


 彼女は一途で素直な娘だ。その事はお前も当然知っているだろう。お前が何を思って結論を先延ばししているのか私は知らないが、そろそろ男として決断すべき頃ではないか?彼女はもう23歳。今、お前の過ごす一日一日は成長の糧となるが、彼女の過ごす一日一日は女性としての幸せと婚期の浪費でしかないのだ。お前が結論を先延ばしするたびに、彼女の幸せが一日ずつ減っている事を、肝に銘じたまえ。


 お前は私の自慢の息子だが、同時に彼女も実の娘のように想っている。私は、二人が幸せな人生を送る事を願っている。できればその人生が別々ではなく、同じ道であって欲しいと願っているがね。


 リュシーには、戻ったら褒美として何でも一つ叶えてやろうと伝えておいた。愛娘からどんな無理難題が降り注ぐか、今から楽しみだ。


 最後に。三国停戦協定で定められた7年毎の会合が、今年の秋に予定されている。今回からお前にも立ち会わせるから、それまでに帰って来てくれ。


 オーギュスト


 ―――


 ヘタレへ


 四の五の言っていないで、とっとと()()()()来い。


 母より


 ―――




「…ブッ!」


 レイモン達と別れ、リュシーを連れて自室へと戻ったシリルは、手紙に目を通した途端思わず吹き出した。その手紙に連ねられた言葉は大半がリュシーとの関係を迫るもので、とても本人には見せられない。机に置かれた手紙を凝視したまま顔を赤くするシリルの許にリュシーが近づき、肩越しに覗き込もうとした。


「坊ちゃん、旦那様からの手紙、何て書いてあったんですか?」

「っ!?お前、何、人の手紙、勝手に見ようとしているんだよっ!?」


 背後にリュシーの気配を感じたシリルは急いで机の上に覆い被さり、真っ赤な顔で睨みつける。机に伏せたまま振り返ったシリルの視線の先で、リュシーが唇を尖らせた。


「そんな水臭い事言わずに。坊ちゃんと私の仲じゃないですか」

「お前、さっき自分で言った事忘れたのか!?叔父上も同じ事言っていただろうがっ!」

「ちぇっ」


 シリルががなり立てると、リュシーは口を(すぼ)めながらも大人しく引き下がる。彼の許を離れたリュシーはシリルのベッドに腰掛け、そのまま横倒しとなって布団に身を預けた。ベッドが軋み、主張の激しい二つの膨らみが両腕の間から押し出され、服の上からでも否応なしに強調される。その、持ち主の何も考えていないあけすけで無防備な態度と、両親の手紙に書かれた言葉が揃ってシリルを(けしか)け、彼は体の奥底から湧き上がる獣欲に必死に抗いながら、ベッドに広がる二つの丘から視線を引き剥がした。


 クソっ!人の気も知らないで、能天気に寝っ転がりやがって!お前、まさか他の男の前でもそんな態度を取っていないだろうなっ!?


「あの日」から5年を経て、彼のプライドは健やかに成長して高さを増し、順調に(こじ)れていた。両親の有言無言の圧力は日を追うごとに強くなり、体の成長と共に己の獣欲も激しさを増し、次第に制御が利かなくなっている。リュシーに注がれる他人の目も気になり、常に彼女を傍らに置いて目を光らせておかなければ、気が済まなくなった。必然的に彼女の無防備で挑発的な姿を繰り返し目にする事になり、彼の獣欲とプライドの成長を無尽蔵に促進する。


 …負けるものか。今度こそ、絶対に「勝って」みせる。


 勝者も敗者も自分のみ。対戦相手は、その勝負の存在にさえ気づいていない。


 彼はその事に気づかぬまま、一人孤独な戦いを続けていた。




 ***


 …私、浅ましいな…。


 トクン、トクン、トクン…。


 私の心臓に巣食うマグマ(欲望)が、今も蠢いている。


 私は坊ちゃんのベッドに腰掛け、そのまま上半身を横倒しにしてベッドに横たえた格好で、机に向かう坊ちゃんの横顔を眺めていた。両腕を(すぼ)めて己の胸を絞り出すように突き出しても、坊ちゃんは此方に目を向けようとせず、顔を真っ赤にしたまま、ひたすら手紙を睨みつけている。


 いつ坊ちゃんが押し寄せ、ベッドに横たわる私の服を剥ぎ取るのか。いつ坊ちゃんの熱い視線の前に、二つの張りのある膨らみを(さら)け出す事になるのか。


 さっきからずっと期待の鐘を奏でていた心音が時と共に次第に小さくなり、切なさを帯びる。私は心音が齎す、締め付けられるような想いに唇を噛み、ベッドに横たわったまま、坊ちゃんに救いの目を向けた。




 サンタピエからの帰り、二人きりで過ごした一夜からすでに4ヶ月。


 あの後も坊ちゃんの態度は変わる事なく、私達は今までと同じような毎日を過ごしていた。坊ちゃんは相変わらず何処に行くにしても私を連れ回し、そのくせ何か明確な仕事を課すわけでもなく、私のしたいように任せていた。私はそんな坊ちゃんに従い、まるで犬猫のように坊ちゃんの後を付いて回り、一人で好き勝手な事をしていた。


 だけど、その4ヶ月の間に、私の行動が少しずつ変化していた。以前の私は坊ちゃんの小言係を自任していたから、坊ちゃんへの口出しも堅苦しい正論が多かったと思う。だけど、最近の私はそう言った小言よりも、他愛もない日常の出来事に声を上げ、坊ちゃんの意識を振り向かせるような発言が増えた。そして坊ちゃんと二人きりの時は、殊更(ことさら)坊ちゃんの傍に近づいたり、ベッドやソファに寝っ転がって、坊ちゃんの反応を窺うようになった。


 それはまるで、一人気ままに動き回る猫から、構って欲しくて主人に纏わりつく犬へと変貌を遂げたかのように。


 だけど、そんな私の変化に坊ちゃんは気づかず、時折不機嫌そうに私を追い払いながら、相も変わらず私を傍に置き続けている。




 …坊ちゃんが私に望んでいるのは、こんな中途半端な関係なのかな。坊ちゃんは、私を()()()()()で見ていないのかな。


 私の胸が坊ちゃんのドストライクである事は、日々の坊ちゃんの視線から確信している。だけど、坊ちゃんは一向に私にそういった欲望を向ける様子はなく、己を律し続けている。坊ちゃんにはラシュレー家の跡継ぎとしてのお立場があり、坊ちゃんもそれを強く意識し、振る舞っている。だから、私やノエミみたいな家人には手を出さず、ラシュレーの血を継ぐに相応しい相手を見定めているのかも知れない。…帝都の御令嬢方を撫で斬りにしている辺り、そのハードルは恐ろしく高そうだけれども。


 …男の人って、もっと欲望に忠実で荒々しいモノだと思ったんだけどな。


 私は殊更(ことさら)大げさな動きで寝返りを打ち、ベッドの上で仰向けになった。ベッドが軋みを上げ、天井の木目が視界に飛び込んでくる。…そう言えば、あの時もこんな姿勢だったっけ。5年前、坊ちゃんの前で自分の体を曝け出した時の事を思い出し、あの時の再現を期待しながら呆けていると、視界の外から坊ちゃんの声が流れて来た。


「…そう言えば、お前、どうするんだ?」

「…どうするって…何がですか?」


 私がベッドの上で仰向けになったまま顔を上げると、坊ちゃんが身を起こし、椅子に腰掛けたまま此方に顔を向けている。


「褒賞金の事だよ。お前、いきなり白金貨50枚も貰って、ちゃんと管理できるのか?」

「…あぁ…」


 坊ちゃんの追及に合点がいった私は、天井へと目を向ける。


 自慢じゃないが、私は掃除洗濯炊事裁縫壊滅の、家事破壊者(デストロイヤー)だ。おまけにズボラでいい加減だから、家計簿も付けられない。これが軍事、国家レベルになると、お義父様の薫陶のおかげで把握できるのだけれど、個人の財布までスケールダウンすると、途端に駄目になるんだよね。そんな私がいきなり白金貨50枚なんて大金貰ったって管理できるわけもないし、この後も子爵夫人としての年金が毎年送られてくる。うん、このままでは穴の開いた器に水を注ぐかのように、みんな何処かに消えちゃうな。私は天井に向かって一つ頷き、再び顔を上げて坊ちゃんに目を向けた


「坊ちゃん、その事でお願いがあります」

「何だ?」

「ノエミを私に下さい」

「…は?」




 ***


「えええええええええっ!?それじゃあ、私はリュシーさんの許に身売りですか!?」

「お前、何をどう解釈したら、そういう結論になるんだ?」


 部屋に呼び出されたノエミが話を聞いて仰天し、坊ちゃんが顔を顰める。坊ちゃんはこめかみに指を添えて頭痛を堪えながら、ノエミにもう一度説明を始めた。


「さっきも言ったが、陛下の計らいによってリュシーは子爵夫人となった。だが、知っての通りコイツは家事全般ダメダメだからな。女帝(エンプレス)討伐の褒賞金と合わせ、莫大な金が転がり込んでも、このままでは手元に一枚も残らず、地面に垂れ流すだけだ。だからノエミ、お前がオランド家の家計を預かり、管理してくれないか、という相談だ」

「で、でも、何故それが私なんですか?私はまだ19歳のしがないメイドで、家計を預かった事なんて一度も…」

「それは、私が貴方を信頼しているからよ」


 おどおどと窺うような目を向けるノエミに私は微笑み、一本ずつ指を折りながらノエミの長所を挙げていく。


「貴方が自分の口から言い出さなくても、私は貴方の良いところ、いっぱい知っているわよ?掃除洗濯炊事裁縫万能で、特に貴方の淹れる紅茶とお菓子に対する熱意には、私達を唸らせるものがあるわ。しかもリアンジュに来てからずっとルームメイトである私の分まで全部やってくれたし、自分に妥協しないし誤魔化しもしない。若くて健康に優れ、目鼻立ちは整っていて体は慎ましく、気立ても良い。こんな優良物件、何処探したって早々見つからないわよ?」

「いや、ちょっと待って下さいよっ!今美辞麗句の中にサラっと毒混ぜましたよねっ!?」


 私が褒め称えているのに、何故かノエミが目を剥いて反論して来る。おかしいな、私から見たら全て長所なんだけど。おっきくても、肩が凝るだけだよ?私は首を傾げながら右手を上げ、人差し指と中指の2本の指を立てた。


「もし受けてくれるなら、ラシュレー家からのお給金とは別に、月に金貨20枚あげるわよ。これでどう?」

「に、20枚っ!?そんなにっ!?」


 前のめりで目を剥いていたノエミが、そのままの体勢で目を瞠る。ノエミからすれば、今までのお給金がほぼ倍増する事になるはずだ。私はノエミの百面相に破顔し、頷いた。


「ええ、勿論。その代わり、私の苦手な家事全般、全てお願いするわよ?掃除洗濯炊事裁縫、それと家計のやり繰り、よろしくね?」


 レイモン様から伺ったところでは、子爵夫人の年金は月に白金貨2枚、金貨換算で200枚になる。だからノエミに毎月20枚支払っても、全く問題ない。それにノエミは弟妹が多く、ラシュレー家からのお給金のほとんどを仕送りに回していると聞いた事がある。だから、私の条件に飛び付くはずだ。


「…で、ですが、シリル様はそれでよろしいのですか?それと家計を預かるのは初めてですから、どうしても不安が…」


 恐る恐る顔色を窺うノエミに坊ちゃんが頷き、私に親指を向ける。


「それは気にするな。ラシュレー家として、兼業を許可する。どうせ俺とコイツは四六時中一緒に居るからな、今までと大して変わらんだろ。それと家計については、サン=スクレーヌに戻った後、ラシュレーの家計に携わる者に繋いでやるから、ソイツから師事を受けろ。最初は目が回るほど忙しくなるだろうが、お前は要領が良い。きっとすぐに馴染めるだろうよ」


 この話は、ノエミの将来に対しても破格の条件だ。此処で数字を覚えれば、一介のメイドに留まらず、もっと上の職務に就く事が出来る。そうすれば彼女の収入は勿論、良縁にも恵まれるはずだ。坊ちゃんの後押しを受けたノエミが決心し、私に振り向いて姿勢を正した。


「…わかりました。この話、お受けいたします。リュシーさん、これから末永くお願いします」

「こちらこそ、よろしくね?」


 ノエミがラシュレー家に出仕してから3年。そして、リアンジュに来て7ヶ月余り。その間、私は坊ちゃんを通じてノエミと共に過ごし、彼女の為人(ひととなり)を知った。彼女は誠実で信頼が置ける素敵な女性で、私を裏切るような真似は、決してしない。そんな素敵な相手と交わり、自分の生活を託せる事に私は喜び、彼女と繋いでくれたラシュレー家に改めて感謝した。




「…でも、リュシーさん。サン=スクレーヌに戻ったら、どうされるおつもりですか?」

「え?…どうって?」


 私が良縁に恵まれた事を感謝していると、ノエミが私に尋ねて来た。要領を得ない質問に私が小首を傾げると、彼女が言葉を重ねて来る。


「…子爵夫人になられた事で、月に白金貨2枚も年金が入るんですよね?私がこんな事を言うのも何ですが、ラシュレー家に仕えなくても、生活に困らないんじゃないですか?」

「あぁ…」


 ノエミの質問に合点がいき、私の口から自然と笑みが零れる。


「…そんなの、決まっているじゃない。私はこれからもずっと、此処に居るわよ?」

「ずっと?」

「そう、ずっと」


 私が笑顔を浮かべながら背後へと振り返ると、そこには片眉を上げて胡乱気な表情を浮かべる、坊ちゃんの姿。


 トクン、トクン、トクン…。


 私は坊ちゃんの姿を目に焼き付け、心臓に巣食うマグマ(欲望)の蠢きに身を任せる。あの時の言葉が耳朶を焦がし、マグマ(欲望)の熱が胸を灼いて、湧き上がった吐息が唇を濡らす。私は自分の首に絡みつくチョーカーの魔法石を指で弄び、()()()にひけらかしながら、微笑んだ。


「だって、私は、―――」




『――― リュシー、早く約束を思い出せ。お前は、俺のものだ。お前は、他の誰にも渡さない』




「――― 坊ちゃんの、侍女だから」

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